26. 危機
「――――逃げてください、“ティレシア”さんっ!」
その一声で少女は目を覚ました。
こげ茶のくせ毛に、青い瞳。
幼げな顔立ちに特徴的になそばかすのある少女。
その少女――――“ティレシア”は、ぬかるんだあぜ道に尻餅をついていた。
路肩に転げ落ちた馬車。
絶え間なく聞こえてくる、罵声と怒号。
そして鉄のぶつかる鈍い音。
鎧を纏った騎士たちが、黒いローブを纏う謎の集団に立ち向かっている。
彼らは“教徒騎士団”。
“ジェリスティ”教に属する彼らは大陸でも一二を争う精鋭中の精鋭。
入団試験は世界的にも難しいとされ、その殆どが貴族階級の出であることでも有名だ。
そんな彼らが何人も、雨でぬかるんだ泥に顔を埋め、ピクリとも動かない。
――――死んでいた。
黒いローブの集団によって次から次へと、騎士たちは斬り伏せられていく。
悲鳴を上げる間もなく。
喉をかき掻き切られ、首を刎ねられ、胴を斬られて。
彼女は躯のヘルムから覗く虚ろなそれと目が合ってしまった。
冥い深淵から覗く一つの眼。
まるでそれが自分自身の非力を咎めているように見えてしまった。
「ひっ…………!」
彼女は引き攣るような声を上げ、後ずさる。
けれど足が思うように動かない。
ぬかるんだ泥が彼女のブーツを掴み、更に震える足がそれを拒む。
不意に、さっき声を掛けてきた騎士が再びティレシアに叫んだ。
「早く、早く逃げてッ!」
次の瞬間…………その騎士の頭が“飛んだ”。
ふわり。弧を描き、頭は鮮血をまき散らしながら飛んでいく。
残された首の断面が、更に血の雨を降らせる。
ティレシアの本能が訴える。
逃げろ――――逃げろ逃げろ逃げろ、と。
彼女は一目散に駆け出した。
どっちに向かって走っているかは分からない。
ただ今は逃げなければ。
あの黒いローブの集団から、少しでも遠くに。
雨がものすごい勢いで後ろに流れていく。
地面をたたく雨音が、まるで追手の足音のように聞こえて、彼女は耳を塞いだ。
そして歯を食いしばる。
これで恐怖が少しでも紛れてくれれば。
そう願う。
――――不意に、何かにぶつかる。
ティレシアは衝撃のあまりバランスを崩し、よろめく。
暗転たる夜空と、降りしきる雨が彼女の視界を埋め尽くし。
そして――――背中から地に落ちた。
「イタッ…………」
あまりの痛さに彼女は声を漏らす。
じんじんと痛む背中に、思わず涙を零した。
駄目だ。
今はこんなことしてる場合じゃない。
逃げなければ。
逃げなければ、殺される。
ティレシアは痛みをこらえ、ぐっと体を起こそうとして。
――――“それ”と目が合った。
目の前に突き出された真っ黒なローブから覗く、不気味に光る双眸。
その手には血まみれの短剣が握られていた。
恐らく、無念に散ったあの騎士たちの…………。
ティレシアは恐怖に息を飲む。
殺される。
あの騎士の最後が頭を過る。
自分も彼女のように、無残に斬り殺されてしまうのだと。
「や、やめてください――――」
ティレシアは震える声で懇願する。
しかし、黒いローブは聞き入れない。
その手がぐうっと、彼女に伸びてきて…………
――――ぺしゃんこに“潰れた”。
黒いローブの顔が、縦にぐしゃっと潰れる。
そして…………その体は“吹っ飛ばされた”。
まるで謎の力に引きずられるかの如く、男はティレシアの視界から消し飛ぶ。
彼女は驚き、それを目で追う。
吹き飛ばされたローブは木の幹に激突し、背中からずるりと滑り落ちて動かなくなってしまった。
彼女は理解が追い付かず、目をぱちくりさせながら視線を戻す。
そこには、さっきまでいなかった…………“二人組”がいた。
ローブの集団でも騎士でもない、変わった二人組が。
「――――ちょっと“ブラッド”。油断しないでって言ったでしょ!?」
「油断すんなって言われても、ずっと気張ってるのも疲れんだよ」
金色の撫で付け髪に、エメラルドグリーンの双眸。
地味な膝丈のロングコートと、よれた白いシャツに赤いネクタイの青年。
その横には、黒髪のパッツンから覗く碧眼に白く透き通った肌の美麗な女性が。
彼女はステッキを携えていたが、それにそぐわない軽装も身に着けている。
二人は言い争っていた。
「それが出来ないと後々困るんでしょーが!」
「あーうるさいうるさい! ちょっとくらいテキトーにやってもバチは当たんねえだろ!」
