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異世界堕悪  作者: 押入 枕
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クリスマス・イヴの奇跡


「何でこんな事やってんだろうな……」


 溜め息がわりにボソッと呟いたつもりが、思いがけず大きな声になって、暗いオフィスに響いた。慌てて周囲を見渡す。分かってはいるが、誰も居ない。


 ホッとしてパソコンのモニターに向き直る。作業再開だ。手元の資料を確認して、目当ての数字を探す。

……あった。発見した数字にチェックを入れながら、その数字を表計算ソフト上に作成されたシートへ打ち込んでいく。

 デスクに設置されたスタンド式のライトを点けているとはいえ、光源がそれとパソコンのモニターから出る光だけではどうしたって暗い。モニターから出ている青白い光がオフィスの暗さによってより強調され、目から入って網膜を貫き、(じか)に脳の神経細胞に突き刺さってくるイメージが(ぬぐ)えない。ここ最近、眼精疲労は自覚できるレベルの酷さになりつつある。


(何でこんな事やってんだろうな……)

 今度は声に出さない。誰も聞いていないのだから、益体(やくたい)もない愚痴をことごとく声に出して口から吐き捨ててもいいような気もするが、正直そんな事をしたところで無意味だ。愚痴を言ったところで作業量が減っていくわけじゃない。

 そうだ、少しでも目の前に積まれた作業の山を消化していかないと。

 俺は機械だ。シートにデータを打ち込む機械なんだ。

 そう自分に言い聞かせて、手元の資料とパソコンとの間で視線を往復させる。並行してカタカタと無機質な音を立てながらキーボードを叩く。


 ふと壁に掛けられた時計に目をやると、いつの間にか23時をまわっていた。

(げぇ、もうこんな時間かよ、全然片付いてないぞ)

 こりゃまた事務所に泊まりだな。と、諦めの感情が心の中に広がっていく。これで今月は何回目の泊まりだったか、もう覚えていない。

(とりあえず寝てれば体はなんとかなるにしても、家に帰らないと精神的なリセットができないからどんどんキツくなるんだよなぁ。)

 そう思いながらも、遅い時間まで仕事をすると家に帰るのも面倒になる。最近はそのパターンが多い。床や畳に物やゴミが散乱する1Kの部屋に帰ったところで、遅い晩飯を食べて寝るだけだ。誰かが待ってるわけでもない。最近はゲーム機の電源を入れる事も少なくなった。


 いつからこんな生活になってしまったのか、自分でも分からない。色のない、モノクロの生活。


 仕事もそうだ。


 今やっている作業に気分が全く乗らないのは、本来は自分がやるべき理由が無いものだからだろう。何人かの同僚から頼まれたものがほとんどだ。頼まれたというか、(てい)良く押し付けられたというのが正直なところだ。

 いわゆる要領が良いと評価されている部類の人たちは、驚くほどの巧妙さでこちらに仕事を渡してくる。こちらの仕事に紛れ込ませてくる。まるで手品を見ているようだ。ほとんどの場合、気付いた時には手遅れで、自分が片付ける羽目になっているのだった。

 本来仕事というのは自分が得意な事、やるべき事に集中するべきで、それ以外のどうでも良い仕事は他人に振るべきだ、と昔読んだビジネス本には書いてあった。確かにそうかもと納得できる部分が無くはないが、だから奴らはこちらに要らない仕事を振ってくるのだろうか?

 もし皆が皆、他人に仕事を振り始めたら、それはただの仕事の押し付け合いになるんじゃないだろうか?

 自分の仕事を抱えた上で、さらに誰かの仕事を振られる立場になってしまったときに、これを不当だと感じるのは、果たして被害妄想なんだろうか?……分からない。


 要領が悪いと上司にはよく言われる。確かにその通りだと自分でも思うし、実際に断りきれずに仕事を抱えてしまう。余分に仕事を抱えたなら、抱えた分だけ自分の仕事で手を抜いたり、自分も誰かに仕事を頼めば良いのだろうが、そういった器用な真似や立ち回りがどうしようもなく苦手だ。だから手が空く暇がなく年中仕事に追われている。


 今のような状況に陥っているのは、中途採用で入社二年目のヒラ社員という立場の弱さのせいでもあるし、いまだに大きな案件を掴めず、今期の営業目標(ノルマではないとされながらも実質的にはノルマであるあれ)が未達成に終わりそうだという自身の実績の弱さにも原因があるだろう。

 しかしそれだけではない事に、ここ最近は自分でも気付き始めている。いや、うすうす勘づいていながら見て見ぬ振りをして来た部分。自分の内面的な問題と嫌でも向き合わないといけない、そんな限界の時期に来ているのかもしれない。



