ようこそ!紅兎亭へ‼︎
善仁は扉をノックしようとしてその手を止めた。部屋の中から女性の喘ぎ声とベッドと床が軋む音が聞こえてきたからだ。
はぁ、と一つため息をつく。善仁は左手に持った、エールの入ったピッチャーとタンブラーを乗せたお盆を傾けないように注意しながら、改めてその扉をノックする。
返事は無い。変わらず喘ぎ声とリズミカルな音が聞こえてくるだけだ。もう一度ノックする。何も変わらない。音は聞こえ続けている。
あぁ、またか。
善仁は眉間に皺を作りながら目を閉じてしばらく何も考えないようにする。意を決して取っ手に手をかけ、そっと扉を開けた。
驚くほど狭い部屋に入ると、今まさにベッドの上で男女の死闘が繰り広げられているところだった。
5分3ラウンド制だとして、今は一体何ラウンド目かな?
さあ今夜は一体どちらが勝つのか?解説の佐藤さん、KO決着はあるのでしょうか。
などと、現実逃避も兼ねて善仁は頭の中でボケたおす。
「あ。ロティ、そこに置いといて。ありがとー」
ベッドの上で男の下になっている彼女は善仁に気づいたのか、いきなり喘ぐのを止めたかと思うとテーブルの上に酒を置いて行くように指示をして来た。
極力気配を消そうとして小さくなっている善仁は、まずテーブルの上に置かれた酒札を回収し、音を立てないようにお盆ごとエールをテーブルに乗せた後、そそくさと退散しようとする。
「あ、あと女将に伝えといてー。このお客さん、泊まりになったからってさ」
ベッドの彼女は追加で伝言を頼んで来る。善仁は声を出さずに頷くことで了解の意を示す。
横目でチラ見すると、幸い彼女に覆い被さっている男は荒い息を吐きながら夢中で腰を振り続けていて、こちらを気にする気配はない。
彼女はまた喘ぎ声を出し始めたが、まるっきり、完璧に演技だと分かるお粗末な声色だった。
善仁は中腰の低い姿勢のまま、するりと部屋から抜け出して扉を閉める。
はぁ、とまたため息をついたタイミングで、部屋の中から狼の遠吠えを思わせる男の唸り声が聞こえて来た。
どうやら果てたらしい。
港町ロデオンの歓楽街「無鉄砲通り」にあるここ、「紅兎亭」で善仁が働き始めてから、早くも七日が経とうとしていた。
「紅兎亭」は明るいうちから酒浸りになりに来るような、ろくでも無い連中で賑わう酒場と、普通の宿泊客も泊まってはいくが、主には売春宿として使われている宿屋とが一体になった構造の建物だ。
評判が良いのか、はたまたこの街の景気が良いからか、なかなかに繁盛しているらしくいつも賑わっており、宿屋を営む関係上、朝も昼も夜も途切れる事無く建物の中で人が動いている。
そこで善仁は小間使いのような仕事をして、昼前から真夜中過ぎ頃まで連日こき使われていた。
とにかく常にやる事があって忙しいのだが、さほど難しい仕事があるわけでもなく、善仁はすでにこの建物の中で行われている仕事の全体の仕組みや構造を把握しつつある。とは言え、
(あのオヤジ、何が良い仕事を紹介する、だよ。立ちっぱなし、動きっぱなしでほとんど肉体労働じゃないか!)
