聖女の涙
窓から差し込む朝日と、小鳥の囀りで、善仁は目を覚ました。
ふと見ると、彼の腕の中にはシュツカがいる。すでに起きていたようだ。
「……おはよう」
「おはようございます。ヨシヒト」
朝の挨拶をしながら、笑顔のシュツカは体を寄せてくる。
彼女の柔らかい髪と肌の感触、そして体温。それらが善仁の感覚を優しく撫でて来る。
いつもなら目覚めるたびにひどく重たい体も、今朝はスッキリと、まるで不快な感じがしない。この感覚は一体いつぶりになるだろうか。
(やってしまった……な)
シュツカの吐息が善仁の肌をくすぐって来る。昨夜シュツカと一線を超えたのは夢ではなかったと実感しながら、善仁は今朝も天井を見つめる。
「もう起きますか?」
シュツカが聞いてくる。声色がとても優しい。
「いや、今日は仕事が休みなんだ。せっかくだから、もう少しゆっくりしたいかな」
「そうですか、実はマーゲルさんが昨日から遠出してるので、私も今日はお休みなんです」
マーゲルというのは確か女子寮の管理人で、ベヤミンの奥さんだ。夫婦で雇われて管理人をしているわけだ。
なるほど、だから昨夜のタイミングでシュツカは俺と話をしに、ここにきたのか。
「そうなのか。じゃあ、もうしばらくはここでこうしていようか」
「そうですね。ヨシヒトはここに来てからいつも忙しそうだったので、今日はのんびりしてください」
こんなシチュエーションでこんな会話、これも一体いつぶりだろう?善仁がそう考えていると、シュツカは善仁の手に彼女の手を繋いできた。
指と指を絡ませる、巷で言うところの「恋人繋ぎ」というやつだ。善仁は思わずシュツカの顔を見る。
シュツカは笑顔で善仁を見つめながら言う。
「ヨシヒトは優しいですね。分かってはいましたけど、思ってた通り……優しかったです」
(ふぐっっ‼︎)
まさか昨夜の感想を述べられるとは思っていなかった。急に恥ずかしさが込み上げた善仁は、誤魔化すために話題を探す。
そしてふと気になっていた事を聞いてみた。
「そういえば、巫女とか、聖女様って呼ばれてるヤツが、こういう事をするのはマズいんじゃないのか?」
言ってしまった後に「しまった、少し無神経な質問だったか」と焦りが湧いてきたが、シュツカはまるで動揺を見せず、質問に答える。
「世間一般の皆様や、神殿の信徒の方々には何故かそう思われてる方が多いですね。やはり建前上は「神に仕える」という事になっているからでしょうか?しかし神殿の教義では、よほど邪淫に耽りでもしない限りは、別にこういった行為自体は禁止されていませんし……」
そこまで言って、シュツカは突然上半身を起こした。
「引退した巫女は普通に殿方と所帯を持って、神殿の活動をお手伝いしながら子供も産みます。その辺は普通の女性と変わらないと思います。仮に現役の巫女が行為に及んだからといって、霊験が弱くなった、そのためにお役御免になる、なんて話も聞いたことがありませんし……」
そう言いながらシュツカは善仁を見つめてきた。何か言いたそうにしている彼女に気づいて、善仁も彼女を見つめ返す。
「話すべきか迷っていたのですが……。やっぱり話しておくべきでしょうね。ヨシヒト、少し良いでしょうか?」
シュツカは起き上がって正座する。
例え昨日の今日でも、明るい中で裸を見られるのは恥ずかしいのか、ペラペラの掛け布団を羽織るように被っている。
どうやら真面目な話をするらしいと感じた善仁は起き上がり、掛け布団の端で下半身を隠しながら胡座をかいて座り直した。
「……変な幻想とかを持たれると困るので、私がどういう人間なのかをお話しします」
真剣な面持ちでシュツカは語り始めた。
