俺にその手を汚せと言うのか
善仁は自分の耳を疑った。ピコロ親方は善仁がゴンドール一家に加入する条件として、善仁にワーグナスを殺すように求めてきた。
「自分の言葉には責任を持ってよね、ロト。その覚悟を儂らに見せておくれ」
ワーグナスがいきなりその身をよじって暴れ出した。猿ぐつわを噛まされているので何を言っているのかは不明だが、うーうーと、顔を真っ赤にしながら呻いている。
「何か言いたい事が有るみたいだから、だれか猿ぐつわを取ったってよ」
ピコロ親方の命令で、ワーグナスの猿ぐつわが外される。物凄い形相をしたワーグナスが、口角泡を飛ばすといった様子で喚き始めた。
「ふ……、ふざけるな‼︎このごろつきどもめ‼︎儂を誰だと思っているのだ⁉︎聖職者を手にかけようなどと、何という不敬であろうか‼︎神への冒涜である‼︎お主ら普段からこのような悪事ばかり働いておるのか⁉︎間違いなく地獄へ堕ちるぞ‼︎」
まるで溢れ出すかのようにワーグナスは捲くし立てた。息継ぎなしで喋ったのと、怒りからだろう、ぜいぜいと肩で息をしている。
「……これだから坊さんは嫌いなんよね、儂。偉そうにしてる癖して何ひとつ理解してない。見ていて何というか……、哀れになって来るよ」
「な、なんじゃと⁉︎儂が何も理解していない?……お主一体何を言って……」
ピコロ親方の言葉にワーグナスは怪訝な顔をする。
「儂らとっくに地獄に堕ちてるじゃないの。この世という地獄にね。神殿に引きこもって、分厚い石の壁に守られてたら、そんな当たり前の事にも気付かなくなるんだろうね。嗚呼、可哀想、可哀想。むしろ今からあんたらが大好きな神の御許に送ってあげようってんだから、こちらとしては感謝こそされ、そんな風に罵られる筋合いは無いんよね、お分かり?」
「お、お主……。狂っておるのか……?」
ワーグナスの顔に得体の知れないものに対する恐怖が混じり始める。
「ほんと、失敬な爺いだね、あんた。ここまで来て自分の立場が分かって無いの?ほんと、度し難い愚かさだね」
ピコロ親方は表情に少し苛立ちを滲ませながら話す。
「狂ってるって言うなら、人が生きていく事そのものが狂ってるようなもんじゃないの。富める者も貧しい者も、健やかな者も病に倒れた者も、老いも若きも男も女も、いつかは必ず死んで終わりが来るのよ。それなのに皆必死で生きようとする。いつかは死んで、全てが無かった事になるのに。これが狂ってないと言うのなら、一体何をもって狂ってるって言うんかいな?ええ?」
思いがけずピコロ親方の人生観、死生観を聞く事になった。それにしても、凄まじい虚無主義だと善仁は思う。
「神様にお願い、助けてって祈ってりゃそれで済むあんたらとは、そもそも生きてる世界が違うのよ、儂らは。儂らの神様が決めたルールはたったひとつ、〝力こそ全て〟、これだけよ‼︎」
ピコロ親方の言葉には異常なまでの情念がこもっているように感じる。自分の演説に酔っているのだろうか?
しかしピコロ親方は、そんな自分に気付いたのか、急にトーンダウンした。少し恥ずかしそうに咳払いをする。
「まあ、そういうわけだから、あんたはウチの新しい〝愚か者〟の犠牲になって頂戴な。ロト、この爺さん五月蝿いから、早くやっちゃってくれんかね?イライラして儂が殺しちゃいそうだよ」
ワーグナスは善仁の方を見た。その目は完全に恐怖に囚われている。
善仁はというと、先ほどピコロ親方が言っていた言葉が頭の中をぐるぐると巡って、離れないでいた。
(あまりにも救いが無さ過ぎて、到底受け入れられないような話だったが、何でだろう、親方の言葉にはとんでもなく説得力が有るような気がする。拒絶できないくらいに、ある意味真理を突いているような……)
そう思う善仁の脳裏にはシュツカの幻影が浮かんでいた。祈って救われるなら、シュツカは死なずに済んでいた。もし神の力や奇跡がこの世界に存在していたなら、彼女の人生は悲しみではなく、喜びで埋められていた筈だ。
善仁は渡された手斧の柄を握りしめる。
(もしこの期に及んで俺がワーグナスを殺すのを拒否したら、ピコロ親方は間違いなく俺を殺して「ケジメ」をつけるだろう)
善仁はそう考える。
つまり現状は、ワーグナスを殺して善仁が生き延びるか、殺すのを拒否して善仁が殺されるかなのだ。突き詰めて言うのであれば、「殺るか殺られるか」という事でもある。
(正直ゴンドール一家に加入するなら、いつかは殺しに手を染める日が来るかも知れないとは思っていた。思ってはいたが……、こんなに早くその時がやってくるとはな……)
善仁はワーグナスの方へ向かって歩き出した。それを見てワーグナスの顔に浮かんだ恐怖の色がどんどん濃くなってゆく。
「ま、まさか!……お主、まさか本当にそのつもりなのか⁉︎」
(夢に見るかも知れない。ふとした拍子に思い出して罪悪感に押し潰されそうになるかも知れない。だけど俺は……)
椅子に拘束されたワーグナスの正面に善仁は立つ。ワーグナスは真っ青な顔でガタガタと大袈裟にその身を震わせている。
「やめろ!お主はシュツカを殺し、次は儂を手にかけるのか?本当にそんな事が許されると思っているのか?」
(その罪悪感を背負ってでも、俺はこの世界でシュツカとの約束通り、生きていく。そう‼︎俺は生きるんだ‼︎生きてやる‼︎それを邪魔するものは、どんな相手であろうと、必ずこの手でぶっ殺してやる‼︎)
恐怖に耐え切れなくなったのだろう。ワーグナスが暴れ始めた。バランスを崩して椅子ごと床に倒れる。床に転がって善仁を見上げるその目は、大きく見開かれて、こぼれ落ちてしまいそうだ。
「やめろ!やめてくれ…………やめっ、ひいっっ‼︎‼︎‼︎」
善仁は握った手斧を頭上に大きく振りかぶり、体重を乗せながら振り下ろした。