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異世界堕悪  作者: 押入 枕
18/39

鼓動


 夜明け間近の海の上を、一(そう)の小舟が進んでいる。

 小さな帆を張ったその船は、風を受けてゆっくりと波をかき分けていく。

 少しずつ明るくなり始めた空にはまだ所々星々の輝きが残っており、遠くまで見渡せるほどの明るさにはなっていない。

 海の上には、すでに漁に出ている大小さまざまな大きさの船の篝火(かがりび)や松明の光が、そこかしこにポツポツと灯っている。


 その船の舳先(へさき)には、海に浮かんでいる他の船と同様に篝火の炎が燃えている。

 その明かりに照らされながら海の様子を観察していた船頭は、善仁(よしひと)とシュツカの方へ向き直って言った。


「うまいこと潮の流れに乗れやしたんで、風の具合次第では昼を待たずにビィズバーンに到着しやすぜ、旦那」


 年嵩(としかさ)の船頭の、潮風と照りつける太陽に長年晒されて来たのであろう顔は(しわ)くちゃで、肌はこんがりと赤黒く焼けている。

 髪はかなり薄くなっており、喋るたびに開く口の中を見ると、歯が何本か抜けていた。


「分かった。ビィズバーンに近付いたら、また教えてもらって良いか?」

「へい、承知しやした」


 船頭は無遠慮な視線を善仁とシュツカに向けてくる。おそらくは駆け落ちか何かだと思われているのだろう。

 ビィズバーンまでの「渡し」を頼んだ時、金額の交渉になると、訳ありと踏んで足元を見てくるような雰囲気を感じた。


(まあ、無事に送り届けてくれるなら文句はないさ)


 善仁は目を(つむ)って彼にもたれかかっているシュツカを見ながらそう思った。眠っているのだろうか。



 窓から夜空を眺めていた善仁をシュツカが呼んで、二人して寮を抜け出して夜の逢瀬(おうせ)洒落込(しゃれこ)んだのだが、近所の納屋で彼女がして来た提案は、善仁を驚かせるのに充分なものだった。


「ヨシヒト、前に話した、元の世界に帰る方法。まだ興味ありますか?」


 彼女は真剣な面持ちと、本気の眼差しを込めた虹色の瞳で善仁に聞いて来た。

 あの朝帰りの際にシュツカが聞いて来た事は、どうやら冗談や善仁に対する気休めの類ではなかったらしい。

 あの時は、女子寮の方から何人かの声が聞こえて来て、二人とも慌ててすぐにその場を後にしたので、話が途中でぶつ切りになったまま終わっていた。その続きと言うわけだ。


「もしヨシヒトが望むなら、私が知っている〝異界返し〟の知識をお話しします」


 元の世界に戻る方法、手段、送り返す事を指して〝異界返し〟と呼ぶらしい。

 善仁は勿論(もちろん)、一も二もなくその提案に飛びついた。


「そうですか。ヨシヒトにハッキリとした覚悟があるのなら……私も出来る限りの事をさせてもらいます。……とりあえずは、私たちは今の生活を捨てなければいけません。それも今夜、今すぐに」


 詳しいことは落ち着いてから話すとシュツカは言った。

 善仁はシュツカの言う事に従う他ないので、彼女の言葉通り、昨日の晩のうちに必要な準備を済ませ、真夜中を大きく回って最も闇が深い時間に、「紅兎亭(くれないうさぎてい)」を抜け出したのだ。

 幸い、夜空には雲が出始めていて、月明かりは大分弱まっていた。

 その後は(あらかじ)め決めていた通り、港でシュツカと落ち合った。彼女も自身の多くない荷物をかき集めて持って来ている。


 そして二人は目的地ビィズバーンまで「渡し」をしてくれる船を探し、この船頭の船に乗り込んだと言うわけだ。

 モランが言っていた情報から、街道を進むのは検問を張られている可能性を考慮して、選択肢から除外したのだった。


 動いていた時はやるべき準備を片付けていく事に夢中で、余計な事を考えている余裕はなかったが、こうして一旦落ち着いてしまうと、善仁の心の奥底から、もう後戻りできないという不安がじわじわと湧いてくる。