「ぶぇっくし‼︎」

 不意に派手なクシャミが出る。鼻の穴から汁が垂れている事に気付き、慌ててティッシュペーパーを何枚か取り、勢いよく鼻をかむ。


「……さむ……」

 季節はいよいよ冬本番。仕事納めを目前に控え、そろそろ来年の足音が聞こえてきそうな時期だ。そりゃ寒いに決まってる。それなのにオフィスの電気が点いてないのと同様に、暖房も切っている。

 この会社は経費に関してはとにかくシビアで、それは水光熱費も例外ではないからだ。一人で残業して会社に残っているのに、余計な電気を使ったと知れたら何を言われるか分かったもんじゃない。

 いや自分しか居ないんだからバレないだろ、とも思うのだが、律儀にも会社の方針に従ってしまう。悲しいかな、すっかり会社に調教されてしまったらしい。


 経費で連想して思い出した。この間の出張で使った交通費を申請しないと。面倒だけど。

 しかしいつも思うが、どうしてこの会社の申請関係はパソコンの勤怠管理ソフトの機能を使うんじゃなくて紙に書いて提出なんだろうか。前時代的で非効率的だ。……まあいい。

(えーと、用紙は……あったあった、これだ。まず日付を記入して、えー、今回は新幹線だけだから、区間を記入して、金額がこれだけで……。それから自分の名前、佐藤善仁(さとうよしひと)の横に判子を押して……。あとは課長の判子をもらって領収書と一緒に総務に提出、と。忘れないようにデスクの上に置いとこう)


 さて、もうひと踏ん張りしますかね。寒さで固まり始めた体をほぐそうと伸びをする。自然と窓の外に視線が行った。

 会社の事務所が入っているこのビルに面した通りは並木道になっており、街路樹の電飾が色とりどりに点滅を繰り返している。ささやかな規模ではあるが、それなりの距離をイルミネーションの輝きが覆っている。

「綺麗だな……」

 素直な感想が(こぼ)れた。まるでドラマか何かで聞くような感傷的なセリフを、これまた呟くように言ってしまった。作られたような自分の声を聞いて、誰に聞かれるわけでもないのにほんの少し、恥ずかしさが込み上げる。


 そう、今夜はクリスマス・イヴだ。

 世間一般では恋人達にとって特別な夜だという事になっているし、プレゼントを楽しみに眠りにつく子供達にとってもそうだろう。しかし自分にとっては、何の意味も持たない、ただ一年に365回ある夜の内の1回だ。したくもない残業をしているだけの暗く、寒い夜。

 幸せな時間の中に居る人達が確実に存在している一方で、自分は何とも孤独で(みじ)めな事だ。……だめだ、そうやって哀しい方向に考え始めると、イルミネーションの輝きを眺めているのがだんだんと辛くなって来る。


「うん。……今日はもう終わろう……」

 一瞬でどん底に落ちたモチベーションを、もう一度仕事に向かえるレベルまで引き上げる気力は残っていなかった。今日はもう見切りをつけて、事務所で寝てしまう事に決めた。パソコンをシャットダウンして、席を立つ。給湯室に行ってコーヒーを一杯、()れて飲んだらもう寝よう。


 暗い廊下を通って給湯室へ。寒さと静けさのせいで、まるでこのビルそのものが凍っているかのようだ。給湯室の電気はさすがに点ける。火を使うのに暗いと危ないから。

 薬缶に水を少しだけ注いでコンロに置いて火を点ける。換気扇のスイッチはどこだったか……まぁ、点けなくていいか。すぐに沸くだろうし。使い捨ての紙コップに粉のインスタントコーヒーを入れて、あとは湯が沸くのを待つばかりだ。


 ガスが静かに燃えて炎になっていく音を聞きながら、震えるように揺れている炎を見つめる。静かだ。自然と意識が思考と記憶の中に沈んでいく。

 


(「名前の通り〝()(ひと)〟だけど、ホントにそれだけなんだよね」)



 そう言われた苦い記憶が甦る。

 結構昔の事なのに、こうやって時々思い出してしまう。辛い記憶をどうして人は忘れられないのだろう。覚えていたところで何の得にもならないのに。また思い出してしまった。

 感傷的になるのはクリスマス・イヴという誰かが決めた日のせいだろう。あの子にフラれたのは一体何年前だったか。いつからになるだろう、もうずいぶんと長いこと独りぼっちだ。


 コンロの上の薬缶がカタカタと細かく振動する音で現実に引き戻された。火を止めて紙コップにお湯を注ぐとコーヒーの良い香りが立ち上る。

 この香りを嗅ぐと条件反射で煙草を吸いたくなるが、喫煙スペースはビルの外、駐車場の脇にある。寒い中コーヒー片手に吸いに行くか、面倒だからやめておくか、一瞬迷う。今回はやめておく方に軍配が上がった。それだけ疲れているのだろう。