「私は貧しい農村に生まれ、口減らしのために親に捨てられたようです。物心ついた頃には神殿が運営する孤児院で暮らしていました。あそこの暮らしは、今思い出しても……少なくとも私にとっては決して幸せなものではありませんでした。食事の量はまるで足りなくて、いつもお腹がきゅうきゅう鳴っていましたし、冬はろくな暖房もなくいつもガタガタ震えていたのを覚えています。新しく入ってきた子とお友達になっても、いつの間にか亡くなっている。そんな事もしょっちゅうでした」
思いの外、彼女は過酷な幼少期を経験してきたようだ。
日本という、経済的に恵まれ、治安も良く、インフラも整備されており、食べる事にはまず困る事無く、教育も普通に受けられる。そんな場所で生まれ育った善仁には、おそらく幼い頃の彼女が味わった苦しみは、なんとなくでしか理解できないだろう。
理解できるなんて軽率に言う事はとてもできないような重みが、ゆっくりと話す彼女の声と言葉から感じられる。
無条件の愛を与えられずに育った子供たちは、大人になっても自分を取り巻く世界を信じることができない。
愛されなかった自分に自信を持つことができない。シュツカがいつもオドオドしているように感じるのはそのせいだろうか。
「孤児院の院長は権威主義を人の形にこねて造ったような人でした。時々視察に来る神殿の上層部の人たちには見ているこっちが辛くなるくらい腰を低く、下手になって接する一方で、私たちにはいつも強圧的に、辛く当たって来る。そんな人でした。……十歳を過ぎたある日の夜、私は院長の部屋に呼び出されて手籠めにされ、そこで純潔を散らしました。今でも忘れる事ができません……どんなに泣いて叫んでも、やめてくださいと懇願しても、あの人は私を殴るばかりで止めてはくれませんでした」
(……重い!淡々と話してるけど、これは……話が重いよ‼︎)
シュツカの衝撃的な過去の告白に対して、善仁は何も言えない。
シュツカが自分の過去を話すきっかけになったあの質問はやはり無神経な発言だったと、今になって後悔する。
「そのうち院長は「お友達」を連れてきて、その人たちに私を「貸す」ようになりました。その中の一人が神殿司祭のワーグナス師でした、ワーグナス師は私の事が気に入ったのか神殿に私を引き取り、巫女として生きるように命じました。確か十三歳の頃だったかと思います……それからは巫女として修行の日々を送りました。修行は決して楽ではありませんでしたが、どんなに厳しい修行であっても、あの孤児院の日々に比べればどうという事も無かったです」
シュツカの声が微かに震えている。暗い過去を気丈に話しているように見えるが、やはり辛い記憶なのだろう。
それまでは俯いて、ベッドのシーツの上に視線を落としていたシュツカは、急に顔を上げたかと思うと、力のこもった虹色の瞳で善仁を見た。
そして、少し顔を歪ませる。この表情は……微笑み?なのか?目に涙を溜めながら、彼女は善仁に聞いてきた。
「ヨシヒト……抱いてしまった後にこんな話をする女を、あなたは卑怯だと思いますか?気付いているかも知れませんが、この部屋を訪れたのも、あなたに抱かれたのも、私なりの打算があっての事です」
シュツカの声は震えている。
彼女はその顔にうっすらと微笑みを湛えているが、昨日と同じように、目からはポロポロと涙が溢れている。
「こんな私を、……身元すら定かでない生まれで……、数えきれない男に汚されてきたにもかかわらず、澄ました顔で平然と巫女として生きている。こんな私を……ヨシヒトは嫌いにならないでいてくれますか?こんな話をしても、優しいあなたを苦しめるだけなのは分かっているのに……。本来なら私一人で墓まで持って行けばいい話をわざわざ聞かせる。こんな私を……、‼︎‼︎⁉︎⁉︎」
善仁はシュツカを抱きしめることでその質問に答えた。彼女の体はぶるぶると震えている。