善仁は心の中で愚痴をこぼし、ここに来る前の、外回りとデスクワークに追われていた日々を思い返していた。
帝国の南部に位置する港町ロデオンの経済は、主に漁業と交易によって支えられている。
地理的に近い要塞都市ビィズバーンが商売のお得意様で、朝イチで水揚げされた魚は市場で競りにかけられるのだが、そのほとんどがビィズバーンから来た仲買人によって買い取られ、出荷されていく。
魚などという足の早い物が大量に買われて行くのは本来なら有り得ない話ではある。
しかし先代の皇帝が行った大規模な公共事業の一環で、ビィズバーンからロデオンまでの道がかなり力を入れて整備された。
移動にかかる時間が大幅に短縮された結果、氷室から切り出した氷を使って馬車で運べば、ほぼ鮮度を落とさずにロデオン産の魚介類をビィズバーンに輸送して、食卓に並べる事が出来るまでになったのである。
その結果、ロデオンの漁獲量はビィズバーンの需要に応える形で年々増加していき、その売り上げによってもたらされる利益は、海上交易の中継地点として細々と維持されていたロデオンを、そこらの地方都市にも負けないほどに成長させた。
そこに発生する様々な利権に引き寄せられ、所帯を構えたならず者たちの中に、ゴンドール一家が居たのである。
ちなみにロデオン産の魚は脂が良く乗っていてサイズが大きく、何より美味なのだそうで、他の漁場の魚よりも高値で取引されるとの事だ。
この街に着いてから、善仁は毎日のように仕事が始まるまでの自由時間を使って街を散策した。他にする事がないのだ。
街の人々は午前中から忙しく働いており、通りは活気に溢れている。
この街の北にある一番大きな門から、港がある南の海岸まで一本の幅の広い目抜き通りが通っており、そこから街の左右に、まるで木の枝が伸びるかのように道が走って拡がっていくのだった。
忙しなく動いている街並みの中を何をするでもなくぶらぶらと散策し、見学した結果、善仁の中で一つの結論が出た。
ここは、この世界は善仁が知る世界ではない。
おそらくではあるが、あのクリスマス・イヴの夜に起こった謎の現象によって、どういった原理なのかは不明だが、善仁が元居た世界からこの世界へ、移動させられた、連れてこられたと考える他に、現状を説明しようが無い。
そう考える根拠だが、まず元居た世界と文明のレベルが明らかに違う。かなり遅れている。
善仁の目に飛び込んでくる様々な物、起きている事が中世ヨーロッパあたりの文明と社会を彷彿とさせる。
建物はほとんど石と木でできているし、電気が通ってない。どこにも電化製品らしきものが無い。もちろんテレビやスマホなんてどこにも見当たらない。
ガスも使われて無い。火が必要な時は薪を燃やして使っている。灯油どころか何だったら石炭さえも、どこの家も使ってないようだ。
車もまったく走ってない。行商人らしき人たちが押している手押し車と、馬車ぐらいしか車輪が付いている物を見ていない。
プラスチックやビニールといった化学製品にもまったくお目にかかれない。ありとあらゆる製品が、自然の状態からローテクな加工を施された物ばかりだ。
街を歩いている人たちも、善仁がよく知っている元居た世界の人間とは、やはり少し違っている。
特徴的なのは耳の形だ。すれ違う人たち、どの人を見ても耳の先が尖っており、ヴィータ嬢のように横に長く伸びた耳をした人もちらほら見かける。
そしてここに来た時に着ていた服を捨てられた善仁自身も含め、彼らが着ている服なのだが、何というか「時代がかっている」の一言で表現できる。服の生地にせよ、その縫製にせよ、どれも手作り感がすごい。
どう見ても大量生産品で無い事は明らかで、裕福そうな者は上等で柔らかそうな生地の服を身に纏い、貧しそうな人や道端に座りこんでいる物乞いの服は、哀れなほどに粗雑でボロボロだった。
生活に関しても、時計というものがないので、日の傾きなどで大体の時間を測るしかない。曇りと雨の日は、今が一体何時なのかよく分からなくなる。
一応町役場があり、そこで日付など暦は確認できるらしいが、そういった基本的な情報を簡単に得られない事に、善仁はここに来た頃は少なからずストレスを感じていた。
