眠れない夜
与えられた自室の、硬いベッドに仰向けに横たわったまま、善仁は天井を見つめている。
少し高い位置に空いた窓から月明かりが差し込み、部屋の中を照らしていた。
今夜は雲が無いせいだろう、何の明かりをつけなくても部屋の中を見渡せるほど、月の光が強い。
月の光といえば、ここに来た初めての夜、何気なく夜空を見上げると月が二つあるので驚いた記憶がよみがえる。
大きいのと、それの半分ぐらいの大きさのものとが離れて浮かんでおり、大きい方は少し緑っぽい色、小さい方は少し赤っぽい色に輝いていた。
その時は混乱するだけだったが、今となってはこの二つの輝く月が、この世界が善仁が元居た世界とは違うものだという考えの根拠の一つになっている。
ここに来てから今日まで、あっという間に時間が過ぎていった。
クリスマス・イヴの夜に起きた謎の現象。
気づけばモランたちに拉致されて、謎の集団に追いかけられていた事。
モランたちとの会話。シュツカという謎の聖女。
ピコロ親方との面会。「紅兎亭」で働いたこの約一週間。
全てが何か悪い冗談のようで、夢を見ているかのようだ。
このベッドで毎晩眠りにつくたびに、これは夢で、目が覚めたら会社の事務所のソファで寝ていた、なんて事はないだろうかと期待して目を閉じる。
しかし目を覚ますたびに今見ている天井が目に入ってきて、そのたびにまた、善仁は自分がこの世界に居る事を、嫌というほど実感させられるのだった。
元の世界にはもう、戻れないのだろうか?
ここのところは「紅兎亭」での労働による疲労で、毎晩ぐっすり眠れていた。
しかし今夜はどういうわけか寝付けない。
仕事に慣れて来たからか、それとも酒札売り場のようなあまり動かない仕事をする割合が増えたからか、はたまた明日一日が非番になったからだろうか。
女将ハンナは酒札と売上の集計を済ませ、今日の仕事から上がる報告をしに行った善仁に、いきなり告げて来たのだった。
「あ、ロト。明日はお休みでいいからね。給金はまだ締めてないから渡せなくて、どこにも遊びにも行けないだろうけど、ゆっくりお休みしてね」
どうやら「紅兎亭」で働く従業員は、本来なら大体五日おきぐらいに非番という名の休みを交代で取っているらしい。
働き始めてから今日まで、娼婦以外は毎日同じメンツが働いていたので、最悪休みなしという待遇も覚悟してはいたのだが、それはイレギュラーな事だったようだ。
まあ、しかし確かに考えてみれば、今やっている仕事の負荷で休み無しが続けば、いかに現代日本の過酷な労働環境に揉まれた社畜戦士と言えど、すぐに壊れて使い物にならなくなるだろう。
皆が休んで無いように見えたのは、ここ数日が予期せず書き入れ時になっていたからだった。
「本当ならもっと早めに休んでもらうんだけど、ここのところは盛況が続いてたからね。まあ、その分お給金の日はボーナス期待していいよ」
ここ数日、期待以上の売上が続いたからか、女将ハンナは喜びを抑えられない様子でそう言ってきた。
(マジか。ボーナスが出るの?中五日でお休みで?給料の額にもよるけど、下手したら今まで働いてきたどの職場よりも待遇良くないか?)
大学を卒業した後、非正規雇用の身分で長く働いてきた善仁にとって「ボーナス」という概念は都市伝説の類だった。
ここ「紅兎亭」の面接の時も、給料の説明とか全く無かったし、そういうものかと思っていた。
そういえば税金とか年金とかは控除されるのだろうか?ん?そもそも何でこの世界にもボーナスなんて言葉があるんだろう?などと色々考えた事を思い出す。
「……眠れない」
何度も目をつぶって寝よう、寝ようとは思うのだが、気持ちが昂っているのか、眠れない。
睡魔に沈んでいくよりも先に、色々な考えが頭に浮かんでくる。ここまで眠れない夜は久しぶりだ。
今まで寝られない夜の辛さを紛らわせていた煙草もテレビゲームもここには無い。
そういえば親方がパイプを吸っていたな。一式買ったらどれくらいの値段なんだろう?明日、扱ってる店を誰かに聞いて、探しに行って見るか。
そう考えた時、善仁の部屋の扉からノックするような音が聞こえた。
微かな大きさの音だったので、気のせいかと思ったが、しばらくするとまた聞こえて来る。やはり誰かが扉をノックしている。
善仁はベッドから立ち上がり、扉に向かう。扉の前に立ったタイミングで再度ノックされた。
それにしてもノックとは言えないようなレベルで音が小さい。ノックという行為の目的を果たせてない気がする。
「はいはい、誰ですか……と」
