ピコロ親方
「……とまぁ、そんなわけでこの二人をここまで連れてきた次第です」
その言葉でモランは説明を締めくくった。彼の話を聞いているのかいないのか、目の前の男は膝の上に座る毛玉のような動物の、その柔らかそうな毛皮を撫でている。その動物は太った猫と狸の中間のような見た目だが、撫でると気持ちよさそうな毛並みだな、と善仁は思った。
撫でている男も小太りと言える体型だ。ペットは飼い主に似るというやつだろうか。全体的に体のシルエットが丸っこく、顎の下、首の周りにしっかり肉が付いている。
小太りの男は灰色の髪を短く刈り込み、鼻の下には口髭を蓄えていた。光沢のあるガウンのような部屋着を羽織り、上等な革を貼った椅子に深く腰掛けていた彼は、おもむろに目の前の机の上にあるパイプに手を伸ばす。
彼の膝の上の愛玩動物はその隙に机の上に飛び乗り、お行儀よく香箱座りに座り直した。
椅子に座った彼がモランが言っていたピコロ親方なのは間違いない。この部屋に入る前にモランから失礼の無いように、聞かれた事だけ答えるようにと注意も受けた。
この男の首にかかっている首飾りの輝きは本物の金のものだろうし、パイプを摘んだ太い指にはゴテゴテと幾つも指輪が嵌められている。その指輪も金、銀でできた輪の部分や台座に大粒の宝石が嵌まっており、いかにも高価そうな造りをしている。
それらの装飾品を見ただけでも、この男がどういう立場にいる人間なのか、窺い知ることができるようだった。
街に着いた後、一行は検問で簡単な取り調べを受けた後、歓楽街の雰囲気漂う街の一角を訪れた。
酒場や宿屋、物売りの屋台が並ぶ活気に溢れた一帯に、塀で囲まれた、周りのものよりも圧倒的に立派な建物があった。そこがピコロ親方の邸宅らしく、一行の中でもモラン、善仁、シュツカだけが塀の中に入ることを許された。あとのメンバーは外で待機している。
通された部屋はそれほど広くはないが、壁や天井に使われている建材の材質や入口の両開きの扉の造りを見るに、この建物自体なかなかの金をかけているように思える。
見るものに重厚感を感じさせる机、鉢に植えられた観葉植物。壁に掛けられた立派な額縁入りの大きな絵。床に敷かれた複雑な模様の絨毯。
それらから受けるこの部屋全体の印象は、企業の重役室といったものだ。
もしくは……マフィアやヤクザの事務所か。部屋の中央に、親方に向き合う形でモラン、善仁、シュツカが立っており、部屋の壁に張り付くように、おそらくは親方の部下であろう男たちが壁を背にして立っている。
善仁もシュツカも、拘束はすでに解かれている。
親方がその太い指に似合わない器用な手つきでパイプに刻んだタバコの葉を詰めると、傍に控えていた男が、長めの爪楊枝のような細い木の棒を燭台の蝋燭の炎にかざして火を移す。
そして片方の手で壁を作って風でその火が消えないようにしながら、親方のパイプまで持っていく。
親方は木の棒の火でパイプのタバコに着火し、ぷかぷかと吸い込みながら火をタバコの葉に回す。
一拍おいて吸い込んだ後、ゆっくりとまたパイプから煙を吐き出す。
善仁が想像していたよりもやや少なめの紫煙が立ち昇り、煙草の香りが辺りに充満した。
(クッソ、美味そうに吸うなぁ……)
クリスマス・イヴの夜に起きた謎の現象以来、手元に無いので既に一日近く煙草が吸えていない善仁にとって、目の前で美味そうにタバコを燻らされるのは軽い拷問だった。正直一服でいいから分けてもらいたい。
痒いかさぶたを掻くのを我慢しているようなイライラする感覚を抱えながら、この場にいるピコロ親方以外の人間がそうであるように、善仁も直立不動で立っている。
「自分ではどうするべきか判断できないので、親方のご意見を頂きたいと考えております」
モランは抑揚の無い、あまり感情を感じさせない調子で話している。何というか、とても事務的な印象を受ける。
親方は不意に視線をモランに向けたかと思うと、モランの後ろに立っている善仁と、善仁の横にいるシュツカを順番に見た。二度ほどパイプから煙が昇った後に、
「ふぅーん。しかし人質といっても、牢屋に閉じ込めとくのもどうかと思うしの。本来はそれが一番安全とは思うが、見張りに人を割くのもアホらしいし、それで銭になるわけでも無いし」
この部屋に入ってから親方が初めて口を開いた。何というか、思ったよりフランクな言葉遣いだ。
「親方はこの二人に人質としての価値が有るとお考えですか?」
モランは親方に疑問を投げかける。
親方はパイプに詰めたタバコの葉を、机の上の灰皿に落とし始めた。