 ようやく慣れてきた「紅兎亭」での生活も、知り合った多くの人たちも、全て投げ捨てて逃げ出した事には違いなかった。

 善仁の能力を買って仕事を任せてくれたハンナや、誘拐されたとはいえ気さくに接してくれた「モラン疾走団」のメンバーを裏切る事にもなるのだ。

 ピコロ親方は追手を差し向けて来るだろうか?いや、間違いなくそうするだろう。



「もう、戻る事はできない、か」

 善仁はボソリと呟く。

「後悔していますか?ヨシヒト」

 シュツカが聞いて来た。なんだ、起きていたのか。

「いや、まさか。もう腹は(くく)ってるんだ。今更やめたりしないさ」

 善仁は強い口調で言い切った。


 実際、いつも優柔不断な自分でも驚くほどキッパリと「元の世界に戻る」事を即決できた。

 そんなに良い思い出があるわけではないあの世界だが、善仁にとっては自分で思っている以上に大切なものだったらしい。

 結局のところあの世界こそが、善仁の居場所なのだろう。


「急に決断させる事になって申し訳ありません。でも、すぐにでも私の警護を強化するとあの人たちが考えている以上、逃げ出すチャンスは今夜を逃したらもう来ないと思ったんです」

 なるほど、確かにそうだ、と善仁は納得する。


「これからどうするんだ?」

 善仁はシュツカに聞く。逃避行に誘ったシュツカには計画があるはずだ。

「そうですね。第一の目的は、ビィズバーンに居るであろうワーグナス師がお持ちの〝賢者の石〟を手に入れる事です」

 シュツカは計画について話し始める。

「〝賢者の石〟?」

「はい。大変貴重な魔導素材の一つです。錬金素材としても、その道の熟練者たちが大枚を叩いてでも手に入れようとするほどの需要と、それに見合う価値があります。滅亡した古代文明が発明した「遺物」とされていて、現在は製法が失われているので製造することができず、現存している量に限りがあるのがその理由です」


 魔導素材とか言われても善仁には正直どれほどすごいのかまるでピンと来ない。


「この物質は〝奇跡〟と呼べるほどの現象を引き起こす特性を持っています。特性には幾つかありますが、今回私はその一つである「〝魔素(マナ)〟の増幅」を利用するために、ワーグナス師が持つそれを手に入れなければいけません」


「魔導」と言う単語からは宗教的なニュアンスを感じるのだが、「現象」「特性」「増幅」など、シュツカが使う単語はまるで物理や化学など、むしろどちらかと言えば科学的なニュアンスを持っているのが興味深いと善仁はふと思った。


「ヨシヒトをこちらに召喚した時は、私以外にも大勢の「祈り手」の皆さんが祈祷(きとう)に参加することで、大量の〝魔素〟をあの「場」に蓄積できました。それと同じくらいに大量の〝魔素〟を用意する仕組みが〝異界返し〟の儀式を行う際にも必要になるからです」

 シュツカの話の内容は半分も理解できているか怪しいが、とにかくその〝賢者の石〟とやらを手に入れなければいけないという事は分かる。


「私個人の霊験では「器」としてそれほど大量の〝魔素〟を集積する事は到底できませんが、〝賢者の石〟を利用するなら話は変わってきます。あれさえ手に入れてしまえば、私一人で儀式を行い、例え召喚祭壇による「魔導回路」の補助が無かったとしても、〝異界返し〟を行うことが可能になるでしょう」


 そこまで言って、シュツカの説明は一度止まる。

「すみません。専門的な単語が多くてよく分からないですよね」

 全くその通りであるが、善仁は疑問に思った事を聞いてみた。


「その〝賢者の石〟が必要なのは分かったけど、どうやってそのワーグナスって奴から手に入れるんだ?」


「あの方が滞在している場所から、隙を見て奪い取ります。ビィズバーンの政庁内にある神殿の支部なら、私は行った事があるので内部がどうなっているのか分かっていて都合が良いんですが……」


(……さらっと泥棒に手を染めますって言ってないか?この娘さん。まがりなりにもあなたは聖女様……)


 いや、あまり深く考えるまい。とにかく〝賢者の石〟が必要な事には違いないのだから。そんな甘っちょろい事は言ってられない。


「話を整理すると、俺を元の世界に返すには〝異界返し〟の儀式をしなくちゃいけなくて、その儀式のために〝賢者の石〟が必要。それでビィズバーンに居る神殿のお偉いさんからそれを奪う。って事でいいんだよな?」

