バッドニュース
(あ、跡になっちゃってる……)
亜麻色の髪を梳かしながら、鏡に映った自分の首筋を見て、ハンナは思った。
強く吸われたせいだろう、彼女の白い肌にクッキリと赤く、跡になっている。
参ったな、明日は首に何か巻かなくちゃ……。あのお気に入りだったスカーフはどこにしまったんだっけ?
そう考える流れで、彼女は部屋の隅の衣装ダンスに目をやった。
彼女の寝室の衣装ダンスはゴンドール一家お抱えの木工職人が作った特注品だ。
衣装ダンスだけではない。今座っている鏡台も、繊細な細工が施されたテーブルも、それとセットの椅子も、小物入れまで……ほとんどが一流の職人の手によるものである。
「紅兎亭」の経営を任されるゴンドール一家の幹部の一人、という彼女のステータスは、同年代の女性では到底実現不可能な生活水準を現実のものとしていた。
寝室の天井に描かれた絵もこの屋敷の部屋全ての壁紙も、彼女の好みに合わせた特注品だし、庭の木や草花は、これも彼女の好みで季節ごとにラインナップも植えられる配置も全て決まっている。さらに庭師の定期的なメンテナンス付きだ。
そもそも、この屋敷そのものが彼女のために建てられたものだった。
そして彼女に近い者ほど、総額で言えばそれら以上の財を、彼女が自身の美容や服飾に注ぎ込んでいる事を知っていた。
「そういえば、あのお兄ちゃん、…………なんて名前付けたっけ?……!そうそうロトね、ロト。あれは元気でやってるんかいな」
ベッドの上のピコロが話しかけてくる。
膨らんだ腹を放り出したまま寝そべって、パイプを燻らせながら、じゃれつく錦糸猫の相手をしている。
ハンナは煙草の匂いは別に嫌いではないが、その煙で壁や天井にヤニが付く事と、微かに部屋に漂うように調整している香油の香りが台無しになる事に関しては、正直良く思っていなかった。
「何だっけ、……確か酒場も宿屋もどっちもやらせてるとか、言っとらんかったかいな」
ハンナは髪を梳かす手を止めて答える。
「あー。ロトねー。……うん。正直すっごく良い拾い物よ、彼。素直に指示に従うし、他の従業員と揉めたりしないし、良く働くし。まるで働くために生まれて来たんじゃないのかってぐらい……。そう‼︎あと彼、どうやらソロバンができるみたいなのよね。だから最近は酒札売り場に立たせてるんだけど……」
大事な事を思い出した。といった口調でロトの特技を発見した話題を持ち出す。
「ソロバン?ほおー。そりゃあ、いっちょ前だのう。でもソロバンなら確かモリスあたりもできたよな?」
興味を引かれたのか、ピコロは話題に食いついてきた。
「そうね、モリスもできるわ。ただ、ロトはアタシやモリスと違ってソロバンを使わないの」
「…………どゆこと?できるのに使わない?何かのトンチかいな」
「そのまんまの意味よ。目の前にあるソロバンを使わずに、頭の中のソロバンで計算してるの。酒札と売り上げの集計の時は、粗紙に炭ペンで書いて、それで計算してるみたいなんだけど、見たこともない文字を書いてた。……彼、ここに来る前は何やってたの?」
ハンナ自身が興味のある事を聞いてみる。
「紅兎亭」の面接では基本的に従業員の過去は詮索しない。しても基本的にあまり良い事が無いからだ。
ハンナの商売は従業員側にも脛に傷持つような人間が次々出入りするし、そういった人間が働く事でもっているのが実情だ。
「それがねー、分からんのよ。「さらりいまん」、とかなんとか言ってたらしいけど。どこから流れてきたのか、正体もハッキリせんから。だから最初は奴隷商に売り飛ばそうと思ったのよ、手っ取り早いし、後腐れ無いし、すぐ銭になるから」
……どうやらピコロも知らないらしい。残念だ。
「証券取引所の取引担当者とか、商会の番頭とか、帝都の大学に通う「学徒」の中にはそういった「算術」を使える人間がいるって聞くけど……。まさかね。でも、少なくともそんな男を奴隷商に売っちゃう選択は悪手よね。どう考えても勿体無いわ」
ハンナは鏡台の椅子から立ち上がり、ベッドに向かう。
彼女はガウンを羽織っているが、その下には何も着けていない。
「だからハンナにプレゼントしたんよ。人手が足りない、足りないっていつも言ってたから」
