3.
「…は、い?」
「あら、聞こえなかった?もう一度言うわね、あなたのお姉さまの「いや聞こえてはいるんだけど、えっどういうこと?待って、あれ?夢?」
「ふふ、現実に決まってるでしょ!」
…どうやら直感は当たっていたらしい。こいつ、狂ってる。
そうは思っても、先ほど逃げようとしてあっさりついて来られてしまっているので、走っても逃げ切れる気がしない。そもそもシーラの居場所などどこにもないのだから、完全に手詰まりだ。
「あなた家がないんでしょう」
どうしたものかと口をつぐんだシーラを見て、女が再び口を開いた。
「さっきも言ったけど、私は売ってもらいに来たのよ。きちんとお金は払います。あなたが向こう10年は暮らしていける分持ってきているの。勿論、家にも住めるわ。」
身分不相応の申し出だ。一介のホームレスに払う額とは到底思えない、想像もできない提案にシーラは目がチカチカした。
「…私をだまして、どっかに売り飛ばすつもり」
この国の身分証明書はすべて戸籍の番号が必須になる。番号が無いのは存在がないのと同じであるこの国は、こんなスラムがありつつも、大国であるがために国外から戸籍を取ろうと人身売買するケースも少なくない。幼いころ、シーラと仲が良かった少女も誘拐に遭い、姿を消していた。
「疑うのも無理ないわ。でもね、私、人身売買なんて興味ないの。正々堂々、あなたのお姉さまの戸籍が欲しいだけ。」
「でもいくらなんでも、あまりに途方もない額、こんなスラム出身のどうしようもない戸籍に」
いくらこの国が戸籍社会であろうと、経歴にはスラムの文字が印字される。スラム出身者に信用などない。他の土地で職を得ようとも、スラムというだけではじかれ、嘲笑と差別の的になる。
だからこの地に着たら最後、誰も出ていけないのだ。
それでも、人身売買しかり、喉から手が出るほど欲しい人間が実際にいるのは間違いない。
でも、だからといってそんな戸籍に大金を払う価値がどこにあるのだろう。
戸籍のために大金を貧乏人に払うなど聞いたことがない。
「戸籍をいただけたら事実上あなたは私の妹になるわけだし、対価としても、姉からの援助としても妥当だと思うわ。それに、」
「それに?」
「私、スラム出身になったとしてものし上がれる気がしてならないの」
女に冗談を言っているような雰囲気はない。至って真剣に、馬鹿なことを言っているのだ。
「さあ、どう?あなたにとって悪いことなんて一つもないでしょう?」
女は身の潔白でも証明するように両手を広げて見せた。
無論、悪い話ではない。出来すぎてるくらいなのだから。金をもらい、この町を出て3年もすれば、居住地に拍が付いて職も得られるかもしれない。何より、屋根の下で暮らせるのだ。このままでは野垂れ死にするしかなかったシーラにとって、まさに天からの恵みに他ならなかった。
ただ、一点だけ、問題があるとすれば。
「私の姉は殺された。誰かが戸籍を狙ってるのかもしれない。もし手に入れても、命を狙われるかも。そうなってからなかったことにしたいなんて言われても、無理だよ」
そう、姉は殺されている。ただ死んだのでも、失踪したのでもない。殺された。つまり、そこに見ず知らずの『人』がいるのだ。それも殺人犯の。とんだいわくつきである。
これが追い追い判明して、あとから金を返せと言われても、一度甘い汁を吸えばきっと自分が元に戻れないことをシーラは理解していた。
「それはないわ。だって、戸籍が欲しくてあなたのお姉さまを殺したのだとして、『殺した』事実を残している時点でおかしいでしょう。戸籍は『死亡』により無効よ」
女は腕を組んで少し考える仕草をしてから、そう断言した。
「まって、そしたらあんたも使えないじゃん」
「だってまだ死亡届出してないじゃない」
何言ってるの?と心底不思議そうに女が首を傾ける。
「…そういえば」
忙しくてすっかり忘れていた。役所に行く間もなく自分たちが暮らしていた貧困街よりさらに奥の掃きだめのような場所に来てしまい、その日一日を生き延びるしかない状態で、身の回りのことなど何も整理できていなかった。
そこでふと、肝心なことに考えついた。
…そもそもなぜ女は、私の姉が死んだことも、まだ死亡届が出されていないことも、知っているんだ?
「ねえなんで、そんなこと知ってるの」
もうこの女の事情を一人で思案することは無駄だと完全にわかっていたので、単刀直入に聞いた。
「殺されたのは今あなたから聞いたし…死亡届のことは、役所に行って、ちょちょいのチョイよ。あなたのことだけじゃなくて、この町の若い女の子のことは大体調べたの。どこかに浮いたちょうどいい年齢の戸籍ないかなーって、ね。そうしたら私の理想の状態なんだもの!神様からの贈り物だって思ったわ」
女は何でもないことのようにすぐ答えてくれた。
何の不審なこともない。訳アリらしい若いホームレス女の事情を掘ったら自分に好都合だったのだろう。ただ、途方もない作業だ。そこまでしてこの女は戸籍が欲しいらしい。
それにしても、贈り物…か。なんて現金な態度だろう。あきれると同時に、心の中で苦笑する。自分もついさっきそう思ったばかりだったのだから。
「とにかく、あなたがたまたま死亡届を出していなかったお陰で私は助かったけど、もし出されてたらその殺人犯はどうするつもりだったのか、って話でしょう?だから、その人の目的は戸籍じゃない。それとこれとはつながらないわ」
「あんたが殺人犯だってことも」
「私が殺人犯ならあなたも殺すわね」
間髪入れずにそう言い放ち、女は市場を眺めた。
至極まっとうな意見だ。
もうこれで、シーラにとって懸念事項など全くなくなった、というより、もう何を考えても今の地獄より良いように思えてならなかった。
もうどうにでもなれ!
シーラは小さな体にぐっと力を入れ、女をまっすぐ見て言った。
「わかった、私、あんたに売るよ、…姉さんの戸籍」
「本当?!ありがとう!!」
女はシーラが縦にうなずいたのを見て嬉しそうに両手でシーラの手をすくい上げ、胸元で握りしめて軽く飛び跳ねたので、シーラには女が急に幼く見えた。思ったよりも年が近いのかもしれない。
女は話し込んでいた陰から外に体を向ける。
「じゃ、早速、この市場を見て回りましょう!」
「え、取り引きは」
「そんなのあとあと!もう決まったことなんだから。それより私、散歩が楽しくてしょうがないの!」
そういってシーラを引っ張る女のクロシェの下から覗く大きな瞳は、限りなく黒に近い深い藍色に光が差して、とても綺麗だった。