シュツカ
しとしとと小雨が降り注ぐ。羽織ったマントが雨粒を弾きながらも、少しづつ湿っていく。
海を漂う小舟の上で、巫女シュツカは仰向けに横たわっている。彼女の胸には弩弓の矢が深々と突き立っていた。
シュツカは撃たれてからずっと、浅く、速く、荒い呼吸を続けている。彼女の横隔膜のあたりが忙しく上下している。
善仁はシュツカを船底に敷いた毛布の上に寝かせ直して、矢が刺さっている部分に触れないように、ナイフでシュツカの服を切り裂いた。
そして傷を確認した瞬間、善仁の視界の端で、船頭が顔を背けるのが見えた。
(嘘だろ……出血が多すぎる……)
シュツカの白い胸は、矢が刺さった部分から染み出してくる血で真っ赤に染まっていた。
矢で蓋をされていてこれなのだ。もし刺さっている矢を抜きでもしたら、その傷口から噴水のように彼女の血が噴き出る事だろう。
バルニスという種族の身体構造がホモ・サピエンスとほぼ変わらないとしたら、おそらく肺と、心臓近くの動脈を傷つけている恐れがある。重傷どころか致命傷だ。このままではマズい。早急に外科手術で対処しないと。
しかし、では何処に彼女を連れて行けば、そんな手術をしてもらえると言うのだろうか。善仁には全く心当たりが無い。
ふり続ける雨がシュツカの傷口を濡らし、血と混ざった大粒の水滴が白い肌の上を流れていく。
気休めにさえなるかどうか分からないが、善仁はカバンから柔らかい綺麗な手拭いを取り出し、傷を刺激しないようにそのまわりに当てた。しかしその手拭いも、シュツカの血でどんどん赤く染まっていく。
(どうすればいい?こんな傷……一体どうすればシュツカを助けられるんだ?)
善仁は今にも泣き出しそうに顔を歪める。実際泣きそうだ。こんな、こんな事、未だかつて経験した事がない。
どうすれば良いのか、どうするのがベストなのか、頭はパニックで真っ白になり、全く働こうとしていない。
典型的な現代日本人がそうであるように、善仁も正直言って信心深いとはとても言えない。
しかし今まさに、無意識のうちに彼は神に祈っている。どうかこの状況を打開する方法を教えてください、と。まさに「困った時の神頼み」だ。
そしてそんな人間に対して救いの手を差し伸べるほど、神は慈悲深くはない。
どうする事も出来ないまま、時間だけが虚しく過ぎていく。善仁の焦りを煽るように、少しづつ雨が強くなっていく。
「ヨシ……ヒト……聞こえ、ますか……?」
シュツカが口を開いた。気道に血が入るのか、彼女の声は掠れて、潰れて、とても話し辛そうだ。雨音に混じって、掻き消されそうなほど声が小さい。かなり聞き取るのに苦労する。
「ああ、聞こえてる。シュツカ、喋っちゃだめだ。安静にしていないと。大丈夫だ。今、医者に連れて行ってやるからな。だから無理しないで、大人しくしてるんだ」
言いながら善仁は自分の言葉が震えている事に気付く。
無責任な発言である事は分かっているが、こうでも言わないと、自分の心が保たない。壊れてしまう。
しかしシュツカは善仁の言葉が聞こえているのかいないのか、話すのを止めようとはしない。
「ヨ……ヨシヒトに……、おね、お願いが……ありま……す……」
「なんだ、お願いって。なんでも聞いてやるから、言ったら大人しくしてるんだぞ、いいな」
この様子だと、言うなと言ってもシュツカは喋るだろう。善仁はシュツカの言葉を聞き逃さないように両耳に神経を集中する。
「あなたは……あなたは生きてください……。自ら、死を……選んだりする事なく……。それが私の、命を懸けた願いです」
なんだそれは、自身が死にかけているというのに、他人の事なんて……。それに命を懸ける?もう諦めてるのか⁉︎シュツカ!
