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異世界堕悪  作者: 押入 枕
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酒場のひとびと


「おお、ロト!いいタイミングだ‼︎」


 酒札売り場で客を捌いている酒場部門の責任者モリスは、善仁(よしひと)の姿を見るなりそう言った。

 モリスの前には酒札を求める客が並んで列を作っている。見たところ十人以上は並んでいるようだ。

 今夜の忙しさが目に見える形になって現れている。


「助かったぜ。この忙しさだろ?そろそろチャックのアホあたりがパニック起こして、何か粗相をやらかすに決まってるんだ」

 そうモリスが言った瞬間、善仁の後ろの方で皿が割れる音が鳴り響く。

「あーあ。ほらな、言わんこっちゃない。まったく、たまんねえぜ。じゃあ、ここは頼む。任せたぜ。あ、お客様、ここからはこの男がお伺いしますんで。それじゃ……」

 そう言い残して、モリスは音が鳴った方に向かって歩いて行く。それを見送るヒマも無く、善仁は客の対応を始める。


 この「紅兎亭(くれないうさぎてい)」の酒場のシステムとして、特徴的なのが「酒札」だ。善仁の知識にあるものの中だと、定食屋などの半券制に近い。


 このあたりの一般的な酒場では、客がカウンターで主人やバーキーパーに酒を注文し、その代金は銅銭などの硬貨、つまり現金を用いて、酒が提供されるその都度支払うのが普通だ。

 しかしそれでは酒の注文回数が増えるに従って金銭と酒のやり取りが面倒になるし、釣りの計算などでトラブルも招きやすい。

 そして何より酒を提供する主人やバーキーパーに精算業務の負担がついて回るので、売り上げに関してはどうしても客を捌く従業員の経験や要領など、本人のマンパワーに左右される事になる。

 そしてその結果、売上額の上限がその日の客数に関係なく、一定のラインで頭打ちになってしまう事が、一般的な酒場が抱えるよく有る悩みだった。


 そこで女将(おかみ)ハンナが考案した画期的な注文及び精算のシステムが、この「酒札」だ。


 客は酒の提供者と直接金銭でやり取りするのではなく、まず欲しい酒の酒札を酒札売り場で必要分購入する。

 酒札の形状と見た目としては、硬度が高い木材を小さな板状に加工したものに、酒の名前の焼印を入れてある。

 ちなみに酒場では酒だけではなく軽食も提供しているので、料理名が印字された札もある。

 ゴンドール一家お抱えの木工職人の技術によって、ほぼ規格の誤差無く大量に作られたこの札は、個人や少人数の組織レベルではまず偽造は不可能であった。


 客はこの酒札をバーカウンターまで持っていって、酒札と引き換えに酒を受け取る。

 札を見れば何の酒を注文したかが一目瞭然なので、提供する際に間違いがまず起きないし、客側はいちいち声に出す必要も無く酒を注文する事ができる。

 そして酒の提供者は酒の提供という作業のみにほぼ集中する事ができる。

 酒札というツールを噛ませることで、酒の提供と代金の精算を分離し、それぞれを効率化できるのだ。



 働き始めたニ日目に、初めて酒札の仕組みの説明を受けた時、善仁は衝撃を受けた。

 知ってしまえばなんて事はない、善仁が元居た世界では当たり前にあった仕組みだが、この女将ハンナの「発明」は、この世界の酒場の運営に革命を起こす可能性があると言っても過言ではない。

 これこそまさに「コロンブスの卵」だ。

 ヒントになるものはあったと女将は言ったが、この仕組みをほとんど一人で考えて、実際にシステムとして取り入れて、問題なく運用できるレベルまで形を作り上げたのだ。

 何より強調するべき点は、ここ以外のどこの酒場にもこのシステムは存在しないという点だ。女将の発想、経営センスには舌を巻くばかりである。


 女将は善仁が料金の計算ができる事を知ると、その日の営業から善仁を酒札売り場に立たせるようになった。

 驚いた事にこの店の従業員は、数を数える事はできても、こういった少し複雑な計算になるとお手上げといった者がほとんどらしい。


 仕事の内容については、一回目はモリスがマンツーマンで教えてくれた。

 二回目は最初の何人かの客を善仁が捌いたのを見ると、モリスは善仁に任せてどこかに行ってしまった。

 三回目からは当たり前のように最初から任されるようになった。


 あとは毎日の営業終わりに酒札の数と手元の現金を照らし合わせる、いわゆるレジ締めのような作業を女将立ち会いのもとで行うのだが、その作業自体が、おそらく他の酒場では実現不可能な「どんぶり勘定」や「金額の間違い」、さらには「従業員によるちょろまかしを極力防止する効果」を持っている。