でも最初は奴隷商に売るつもりだったんでしょ。ホント、適当に話してるなあ、このオヤジ。
そう思いながらもハンナはピコロの腕の中に滑り込む。ピコロに撫でられていた錦糸猫が、彼の手から抜け出して床に降りていった。
「うん。おかげでアタシの体が空くようになったわ。ありがと、パパ」
そう言ってピコロの広い額にキスをする。
何かを与えられたら、必ず熨斗を付けて返す。
そしてこちらからも与えて、おねだりしていくらかお返しをもらう。
それを繰り返せば、関係性を築けない男など居ない事をハンナは知っていた。
そして能力のある男との関係性を深めるほど、自分に利益が生まれる可能性が高くなるという事も、彼女はよく理解していた。
今でもピコロは、ハンナに与えた邸宅に月に二回は通ってくる。彼の奥さん公認の愛人関係が始まってから何年経っただろうか。ちゃんと数えた事はないが、十年にはまだ届いていないはずだ。
貴族相手の高級娼婦として仕込まれ、そう生きるはずだったハンナの運命は、ピコロに見初められた事で大きく変化した。
もしこの男に出会っていなければ、今頃はパトロンに捨てられる不安に苛まれる日々を過ごしていた事だろう。
「あ、そうそう。あと今日ね、モランたちがウチに来たんだけど、ヴィータのお嬢ちゃんがね……ククッ……傑作なの。話し合いに参加させるためにベヤミンとマーゲルを待ってたんだけど……、待ってる間にね、あの聖女様に占いしてもらってんのよ…………プッ!アハハハハ……。あのヴィータ嬢ちゃんがよ⁉︎信じられる?アハハハハ」
思い出しただけで笑えてくる。ハンナはからからと笑う。
「ほー。聖女様の方は占いができるんかいな。巫女の霊験はそういう事にも使えるんだのう。ええこと聞いたわい」
「ええこと」とはどういう事かと思いながらハンナは続ける。
「ウチの娘たちにせがまれて、よく占ってやってるって、マーゲルが言ってた。……でもヴィータ嬢ちゃんが一体何を占ってもらうって言うのよ?まさか恋占いじゃないでしょうねって思っちゃったら……もう、おかしくって、おかしくって……アハハハハハ」
今思い返してみても全くヴィータのイメージに似合わない絵面だった。
「そりゃあ、あのお嬢ちゃんも女の子って事でしょうよ。笑ったらいかんよ、笑ったら……、ププッ」
言いながら、ピコロも笑っている。二人でひとしきり笑った後で、ピコロが急に静かになる。
「それにしても、困ったよね。帝都の法務官、有力な公証人、牢番にまで接触して交渉を持ち掛けてるのに、一向に事態が進展しない……。なんであんなに頑固なのかね?向こうさんは。マッシモには売り出しの頃に世話になった義理があるから、なんとかして助けたいんだけどね。子分のブルトースも、儂が手を抜いてると思ってるのか、しつこいぐらい状況を聞いてくるし……」
遠い目をして一人ごとのように呟いている。
「もしかして聖女様だけでは足りない?でもなあ、天秤の片方が街の顔役とはいえ、言ってしまえばただの漁を差配するだけの親方よ?仮にでもしたくはない話だけど……マッシモを処刑したとして、他の親方に対する見せしめとか、密漁の牽制とか、そのくらいしかお上のメリットが無いような気がするんよなあ。天秤が釣り合わんような……。それって人質の交換を拒む理由になるんかいな?」
おそらく彼の中で何度も繰り返しているであろう疑問を口にする。
「でもそれしか方法がないんだったら、それを続けるしかないわよね。そのうち通じる事を祈るしか……。あとこちらが出来る事って言ったら、モランが言ってた通り、嗅ぎ回ってる奴らに聖女様の存在を嗅ぎつけられないように、しっかり守る事くらいでしょう?」
今はピコロのやり方を肯定して慰めるくらいしかハンナには出来ないが、彼は焦っているのかも知れない、とも思う。
(やはり弱くなっているのかしら……)
ハンナはどうしてもそう考えてしまうのだった。
体を重ねていても感じるが、彼の肉体はここ二、三年で目に見えて衰えて来ている。
彼の日々の決断も、昔に比べると守りに入っているような印象を受ける事が増えていた。
ピコロはまだ寿命どうこうを心配するような歳ではないが、決して健康とは言えない。