今ではそういった情報がなくても実際にはあまり困らないという事に気づいたので、いつの間にか善仁は時間をあまり気にしない事に決めたのだった。
困った事といえばトイレだ。水洗トイレなんてものはどこにも無く、どこのトイレを使っても、善仁の衛生観念からすると耐えられないレベルで汚いと感じてしまう。
トイレットペーパーなんてものも存在しない。今では善仁はその辺に茂っている観葉植物などの大きめの葉っぱを常に何枚か、「紅兎亭」から支給された服のポケットに常備するようになった。紙で拭くほどには快適ではないが、無いよりマシだ。
挙げていけばまだまだあるが、大体そのあたりが、「佐藤善仁」改め「ロト・アウリス」がこの七日間で得た、この街とこの世界に関する情報だった。
分からない事はまだまだ沢山あるし、ちょくちょく不安な気持ちにもなるが、ジタバタしても始まらないと今の善仁は考えている。
あの後、ピコロ親方の口利きでその日のうちにここで働くために連れてこられた。
簡単に女将による面接を受けた後、旅の疲れも癒えないままに酒場の給仕に駆り出され、右も左も分からないまま駆け回った。
クタクタのボロボロになって泥のように眠った最初の夜の事を、善仁はよく覚えている。
ここニ、三年はずっと寝つきが悪く、眠りも浅かった事がまるで嘘のように、「紅兎亭」に来てからは毎晩ぐっすり眠れていた。
そう言えば名付け親のピコロ親方に命名されて以来、まわりの人間は彼を「ロト」、もしくは少しくだけて「ロティ」と呼んでくるようになった。
「アウリス」と呼んでくる者は今のところ居ない。おそらくは短くて呼びやすい方を選んでいるのか、あるいは最初から「ロト」の方だけで紹介されているからだと思われる。
(……まあ名前なんて、どうとでも呼んでくれればいいさ)
心の中で独り言を言いながら、仕事に戻るため善仁は部屋を後にする。
聞きたくもない、男が果てる時に出した声がまだ耳にこびりついていた。
出てきた部屋とは別の部屋からも聞こえてくる切なそうな女性の喘ぎ声にげんなりしながら、二階の回廊を渡り、階段を降りる。
一階の酒場を通りながら、周りの状況に目を配る。酒場は大盛況で、ほとんど全てのテーブルが埋まり、あちこちで客が立ち飲みをしている。
店舗の入り口から溢れて外の通りにまで客が居るようだ。今夜はいつにも増して大盛況だ。
いきなり酒場の一角から怒声が響く。どうやら喧嘩のようだ。
酒瓶や料理の皿が床にぶちまけられ、派手に割れる音が聞こえる。
港町という土地柄によるものなのか、それともこの世界の男たちが基本的に喧嘩っ早いのか、もしくは単純に酒に呑まれての事なのか、理由はともかく、この酒場では毎日のように客同士のトラブルが起こる。
善仁が覚えている限り、働き始めた初日から今日まで、喧嘩が起きない日は一日として無かった。もう慣れっこになってしまった善仁だが、初日に目の前でゴツい男どもが喧嘩を始めた時は本当に怖かった。
(皿が割れた……器物損壊。という事は弁償させるためにザラスかユードあたりが店に来るな)
そう冷静に判断できるまでになった自分の適応能力に、善仁は我が事ながら感心していた。
酒に娼婦の商売と来れば、どうしたってトラブルは付いて回る。従業員や娼婦に乱暴を働く男も少なからず居るのだ。
この「紅兎亭」で面倒事が発生した場合、店から誰か使いが走り、軽薄なウィードが命名するところの「モラン疾走団」のうちの誰かが解決しに来る。
そしていつも見事に場を収めて帰っていくのだった。主に暴力を用いて。
善仁が驚いたのはザラスの強さだ。
いつだったかは忘れたが、騒ぎを聞いてやって来たザラスにごろつき三人が食ってかかった。ザラスも180センチほどの身長があり体格もいいが、相手の三人ともが、なんとそのザラスより大きかった。
にもかかわらずその三人を、ザラスは1分もしないうちに綺麗にたたんで見せたのだ。拳で。
善仁が見る限りザラスの強さは喧嘩慣れしているとかいう次元ではなく、くぐった修羅場の数が常人とはまるで違う事を物語っていた。
まあ、あのくらいの騒ぎなら簡単に収まるだろう。自分に出来る事があるわけでも無いし。
そう思った善仁は気を取り直して店舗の奥に向かうのだった。