 給湯室の電気を消して事務所に戻ると、コーヒーをこぼさないように注意しながら、デスクにある膝掛けとハンガーに掛けたダウンジャケットを回収して応接スペースへ向かう。それにしても寒い。自然と体が縮こまる。

 ソファーにゆっくりと腰掛けてコーヒーをひと口(すす)る。はぁ、とオッサンくさいため息が漏れる。

(俺に優しいのはコーヒーと煙草だけだ)

 そんな事を考える。ハードボイルドを気取ろうにも気持ちが付いて来ない。自分で思っている以上に心が弱っているようだ。


 もう寝よう。コーヒーが半分以上残った紙コップを応接テーブルの上に置いてから、靴を脱いでソファーに横になる。ソファーの肘掛けを枕にして、持ってきたダウンジャケットと膝掛けが掛け布団代わりだ。ソファーの上でもぞもぞ動いて体を覆う具合を調整する。足先が少しはみ出して寒いが、うん、これくらいなら十分眠れる。


 お腹の上で手を組んで(まぶた)を閉じる。「埋葬される死体のポーズ」だ。ソファで寝る時にはこれが収まりが良い。呼吸をするとぷよぷよと脂肪に覆われたお腹が上下するのが分かる。

 ここ最近はストレスなのか年齢によるものなのか、お腹まわりに肉がつき始めた。そんなにたくさん食べているつもりは無いんだが。風呂上がりに鏡を見ると、運動していた学生時代に比べてなかなかにだらしない体をした自分がいる。

 やはり三十路ともなると、嫌でもおっさん化が始まるらしい。髪の毛の方にはせめてできる限り執行猶予が欲しいところだ。そんなどうしようもない考えが、真っ暗な視界の中、頭の中に浮かんでは消えていく。



 静まり返ったオフィスの中で時計の秒針が動く音が聞こえる。

 しまった。気付いてしまうと意識の中に居座り始める。自分の部屋の時計ならこんな音はしないのに、いつもとの違いが気になり始める。

 就寝するための環境としては不満足極まりないが、いやいや、それでも今夜は通勤時間の分だけ余分に眠れるんだ、と無理矢理にポジティブな事を自分に言い聞かせ、意識が遠のくのを待つ。無理矢理に、というのが何とも哀しい。


 そう、目が覚めたらまた仕事、あの作業の山が待っている。


(ああ、明日が来なければいいのに、なんて事は言わないけど、ここではないどこかに行けたらなー……なんて)

 救いはもうすぐ年末、正月休みになる事か。今年は何日休めるんだろう。

 ……いやいや何も考えない。何も考えない。頭を空っぽにして、息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。それだけ、それだけ。



 もう何度呼吸を繰り返しただろうか、睡眠の奈落に引きずり込まれるその瞬間、奇妙な感覚に包まれた。

 自分が何か、とても柔らかいものにすくい上げられて、宙に浮くような、そんな感覚。フワフワとして、完全に脱力していて、何だろう。

 ユーフォーキャッチャーの景品がアームに捕らわれて運ばれる時、こんな感じなんじゃないだろうか。

 少し暖かで、遠くに明かりのような光?か何かがあるのを感じる。見えないけど、感じる。

「………………!」

「……ッ‼︎」

 ……誰かの声が聞こえる。ような気がする。何だ?何か話し声のような……。

 それにさっきは遠くに感じた光のようなものが、いつの間にかこちらに近づいて来ているような気がする。いや、これは自分が近づいて行ってるのか?だんだんと速くなって、加速しているような……

「………………だ!」

「…………ぞ!………………ろ‼︎」

 間違いない、何か聞こえる。光も強くなって……、何も見えないはずなのにとても明るい。……いや、(まぶ)しいくらいだ。


 そのまま途轍もない明るさに包まれた瞬間。

 急に重力を感じ、後頭部と背中が何かに叩きつけられる。一瞬呼吸ができなくなり、衝撃で頭が混乱する。


 ……どうやらそれほどでもない高さから落下したらしい、が、痛い。痛い。特に腰が。

 何が起こったのかを確かめようと目を開けようとするが、開かない。瞼が重たくて開けられない。身体をよじらせて痛みを誤魔化そうとするが、これがまた思うように動かない。一体どうしたと言うのか?まるで芋虫になったかのようだ。


「?、………⁉︎」

 何だ?何が起こってる?どういう事だこれは。


「う……」

 ……何だか気分も悪い。急に吐き気を感じ始めた意識の中で、声がはっきりと聞こえた。



「…………やったぞ‼︎召喚成功だ‼︎」


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