最近ハンナはたまに考える。もし彼が倒れたりしたら……、そこまで行かないまでも、引退を余儀なくされるような事態が起きたら……。
ピコロの後ろ盾で現在の地位を築いたハンナにとって、それは軽い問題ではなかった。
ピコロには子供が居ない。もしハンナとの間に出来れば彼女は産んでも良かったのだが、結局のところ子宝には恵まれていない。おそらくこれからもそうだろう。
仮に今から子宝に恵まれたとして、その子を産んで、育てて、成人する頃にはまず間違いなく既にピコロはこの世に居ないか、棺桶に片足を突っ込んだ状態だろう。後継者への交代は、その前に済ませておく必要が有る。
つまり、ゴンドール一家には、ピコロの地位を世襲で継げる人間が居ないのだ。もし後継者を選ぶなら幹部の内の誰かになるはずだ。
ハンナにお鉢が回ってくる可能性はまず無い。ハンナ自身もそれはお断りだった。
一番可能性が高いのはボルトルンか。「ピコロの犬」と影で揶揄される程の忠誠心を持っている。
しかしハンナはボルトルンの事があまり好きではない。それに彼は親方の「器」では無いとも思っている。
対抗馬として挙げられるのはモランだ。幹部の中では荒事中心の仕事を受け持つ事が多いが、それだけに他を力で抑える事が出来る。
それに彼にはカリスマ性がある。彼の部下以外にも彼に好意的な人間は、ゴンドール一家の家中にそれなりに居るのだ。
弱点はまだ若い事だろうか。モランが親方の跡を継いだとして、古株の幹部連中が素直に従うとは思えない。
状況がどう変化しても良いように、対応できるような準備や根回しをしておかなければ。そうハンナは決意を新たにする。
「最悪、マッシモが処刑台に送られる可能性も考えないといけんかもね。いやだね。昔の仲間に対して、こんな冷たい事考えるのは」
ピコロは口ではそう言いながら、ハンナのガウンの開いた胸の間に手を滑り込ませてきた。掌でハンナのずっしりとした乳房を弄ぶ。体はついて行かなくなっているが、好色なのは昔からちっとも変わっていない。
(ホント、助兵衛なんだから。…………そう、助兵衛といえば、もう一人)
ハンナはふと、自分の胸や腰のあたりをチラチラ盗み見てくるロトの視線を思い出し、ピコロと重ねて心の中で微笑ましく思ってしまうのだった。
バレていないとでも思っているのだろうか。
「まず生き残らないとどうにもならないからね、アタシらの稼業は。お願いだからアタシを残して先に逝かないでね、パパ」
心にも無い、まず持って実現不可能なお願いをハンナは口にする。
しかし言葉はタダだ。口で言うだけなら何とでも言える。ピコロ自身がいつもそう言っているように。
「大丈夫大丈夫、まだまだお父ちゃんはバリバリよ!そんな心配、しなくても良いってその体に教えてあげよう!」
そう言って、ピコロはいきなりガウンの裾を大きく捲くってきた。
「いやぁん。パパったら元気ぃ。アハハハハ」
ハンナは嬌声を上げる事でそれに応える。
しかしその時、タイミング悪く寝室のドアがけたたましくノックされた。二人は動きを止め、ドアの方を向く。
「親方。ボルトルンです。こんな時間にお邪魔をしてしまい、大変恐縮ですが、至急お伝えしたい事があります」
声から切迫した様子が窺える。一体何事だろうか?
「いいよ、入りなさい」
ピコロが入室の許可を出す。
ハンナはピコロから体を離してガウンの裾を直し、ベッドに姿勢を正して座り直す。
「失礼します……!……これは、女将。……申し訳無い」
ここはハンナの邸宅だ。勿論居るのは分かっていただろうが、礼儀としてだろう、ボルトルンはハンナに一言かける。
「いいからいいから、何があったのか話しておくれ」
ピコロが話の先を促す。ボルトルンはハッキリとした声で起きた事を話す。
「い、今、モランが報告してきたのですが……。せ……聖女様が、……それと、あの男、ロト・アウリスが、二人揃って姿を消しました‼︎‼︎」
ボルトルンの言葉はハンナの頭にスッと入っては来なかった。
(え?姿を消した……居なくなったって事⁉︎えっ……一体どうして……どういう事なの?)
今日聖女の警護について話したばかりなのに、ハンナがそう思っていると、
「はああああああぁぁぁぁぁ⁉︎なあああぁぁんでえええぇぇぇ‼︎」
ピコロが横で素っ頓狂な大声を上げたのだった。