「まあ、まずはそこなんよな。……なあ、お姉ちゃん。こいつの話じゃあんたは聖女様っちゅう事なんだが、証拠を見せて欲しいよね。神殿の巫女を名乗るんだったら、あんたの〝聖紋〟を拝ませてもらえんかね?」
親方はシュツカに話しかける。シュツカは明らかに動揺したようで、ビクッと体を震わせた。
それから力なく怯えた様子で、顔を左右にゆっくりと動かしながら部屋の中にいる者たちを見回していく。
「見せちゃいかん事になっとるのは知っとるが、ええでしょう?別に減るモンでもあるまいし」
親方はシュツカをじっと見据えたまま、再度促す。
(〝せいもん〟?何だそれ?しかし見事にわかりやすく怯えてるなぁ)
善仁が横目でシュツカの様子を観察していると、彼女は動かしていた視線を善仁に向けて固まった。そのまましばらく善仁を見つめていたが、何かを決心したのか一つハッキリと息を吐くと、いきなり羽織っていたマントを脱ぎ始めた。
いつの間にか彼女の傍に立っていた男が、脱いだマントを彼女から受け取る。マントの下に隠されていた彼女の服装が男たちの視線に晒される。
(んん!これは、なんていうか……露出が多いな)
善仁が抱いた感想はそれだった。
「神殿」とか「巫女」というだけあって、宗教的な意匠の服なのだが、肩とか背中とか、胸元とか、ザックリ開いて、肌が露出している。
彼女の白い肌が、燭台の蝋燭の明かりに照らされて光を反射する。その様は何というか、神々しいと言うべきなのだろうか?露出の多い服を見て少し頭をもたげた劣情は、すぐさま引っ込んだ。
(まあ、彼女以外は男しか居ないこの部屋で、この格好になれって言われたらそりゃ怖いよな……)
さらにシュツカはそのまま肩にかけている布を外し、より背中を露出させてから、その痩せた背中をピコロ親方の方に向けた。善仁の目にも彼女の背中と、そこに在るものが映るが、それを見た時、善仁は眉を顰めた。
彼女の背中には、何かしらの紋様が、肌に血が滲む事で浮かび上がっていた。
プツプツと、赤黒く変色したごく小さな血の塊が紋様の上に無数に付着している。見ているだけでその痛みが伝わってきそうだ。
彼女の肌の白さのせいで、かえってその痛々しさが浮き彫りになっている。
「ほおー。これが〝聖紋〟……いや、傷になってるから〝聖痕〟か。確かにこれは。……うム。このような神秘を拝めるとは……ありがたや、ありがたや。……うん。お姉ちゃん。もうええよ。服を直しておくれ」
シュツカは肩に布をかけ直して服を整え、男に預けていたマントを受け取り、羽織り直す。
「信用しよう。あんたは神殿の聖女様で間違いない。それも単なる「祈り手」じゃあない。「巫女」だ。であれば、マッシモ親方が港町の顔役で、なおかつ容疑の重要参考人とは言え、流石に「巫女」とだったら交換に応じるはずだわな。まあ、向こうがどこまで本気でマッシモを処刑台に送りたがってるか、にも寄るが。……うん。安心してええよ。信用した以上、逃げたりバカなマネをせん限り人質として丁重に扱うと約束するよ」
そう話す親方の目には何とも言葉にできない鋭さがあるように見える。さて、と一旦区切って、親方は今度は善仁の方を向く。
「問題はあんただよね。お兄ちゃん。モランの話も要領を得ないし、あんた自身が自分の身元を証明できない。儂らの商売は相手の事が分からんのはとても困るわけなんよね。これが。得体の知れんモンを例え人質とは言え内部に入れるわけにはいかんというか。そもそも人質としての価値も怪しいモンだしの。だからできる事なら儂らゴンドール一家のシマから、というかこの街から出て行って貰いたいところではある。ただ、このお兄ちゃんは誘拐の目撃者でもあるんよなあ、外に放り出して儂らのした事を誰かに話されても困るし……どうしたもんかのう?」
(どうしたもんかって……こっちに聞かれても。それに何だ、俺自身の都合とかは全く関係ないってのか?)
親方が言う事をこちらに都合よく解釈するのであれば、つまり拘束を解いて解放すると言う事か?いや可能性は低いか。
しかし万が一そうだったとして、こんな何も分からない土地でほっぽり出されてもそれはそれで困る。と、善仁は思う。
「ボルトルン、今週の奴隷のリクエストはどんなのが来とるかね?」
親方が傍に控えている男に向かって言う。男は何やらゴワゴワした紙の束を取り出したかと思うと、その内の一枚に目を落としながら答える。
「はい、親方。マーヴィーから鉱山奴隷、カリエステから剣闘奴隷のリクエストがあります」
(いやいやちょっと待て、今「奴隷」って言ったよな?「奴隷」って、あの「奴隷」か?)