どちらも口を尖らせ、一歩たりとも譲らない。
がやがやと口喧嘩がヒートアップする中、ティレシアは新たな人影に気が付く。
ローブを纏った人々がずらり、言い争う二人を取り囲んでいる。
突然、その中の命知らずがブラッドリーに飛びかかった。
大きく剣を振り上げ、彼の首めがけてそれを振り下ろす…………
「――――“マグネート”!」
ブラッドリーが唱える。
すると彼に襲い掛かっていたローブの剣が何かに弾かれたように、高々と宙に吹き飛ばされていく。
他のローブたちはたじろぎ、一歩後ずさる。
皆たった今目の前で起こった謎の魔法に狼狽えていた。
「…………とりあえず、私に謝るのはこの後ね」
「言っておくが、お前に謝る事なんてねーよ」
ブラッドリーとリリアはコインのように背を合わせ、四方を取り囲むローブたちと相対する。
ブラッドリーの剣の薙ぎが、リリアの水属性魔法が先手を打った。
リリアの呪文で宙で氷の結晶が次々と集まって、大きな“つらら”を形作る。
何本も、何本も。
その隙に、ブラッドリーが時間を稼ぐため敵陣に斬り込む。
無謀にも彼に挑んだローブたちは、彼の一薙ぎに沈んでいく。
胴と足が無残に千切れ飛び、その後続が仲間の血を全身に浴びた。
ブラッドリーは宙のつららに目をやると、飛びのいて再びリリアの背後につく。
「こっちは大丈夫だ。さっさとやっちまえ」
「りょーかい。あなた、つららに当たらないでよね」
「んなわけあるか」
呆れてため息を吐くブラッドリー。その背中で、リリアは指揮棒を振るうように、ステッキでつららを操る。
次の瞬間、空から無数につららが降り注ぐ。
鋭く透き通った巨大なつららが、我が物顔で雨と共に降り注いだ。
ローブたちの頭に、肩に背中に。
つららは無慈悲にも彼らの体を内側から引き裂く。
体の体積を遥かに上回るそれらが入り込み、彼らは爆ぜるように散っていった。
やがて、最後の躯が地面にどさっと倒れる。
残されたのは無数の肉塊とおびただしい量の血。
そしてブラッドリーとリリアと…………ティレシアの三人だけだ。
「あ、ああわわわわわわわ」
ティレシアは足をガタガタと震わせ、怯えていた。
ひと月前までただの農民だった彼女にとって、彼らの殺戮ショーはあまりに刺激が強すぎたのだ。
彼女はごくりと息を飲む。
目の前の殺戮者は敵なのか、味方なのか。
敵の敵は必ずしも味方ではないということくらい、彼女でも分かっていた。
リリアは顔に飛び散った返り血を手で拭うと、地面に払い捨てる。
そして忌々し気に躯を見下ろした。
「やっぱり慣れないわね。人殺しって…………」
彼女がそう呟くと、同じく返り血に染まったブラッドリーが振り返る。
「無理すんなよリリア。俺が全部やっても良いんだからな」
「いえ、いいの。私…………もうとっくに覚悟はできてるから」
彼はリリアの物憂げな表情を心配そうに見つめていた。
が、それに気が付いた彼女は心配かけまいと、すぐにいつもの可愛げのない表情に戻す。
「それより、この子…………どうするの?」
ティレシアは一挙に視線が集まったのを感じる。
彼女は慌てふためきながら、手を突き出しささやかな抵抗を行う。
「や、止めて。お願いですから、殺さないでください…………」
怯える彼女をブラッドリーが笑った。
「おいおい。俺たちは取って食ったりなんかしねーよ」
「ええ。彼の言う通り。あなた、大丈夫?」
リリアが屈みこむと、ティレシアに優しく話しかける。
「私は“リリア・オクセル”。あなた、襲われてたみたいだけど大丈夫?」
「え」
ティレシアは何から話して良いか分からずあたふたしていると、リリアが優しく抱きしめた。
人の体温。
体の芯から伝わるその温もりで、彼女は冷静さを取り戻す。
そして安堵した途端、安心感のあまり涙を零してしまう。
「ありがとう、ございました」
ティレシアは涙ぐんだ声で感謝する。
「良いのよ。私たち、偶然通りかかっただけだから」
二人は雨の中抱き合う。
リリアは優しく彼女の背中を撫で、その金色の長髪に顔を埋めた。
と、痺れを切らしたブラッドリーが二人の背後から声を掛ける。
「それより、君とこの騎士たちはなんだ? 一体君と彼らに何があった?」
するとティレシアはそっとリリアの肩から顔を上げ、涙に潤んだ青い瞳で話す。
「私は――――“選ばれた”のです」