「はい。その通りです。首尾良く奪えたら、今度は私たちが(さら)われたあの神殿跡まで行って、そこで儀式を行います」


 とりあえず何をすれば良いのかは分かった。善仁はシュツカにもう一つ、気になっていた事を尋ねる。


「どうしてシュツカはその儀式をやって俺を元の世界に送り返してくれるんだ?せっかく召喚したのに、シュツカにメリットが何も無いよな、それ。その〝賢者の石〟を奪うのって、間違い無く神殿に対する裏切り行為だと思うんだが。立場が危うくなったりしないのか?」


 シュツカは善仁の言葉にハッとしたような表情で反応し、それから善仁を見た。しばらく何か考えているようだったが、口を開く。



「それは…………それは、ヨシヒトが……〝いいひと〟だからです」


「?」


「ごめんなさい、よく分からないですよね、こんな理由を言われても。……あの晩、ヨシヒトが怒るまで、私は恥ずかしいことにヨシヒトが召喚された事をどう感じてるかなんて、考えもしなかったんです。あの時ヨシヒトが怒ったのは考えてみれば当然です」

 その事を掘り返されると善仁も気まずくなるのだが……。


「振り返ってみれば、私は成り行きと、才能に恵まれた事で気が付けば巫女(みこ)として生きて来ていました。こんな事を言うのは不敬だとは思いますが、心から望んで神にお仕えしているわけではない……しかしそんな私はヨシヒトを召喚してしまった……」

 シュツカは淡々と言葉を紡ぐ。


「やれと命じられたからやっただけであって、何かしらの覚悟があってヨシヒトを召喚したわけではない。ヨシヒトを召喚することに私なりの意味があったわけでもない。だから召喚という自分の行為に何かしらの責任を負うわけでもない。とても卑怯で、愚かな事です」

 知ってはいたが、やはりシュツカの考え方は少々自罰的だ。善仁はそう思う。


「でも……それでもヨシヒトは許してくれました。……いえ!勿論、私がした事すべて許されたなんて思っていません。でも、そんな私をヨシヒトは幾らかは許してくれて……受け入れてくれた……そう、ヨシヒトは〝いいひと〟だからです。〝いいひと〟であるヨシヒトに、私は救われたのです」

 少し遠回りな話のようにも感じるが、善仁にはシュツカが言いたい事が分かるような気がした。


「だから、こうして私の意思でヨシヒトを元居た場所へ送り返す。そのために力を尽くすのが、私がするべき事なのではないか、そう思ったんです」


 ……なるほど、決して酔狂や偽善でやっているわけじゃないんだな、と善仁の中でシュツカの言葉が()に落ちた。


「それと……。これは……うん。迷いましたが、やはりお話しします。ヨシヒト以外の……今まで召喚や〝異界渡り〟でこの世界に顕現してきた〝渡り人〟たちについてなんですが…………、その人たちのほとんどが自ら命を絶って……〝自殺〟、されています……」


(‼︎…………マジか…………)


 善仁は例えるなら鈍器で頭を殴られるような、そんな衝撃を受けた。それはショッキングな話だ。


「国家によって生活が保証されて、何一つ不自由の無い暮らしをしているにも関わらず、ほとんどの人が一年以内に、……長いと三年くらいは生きているらしいのですが、結局はある日いきなりふっと、という感じでお亡くなりになるそうです。おそらく帝国が今まで確保した〝渡り人〟の内で、天寿を全うした方の数は、片手の指にも満たないはずです。魔導省の上層部はひた隠しにしていますが、これは〝異界渡り〟に関わる者なら皆知っている事実です」

 話の内容に衝撃を受けながら、しかし善仁はこの話も理解できるような気がしていた。

 少なくとも自分は誰かに飼い殺しにされるような人生はごめんだ。


 善仁は考える。もしモランたちに攫われていなければ、自分もそうなる運命だったのだろうか?

 だとしたら運命とはなんと不思議で、皮肉なものだろうか。


「その点も含めて、今の私は〝異界渡り〟というものに、召喚というものに、疑問を感じています。ヨシヒトを召喚する前だったら、そんな事は考えもしなかったでしょう。私には答えが必要なんです。ヨシヒトを召喚し、こうして出会ったことにどんな意味があるのか?それを知るためなら、神殿という組織を裏切るのは大した問題ではないと思っています」