 何だったら、毎日交換された酒札の数を記録しておくことで、売れ筋商品などの分析などにも役立てることが可能なのだ。仮にその記録をデータとして蓄積していったら……。

 などと、この「酒札」を知った事で、「営業マン佐藤善仁」として湧いてくるあれやこれやのアイデアが善仁の仕事脳を刺激し、久しく忘れていた「仕事の面白さ」を再発見させてくれるのだった。



 客の注文を聞きながら同時に並行して手を動かし、注文された内容に対応する札を、大量の酒札が納められた箱から取り出して手元の作業台の上に並べる。

 善仁には印字された字を読む事はできないが、文字の形と並びでその札が何を指すのかはもう覚えている。

 それほどメニューの種類があるわけでもないし、客の注文するメニューには偏りがあるので、大体の注文は似たような内容になるから字が読めなくてもさほど問題は無い。

 目の前の札の並びを眺めながら合計金額を計算し、代金を客から受け取って、引き換えに並べていた酒札をまとめて客に渡す。

 軽い接客要素もあるが、基本的には単純な作業だ。


 札を手元に並べるたびに、善仁は学生時代に先輩に付き合わされてしょっちゅう徹夜でやった麻雀や花札を思い出す。

 昔から周りの人間よりも数字に強かった善仁は、いつも点数計算を任された。その時と全く同じだなと、代金を計算しながらぼんやりと思う。

 こういった計算は、初めのうちは毎回計算しないといけないのが面倒なので皆が敬遠しがちだが、結局のところ、やればやるほどいわゆる「覚えゲー」、要は回数をこなすほど有利になるタイプのゲームに近づいて行くと善仁は考えている。

 パターンの組み合わせが経験として蓄積していって、どんどん計算が速くなって行くのだ。あとは計算を間違えないように注意しながら、いかに速く捌いていくかというだけの事だ。


 5分もすると、十人ほど並んでいた客はあと一人になっていた。

 酒札を求める常連以外の客は、大抵の場合、ソロバンを使わず暗算で料金を告げてくる善仁に対して疑いの目を向けてくる。

 が、幸い今のところトラブルになった事はない。いや、一度だけ食ってかかってきた客がいたが、その時は受け取った代金と、渡した酒札を酒札売り場のカウンターの上に戻して、札を一枚ずつ硬貨と合わせて確認し、計算が合っている事を理解してもらう事で解決した。

 なかなか大量の注文だったので、その時一部始終を見ていた周りの客は、計算が合っている事に目を丸くして驚いていた。


 最後の客に酒札を渡し、手が空いた善仁は店の中を見渡す。

 酔客たちの声が重なって、この空間一杯に詰まっている。

 酒場の中央には楽器を抱えた三人組の男が、派手に動いて演奏しながら歌っている。なかなかの喉自慢のようだ。

 周りの客も調子を合わせて歌っており、かなりの音量の合唱になって響いている。

 その合唱に耳を傾けながら、へえ、この世界にも「流し」が居るんだな、と善仁は少し明るい気持ちになった。

 奥の方の階段下では娼婦の一人が客の腕に胸を押し当てながら何やら話しかけている。と、二人して階段を登り始めた。

 商談成立だ、部屋に向かっているんだろう。確かに女将が言った通りの入れ食い状態だ。今日の酒場の客入りでお茶を()く娼婦はそうそう居ないだろう。

 商売繁盛、結構な事だ。



 ここは知らない世界だが、目の前の光景は現実だ。この世界で生きている者たちが酒に酔って、束の間の喜びを享受している。

 仕事終わりに寄った者、博打で勝って上機嫌な者。逆に負けてヤケ酒に逃げている者。

 娼婦を買いに来たが、度胸が無いのかなかなか彼女たちに声をかけられない様子の若い男。

 向こうには酔いが回って上機嫌なのか、服を脱いで上半身裸の女がいる。

 昼から飲み続けているカウンターの端に座る男は、まだちゃんと意識があるんだろうか?


 様々な者たちの人間模様がこの空間で繰り広げられているのを見つめながら、善仁はここに来る前、元居た世界で最後にこんな宴会に参加したのはいつだったか、その時の事を思い出そうとしていた。


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