外開きの扉を、外に立っている誰かさんに当てないようにそっと開く。扉が開くと、そこに立っていたのは巫女シュツカだった。
意外な人物の訪問に善仁が驚いていると、彼女は蚊が鳴くような声で聞いてきた。
「あ、……ヨシヒトさん。夜分遅くにすみません。今、……少しお話しすること、できますか?」
善仁が与えられた自室は、「紅兎亭」の建物の裏手に建てられた、男性従業員用の寮の二階にあった。
自室といっても部屋の広さは4畳半あるかないかくらいのもので、正直言ってかなり狭い。
部屋の中にある物といえば、ベッドとベッドの足元に備え付けの鍵付き収納箱、それとちゃぶ台のような、小さなテーブルだけだ。
壁も床も板張りで、敷き物などは敷かれていない。壁には「紅兎亭」の制服が洗い替えの分と合わせて二着かかっている。
「まあ、狭いところだけどどうぞ。椅子も無いからそこ、ベッドに座る?」
テーブルを挟んで向かい合い、自分は床に直に座るかと善仁は考えたのだが、シュツカは遠慮したのか、しばらく考える素振りを見せた後、自分から床の方に腰を下ろした。
仕方ないので善仁がベッドに座る。
蝋燭か何かで明かりを点けようかとも思ったが、火を借りてくるのが面倒だった。お互いの顔が充分見えるくらい明るいので、別にこのままで良いだろう。
「お茶とか、何か飲み物でも有れば良かったんだけど、ごめんな、何も無くて」
水差しに入った水くらいなら有るが。訪れた客をもてなすことができない事を善仁が詫びると、逆に恐縮したようにシュツカが言葉を返す。
「あ、……いえ。お気になさらないで下さい。……大丈夫ですから」
扉のノックもそうだったが、彼女は声の出し方からして遠慮がちだ。
悪い言い方をすると、何というか、いつも何かに怯えているというか、オドオドとした印象を受ける。
善仁のシュツカに対する印象はそんな感じだったので、こんな夜遅くに、彼女が男の部屋を一人で訪ねてきたという事がかなり意外だった。
従業員の生活用スペースとして、「紅兎亭」の裏手には、こじんまりとした男性従業員用と、それより大きな女性従業員&娼婦たち用の寮がそれぞれ分かれて建っていた。
それぞれの寮に管理している責任者がいる。
女性寮は「完全男子禁制」となっており、男が忍び込もうが、女が引き入れようが、男の侵入が発覚した時点で基本的には男側が厳しい罰を受ける事が決まっていた。
その一方で、女性従業員や娼婦たちが男性寮を訪れるのは、あまり歓迎はされないものの、どうやら大目に見られているようで、ここに住むようになってからの約一週間の間に、二回ほど寮のどこからか、女性の喘ぎ声が聞こえてくることがあった。
安普請のためか、生活音はほとんどまる聞こえになっている。
シュツカがこの部屋を訪れた目的は一体何だろうか?
「お話ししよう」と言ってきたと思うのだが、彼女は沈黙したままだ。
シュツカも善仁と同じく「紅兎亭」の世話になっている。しかし労働力としてここに送られた善仁とは違い、彼女は大事な人質として保護される立場だ。
実際に普段の彼女は、女性寮の責任者の監視の下、雑用をこなすぐらいしかしていないらしく、「紅兎亭」で彼女の姿を見る事は無かった。
その彼女がこの部屋に居るという事は、責任者の監視をすり抜けて忍び込んで来たという事だ。
暗黙のルール上で大目に見られているとはいえ、彼女はある意味例外的な存在だ。
彼女が今している事がもし発覚した場合、彼女を監視している責任者からの信用を著しく損なう事になるだろう。
そんなリスクを侵してまで一体何故?何を話そうとして、ここに来たのだろうか?
(まさかとは思うが……夜這いじゃないよな?)
まずあり得ないとは思うのだが、ここに来て以来「紅兎亭」の給仕の仕事で部屋まで酒を届けるたびに、来る日も来る日も娼婦たちの喘ぎ声を聞かされたり、その裸を見たりしているのだ。
どうしてもそういう方向に考えが行きがちな善仁を責める事は、きっと誰にも出来ないだろう。
その可能性が頭をよぎると、この沈黙が何やら意味の有るもののような気がしてきて、非常に気まずい気分になって来る。
「ええと……。何か話があって、ここに来たんだよな?」
流石に沈黙に耐えかねて聞いてみる。
するとシュツカはピクッと体を震わせて善仁を見た後、カッと目を見開き、意を決したかのように口を開いた。
「よ……ヨシヒトさんは神のお力を信じていますか⁉︎」
言われた言葉の意味を理解できず、善仁はポカーンと口を開けた状態で固まってしまった。
(あれ?もしかしてこの娘、少しヤバい種類の人間なのでは?)
部屋に入れたのは失敗だったかもしれない。善仁は軽い後悔の念を感じ始めていた。