「……………………うぅ」
善仁の頭に、自分の体でこの震えを包み込んで、消してしまう事はできないだろうかという考えがよぎる。
彼女は、自身は何一つ悪くないにもかかわらず、こうしていつも自分を責めながら生きてきたのだ。
そう考えると、たまらなかった。
抱きしめられた事に驚いて、固まっていたシュツカが口を開く。
彼女の涙が善仁の肩に落ちて、微かな温もりを伝えてくる。
「……か、神様。……ずるい。ずるいです。……こんな……こんな、今頃になって……、こんな幸せをお与えになるだなんて。……この人と……、ヨシヒトと出会わなければ……、私はお仕えするあなたを、ただただ心の底から恨んだまま、一生を全うして死んでいく事ができたのに……どうして……」
そこまで言うと、堪えきれなくなったのか、シュツカは声を上げて泣き始めた。善仁の自室に彼女の泣き声がわんわんと響く。
善仁は泣いているシュツカにかけてやれる言葉がどうしても見つからずに、ただそのまま彼女を抱きしめる事しかできなかった。
泣いているシュツカが落ち着いたのを見計らって、善仁は彼女の服を渡した。
シュツカが破れた上着に首を通している時、善仁は彼女の背中にある大きな紋様を見ていた。
彼女の背中には〝聖紋〟と呼ばれる紋様が入っている。
おそらくは焼印、確かブランディングとか言ったか、そういう方法で入れたのだろう。
いつだったかネットの動画で見たことがあるが、高温に熱した金属を肌に直接押し当てて火傷させる事で、跡を残して模様を入れていく。
そんな目を背けたくなるような方法だ。
おそらく彼女が入れた時にも、かなりの苦痛を伴ったはずだ。
〝聖紋〟。シュツカが背中に背負っているその紋様こそが、そのまま彼女が背負う宿命であり、彼女のアイデンティティそのものなのだ。
シュツカの話の内容や口ぶりから、彼女が〝神〟を信じているのは間違いない。
しかしその〝神〟は、果たして彼女を愛しているのだろうか?
そう考えた時、善仁は胸を締め付けられるような思いがするのだった。
「では、ヨシヒト。ゆっくり休んでください。あと、これ、ありがとうございます。お借りします」
そう言って、シュツカは自分の服の上に巻いた、善仁のベッドのペラペラな掛け布団を、ぱたぱたと動かして見せた。
善仁の上着をそのまま貸しても良かったが、彼女が男物の上着を着ているところなんかを女子寮の誰かに見られでもしたら……間違いなく噂になる。
とは言え、男子寮と女子寮の中間地点でこうやって彼女を見送っている時点で、誰か目撃者がいるかも知れず、それは諦めるべき事なのかも知れなかった。
「ああ。別に返さなくてもいいけどな。普段そんなに使う事ないし」
「ダメですよ。冬が来たときに後悔するんですから。その時になって、私が居た部屋の中を探して回るんですか?懲罰部屋行きですよ」
悪戯っぽくシュツカが笑う。
ああ、そんな顔もできるのか。と善仁は思う。
そうだ。人質として交換が成立したら、彼女とはお別れなのだ。
「それでは、また。お話しできて、良かったです」
そう言ってシュツカは女子寮に向かって歩き始める。
善仁はほんの少しの名残惜しさを感じながら、その歩いて行く後ろ姿を眺める。
(俺もだよ。シュツカ。……まあ、したのはお話しだけじゃないけどな)
そう思った瞬間、シュツカがぴたりと立ち止まり、こちらを向いた。
しまった!自分じゃ気付かなかったが、声に出してたか?と善仁は焦る。
シュツカの顔を見ると、少し沈んだ表情をしている。何かを思い詰めているかのような。一体どうしたのかと善仁が思った時、シュツカは口を開く。
そして、驚くべき事を善仁に聞いてきた。
「ヨシヒト……もし元の世界に帰れる方法が有るとしたら、……あなたはどうしますか?」