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2.

「…あんた、誰?」

少しの沈黙を置いて、シーラは目の前で微笑んだままの女に警戒しつつ、声をかけた。

女は胸元にレースをあしらい細いウエストを品よくリボンで絞った紺色のワンピースに、シンプルなクロシェ、ローファー、旅行鞄を茶色でそろえていた。あまりに上等な服を着ているので、明らかにスラム街の路地裏に似合うような恰好ではない。よくここまで追いはぎにも合わずにやってこれたものだ、とシーラは不覚にも感心した。


「家出中の絶世の美女よ」


間髪入れずに、女は胸を張って意味不明なことを宣言した。


…こいつ、気が狂ってる。

これは早く離れるが勝ちだ、そう判断するや否や、シーラは大通りに向かって一気に走り出した。


___


ハアハア、ゼエ


…ここまでくれば大丈夫だろう。

大通りに出てから、後ろも振り向かず走り続け、入り組んだ路地裏市場に駆け込んだ。空腹で走ったせいでどっと疲れが押し寄せる。

ふと周りを見渡すと、市場はそろそろ動き出すようで、準備が進んでいた。

そういえばここには、姉が死んで以来来ていなかった。シーラはなんとなく懐かしくなって、少し見て回ろうとゆっくり歩きだす。これでもここら辺では一番大きな市場なだけあって、しなびた果物やら得体の知れない生き物やら、一癖も二癖もある商品がほとんどではあるものの、卵や肉、青々した野菜なんかも売られている。

進んでいくと、ちょっとしたアクセサリーが店先に並べられているのを見つけた。そういえば、姉と市場に来た時もこんな店に立ち寄った。


『今日はお客さんがおこずかいくれたから好きなものかったげる』


母が失踪して暫くたったころ、馬車馬のように働いていた姉が珍しくそんなことを言って市場に連れてきてくれたことがあった。あの時は今みたいにただ眺めるためにではなく、一つ選ばせてもらおうと立ち寄ったのだった。


『ああ、それはだめ!ちょっと予算オーバー』


『これは?これにしな!』


『やっぱそれはちょっと…うーん。これなんてどう?』


…記憶の中の姉さんはそう言ってどんどん安いアクセサリーを勧めてきたんだっけ。

びっくりするほどドケチで、思わず苦笑してしまう。結局あの日はめぼしいものも無く、何日か分の食料を買って帰ったのだった。


「嘘みたいに平和な時間だったなあ」


何かまぶしいものでも見るように目を細め、思わずそうつぶやいた。

あの後すぐ姉はさらに忙しくなり、シーラも姉を見守りながら家のことをしていたので、姉の殺されたあの日までついに一度も出かけることはなかった。


「へえ、素敵な時間を過ごしたことがあるのね」


…聞き覚えのある声が、すぐ後ろから聞こえてきた。

嘘みたいにのんびりとした声で、あろうことか、シーラの独り言を丁寧に拾った?


まさか。そんなはずはない。あんなに走ったのに?


ぎ、ぎ、ぎ、と音でもしそうな動作で後ろを振り向くと、先ほど巻いたはずの女が、まるでそこにいるのが当然とでもいうように立ち、嬉しそうにあたりを見渡している。


「なんてこと!これ市場?初めて来たわ!連れてきてくれてありがとう。優しいのねぇ、いいランニングにもなったわ」


この人何いってるんだ?予想外のことでとっさに言葉が出てこない。

汗もかかず息も上がらず、女は口元に綺麗な弧を作ってここにいる。

意味が分からない。


「な、な、なん」


「いきなり走り出したから驚いたけれど、こんな刺激的なところがあるなんて!」


女はシーラがうろたえるのもお構いなしに興奮気味で話しながら、あたりを興味津々で見回している。今にも準備中の店にちょっかいをかけて回りそうな勢いだ。


若干のタイムラグののち、茫然としていたシーラも我に返って声を出した。


「なんなの?!私はあんたを知らない!誰なんだよ!!」


やっとのことで出た声は思いのほか大きかったようで、周囲を歩くくたびれた人たちがこちらを迷惑そうに睨んできた。

いたたまれなくなって身を縮め、女の手を引っ張って市場のわきによる。


「そういう割に手を握るなんて、意外と人懐っこいのね」


「意味わからないこと言わないで、質問に答えてよ」


「はじめて話が通じる人に会えたわ!ここの人は全然話が通じなくて不便したのよ」


「私にはあんたが一番通じてないけど」


はて?みたいな顔が腹立つが、質問をもう一度繰り返し聞く。


「あんた、誰?」


「『あんた』じゃないわ。家出中レディよ。ミスレディと呼んで頂戴。あらやだ、それは少し変ね」


まるで質問の答えになってないし一人で盛り上がり始めたが、無視して続ける。


「じゃあさ、なんで私に目を付けたわけ?ストーカー?あ、やめて、心外!みたいな顔しないで、それこっちの気持ちだから」


だんだん話しているうちに、シーラ自身久しぶりに人とまともな会話できて喜ぶ自分がいることに気が付いた。正直普通の会話とは言い難いが、それでも最近は罵声を浴びせられるくらいで人と会話らしい会話をしていなかったので、これでも大分ましだった。


「ああ、新入りの若いホームレスが入ったって聞いたから」


女はやっと真面目に質問に答えてくれた。まだ行き交う人や出店が気になるようで、ちらちらと市場のほうに目をやっている。そんなに珍しいものだとはシーラには到底思えないので、構わず次の質問を投げかける。


「どうしてそんなこと…誰に?」


「名前は知らないわ。途中であった方。あなたの名前まではご存じなかったみたいだけど…。ここはやっぱり情報交換が大事よね」


「すぐ分かったわけ?」


探すのに一晩かかったけどね、と女は笑う。

何でもないことのように言っているが、自力で名前も知らないホームレスを探し当てたのか。シーラは目の前の女が何者なのか、聞けば聞くほどわからなくなった。


「じゃあ初めから私のこと探してたってこと?」


「まあ、そうね」


「なんで」


「なんでってそれは、」


女は出会ってはじめて少し緊張したように短く息を吸い、一拍置いてから、改めて出会った時のようなさわやかな笑顔を作り、言った。


「あなたのお姉さまの戸籍、売ってもらいに来たの。」


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