いきなり話の雲行きが怪しくなって来た。
「ふぅーん。どっちでも買い叩かれそうよなあ、これじゃあ……。一般奴隷の方のリクエストは無いんかいな?」
「はい、親方。今週はありません」
親方は善仁を見据えたまま話している。「これ」呼ばわりされた善仁はあまりいい気分がしない。それに「奴隷」なんて単語が飛び交っている。
とにかく嫌な予感しかしないと善仁が思っていると、モランが口を開いた。
「親方、これはうちのザラスも言っていた事なんですが、自分はこの男をどんな形であれ外に放り出すのは得策では無いと思います」
モランが口を挟んだ事が引っ掛かったのか、ボルトルンと呼ばれた男の表情が少し剣呑な雰囲気に変わる。しかし親方の方は表情を変えずに、……いや、まるで能面を思わせるような無表情で言葉を返す。
「ほーう。じゃあやっぱり消えてもらうのが一番手っ取り早いんかね?」
案の定、嫌な予感が当たりそうだ。消えてもらうというのは、つまり「殺す」という意味で間違いないだろう。目の前の二人がまるで現実感のない会話をしている。
彼らが犯罪行為に手を染める事を躊躇しないのは、善仁とシュツカを拉致し、ここまで強制的に連行してきた事からも明らかだ。まさかとは思いつつも、善仁は胃のあたりが、冷たく、雑巾を絞るように縮んでいくのを感じた。
シュツカも同様らしく、親方の言葉を聞いた途端、彼女の体がビクッと震えた。彼女の事を言われているわけでは無いにせよ、おそらく目の前の小太りの男が、人一人の生殺与奪を決定する権力を持っている事実を実感し、その事に恐怖を感じたからだろう。
「いえ、消してしまっては安全なことは安全ですが、あまりにメリットが有りません。それに短絡的だと思います。聖女様も俺たちを信用できなくなるでしょう。それにこれはあくまで個人的な意見ですが、自分はこの男と話してみて、あまりバカな真似をするタイプではないと判断してます」
モランの言葉からは意識的に声に力を込めている様子が感じられる。もしかして、助けようとしてくれているのだろうか?
「じゃあ、お前の言い分を聞くんだとしたら、ウチで何かしら使い道を探すっちゅう事かな?」
「自分はそれが良いかと考えます」
その時、親方の目が蛇のように冷たい光を宿すのを善仁は見逃さなかった。
「じゃあこのお兄ちゃんの身元はモランが責任を持って預かるという事でええな。そこまで言うなら分かってるとは思うがモラン、何かあったらお前にケツを拭いてもらうよ」
「はい。承知しました」
善仁は自分がこのピコロ親方という人物に嫌悪感を抱いている事に気づいていた。
おそらく親方には善仁を殺して問題を解決するようなつもりはさらさら無く、初めからモランが善仁に関する責任を全部自分で負う方向に、話を持って行きたかったのだろう。
自分では責任を負わず、誰かに肩代わりさせる。そして自分はまんまとメリットを享受する。
善仁がさんざん苦い思いをさせられてきた人種だ。
「よっしゃ、よっしゃ、話はまとまったな。良かったねえ、お二人さん。ゴンドール一家はあんたらを、ちゃあんと、預かるからの。逃げたりしたらいかんよ。この辺り一帯は儂らの庭みたいなモンだからね。あっさり捕まって無駄にお仕置きされるだけだからね。聖女様と……えーと、ヨシ・ヒトだったかいな?……言いにくいね、あんたの名前。……そうだ!儂が名付け親になってやろう。どうせ身寄りもおらんのだろ?んー。何にしようかな?そうね……ロトゥ……アウ……うん‼︎〝ロト・アウリス〟‼︎これでどうだ?良い名前だと思わんか?」
良い名前なのか?善仁には判断しかねる。視界の端でボルトルンと呼ばれた男が苦笑したような、小馬鹿にしたような、そんな微笑を浮かべた。
もしかして卑猥なスラングとかじゃないだろうな。善仁は少し不安になる。
「安心してええよ、ちゃんと良い仕事を紹介してあげるから。〝ゴンドールはケジメをつける〟。これ、ウチのモットーね。ロト、聖女様、ちゃんと覚えといてな」
急に機嫌が良くなった親方がニコニコと笑顔で話しかけてくる。
「ボルトルン、ハンナのとこに使いを出したってよ。今からモランが二人連れて行くから、モランと話し合って、ええようにしてやってって」
「はい、親方。すぐに行かせます」
親方は置いていたパイプを手に取り、また器用な手つきでパイプに刻んだタバコの葉を詰め始めた。