善仁はシュツカの言葉を受け入れられない。
「だめだ、そんな話は聞きたくない!大丈夫、医者に見せれば助かるから!喋って体力を消耗しないでくれ‼︎」
善仁の声は自身の耳にさえ悲痛な響きになって聞こえる。
言いながら、助かるなんてのは全くの嘘、ただの願望だと自分自身が一番分かっている。
「わた、私、の、……願いが……あなたを縛る、呪いになる事は、分かって、います。でも……それでも……」
「もう良いから‼︎しゃべらないで良いから、体力を温存してくれ‼︎頼む‼︎諦めるな‼︎」
シュツカは全くお構いなしに言葉を続ける。
彼女は理解しているのだろう。もう自分が助からない事を。理解した上で、最後の気力を振り絞って、彼女の想いを善仁に託そうとしているのだ。
善仁も現実的に考えれば、この状況ではどう足掻いてもシュツカが助からないという事は理解している。現実を受け入れるしかない事も理解はしている。しかし……。
しかし、どうしても納得できない。
なんでこんな事になったのだろう?どうして神様はシュツカにこんな仕打ちを?
……だめだ、何もできない自分を許せなくなって来る。
何も、何も出来ないのか、俺は?本当に……何も……。
自分の不甲斐なさと、現実の残酷さに、腸が引きちぎられそうな思いだ。
「や、約束……、して、……してください……。ヨシヒト……。生きる……と……」
シュツカの声からはすでに力が失われている。今にも消え入りそうなのに、しかしその響きからは明確な意志を感じる。
その声を聞いて少し冷静になった善仁は、事ここに至ってはシュツカを安心させ、少しでも苦痛や不安を取り除いてやる事しかできないと悟り始めていた。
善仁は項垂れて、目を瞑る。その目からは涙が滲んでポタポタと垂れ、鼻は鼻水を啜る。
さらに降り方が強くなり始めた雨が、善仁の心に追い討ちをかけて来る。信じられない。なんでこんなに苦しいのか。
だが自分は、たとえ嘘でもシュツカの願いに応えなければいけない。
「ああ、勿論だ。生きるさ。生きるに決まってる!」
善仁がそう言うと、シュツカはその頭をいかにも重そうに動かし、善仁の方を向いて微笑んだ。そして力無く震える右手を善仁に向かって持ち上げる。その手は当てもなく宙を彷徨っているかのようだ。
「ヨシヒト……ヨシヒト?そこに、いますか?……ああ、みえない……あなたが……そんな……」
もう目が見えなくなってる?俺を探していたのか⁉︎そう思った善仁は彷徨っているシュツカの手を取った。
同時に怖気がするほどの冷たさをその手から感じ取る。
ああ、消えてしまう、温もりが。シュツカの命が、消えてしまう。
「ああ、居るぞ。分かるか、手を握ってる。…………おい、聞こえてるか?シュツカ……。なあ……、聞こえるか?シュツカ!……シュツカ‼︎」
シュツカの目は焦点が合っていない。虹色の瞳から光が失われている。雨粒が目に当たっても、もう何も反応しない。
「いよいよ、ここまでの、ようです……。…………ヨシヒト……さむい……さむい、です……」
「嫌だ……シュツカ、逝かないでくれ。お願いだから…………お願いだ、シュツカ‼︎」
項垂れた頭をシュツカの耳元まで近づけて善仁は呼びかける。
「……ヨシヒト……ごめんなさい…………」
消え入るような声だった。
こんな時でも謝るんだな、お前は。善仁がそう思った瞬間、握っていたシュツカの手が重力に引かれて力無く垂れ下がる。
「‼︎……シュツカ!シュツカ‼︎……ああ、神様‼︎神様‼︎こんな‼︎こんな……」
涙と鼻水と涎と髪から垂れてくる雨とで顔をぐちゃぐちゃにしながら善仁は声を絞り出す。その声も本格的に強く降り始めた雨の音に掻き消されていく。いくら揺すっても、軽く叩いても、シュツカはもう反応しない。
「ごめんなさい」
その言葉を最期に、シュツカは息を引き取ったのだった。