 シュツカの表情は真剣そのものだ。今回、こうやって善仁を送り返そうと行動する事は、彼女の使命や生きる意味、アイデンティティに関わって来る事。そういう事なのだろう。


 シュツカの覚悟と想いを聞いた善仁は、それに応えるように彼女の体を自分の胸に抱き寄せた。



「まずいな、旦那、こりゃ天気が崩れますぜ」

 善仁が自分の思考に沈んでいると、いきなり船頭が空を見上げながら言った。言われて明るくなりつつある空を見上げると、確かに空の中に雲が占める面積が増えて来ている。

「降るかな」

 ただ呟いただけだったが、船頭は自分が質問されたと思ったのか、

「いえ、おそらくビィズバーンに着くまでは持つと思いやすよ」

 と、彼の意見を答えた。彼の言う通り確かにすぐではないだろうが、今日中には降り始めそうだ。

「いやいや、この季節は恵みの雨でやすよ。しばらく船は出せそうにないが、雨が上がったら魚が良く獲れそうだ」

 と、船頭は空模様とは対照的に上機嫌だ。しかし善仁は、どんよりとし始めた空を見上げていると、少しずつ気持ちが不安に、憂鬱になっていくのを感じていた。




 シュツカはヨシヒトの胸にもたれかかって、彼の心音を聞いている。

 どくん、どくんと、彼の心臓が刻む鼓動のリズムが耳に心地良い。


 ヨシヒトは船頭と何やら話しているようだ。彼の心音に集中しているので、何を話しているのかは分からない。


(こうやって、ヨシヒトの腕の中で、ずうっと、こうしていられたらいいのに……)


 シュツカは心からそう思う。それが叶わない願いだと知ってはいても、願うだけなら神もお許しになるだろう。


 シュツカは彼女の師から〝渡り〟に関する(わざ)を習った時に、師が〝渡り〟を成功させた時の事も合わせて聞かされた。彼女の師(いわ)く、


「いいかい、シュツカ。もしあんたが〝渡り人〟をお迎えする機会に恵まれたとして、お迎えした〝渡り人〟に特別な感情を抱くのはやめておきなさい。さもないと、この(ばば)のように、ずうっと、苦しむ事になるからね」


 そう教えられた。その時はなぜ師がそんな話をしたのか理解できなかったが、今ならあの時師が自分に伝えたかった事が分かるような気がする。


〝異界渡り〟を成功させて〝渡り人〟をお迎えするのは子供を産む事に似ていると、経験者は口を揃えて言う。

 それは〝渡り人〟を顕現させる時に、巫女の〝魂〟を「鍵」として使う事によって〝渡り人〟と巫女とが、分かれ難く結び付くからだと言われている。

 まるで母とその子のように。


 シュツカ自身、ヨシヒトを召喚する前と後とでは、自分というものが大きく変わってしまった事を自覚していた。

 巫女として〝渡り人〟を顕現させた事に対する自信なのか、あるいは成し遂げた事への誇りなのか、おそらく子供を産んだ母親は同じような感覚を得るのではないだろうか。


 そしてシュツカはその胸の奥に、その母親のような感覚とは別の感情が生まれている事にも気付いていた。


 彼女が必死になって大量の洗濯物を運んでいた時、ヨシヒトは声を掛けてきて、代わりに運んでくれた。

 あの時から、事あるごとにヨシヒトが彼女の頭の中に現れる。寮の近くでヨシヒトを見かけると、その姿を目で追ってしまう。


「男」とはシュツカの体を好きなようにいじくりまわし、手前勝手に気持ち良くなって帰っていくだけの生き物。そうシュツカは思っていた。

 しかしそう思っていたシュツカに対して、ヨシヒトという「男」の存在と、彼に対して沸き起こる自分の感情は、今まで味わった事の無い新鮮な驚きと混乱を与えて来る。


 シュツカは師の最期を看取ったが、師は生涯独身を貫いた。

 師の口から語られる事はついに無かったが、おそらく彼女もお迎えした〝渡り人〟を、自死という結末で失っているはずだ。そしてその事は間違いなく師の人生を縛る(のろ)いとなったのだ。


 ヨシヒトを〝異界返し〟の儀式によって元の世界に戻す。その考えが浮かんで以来、彼女の心をざわつかせるある事実にもシュツカは気付いている。


(無事にヨシヒトを彼が元居た世界に送り返せたとして……、そうなったら、私はヨシヒトと永遠に離れ離れになってしまう……。一人に戻ってしまう……。その時、果たして私はその事実に耐えられるのかしら?ヨシヒトが居ない世界で、これまで通り生きて行けるのかしら?)


 願わくば自分の〝魂〟を「鍵」にする事で生まれた結び付きが、来世でも良いから、またシュツカとヨシヒトを巡り合わせてくれれば良いのに。


 ヨシヒトの心音を聞きながら、そうシュツカは願うのだった。


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