Section.20 Runner(3)
浜橋遥、旧姓新田遥は、浜橋の最初の妻・麻耶の妹である。史郎からすれば、叔母であると同時に義母。そして、岸川摩耶の母。
麻耶の死後、史郎が新田家にあずけられている間に浜橋と再婚し、摩耶を産んですぐに岸川孝一郎に渡した女。
岸川摩耶の登場と前後して史郎や皆山の前から姿を消した女。
その遥は、人形のように白い、少しやつれた顔に、不思議そうな表情を浮かべていた。
何を見ているのか、見ていないのか。
「遥さん……」
史郎が、思わず呟いた。
「十年間も、どこに居たんだよ……」
呟きながら、カッと頭に血が上ったようだった。
史郎はアイコと雪奈を放り出すと、皆山に飛びついた。襟首をつかみ、噛みつきそうな形相で睨みつける。
「オヤジ、これはどういうことだよ! 」
「……」
皆山は、淋しそうな笑みを浮かべたまま、史郎に答える。
「見ての通りだよ。遥はずっと、岸川の屋敷にいた。私はそれを、知っていた」
皆山が言い終わるか終わらないかのうちに、史郎はもう自制心を失っていた。
史郎は左手で皆山の作務衣の襟を掴んだまま、右の拳を振り上げ、皆山の頬を殴りつけた。
皆山はもんどりうって庭の芝の上に転がり、史郎はそこに蹴りを叩きこむ。皆山は、苦しそうに体を折って、咳き込んだ。
「待って、先生! 」
さらに飛びかかろうとする史郎の右足に、アイコがむしゃぶりつく。
「止めて! 」
「離せ、邪魔すんな! 」
「嫌だ嫌だ嫌だ! 」
アイコは、ふりほどこうとする史郎に必死でしがみついていた。
「先生、お父さんにそんなことしちゃ駄目! 」
「アイコ! 」
「絶対後悔する! ほんとに! 絶対! 」
「……」
史郎は一瞬固まると、小さく息を吐いて体の力を抜き、しがみついたままのアイコに視線を落とした。
仕方ないな、という風に天を仰ぎ、くしゃ、とアイコの柔らかい髪を撫でる。
「……わかったわかった。もうしないから離せ、足が折れる」
「先生! 」
アイコは、ほっとしたように史郎の顔を見上げ、それから、ゆっくりと足を離した。
史郎はアイコから解放されると、咳き込みながら起き上がろうとしていた皆山に歩み寄った。
先ほどまでの怒りが嘘だったかのように、いたわるような手つきで皆山を起こしてやる。
その間、聖たちは、浜橋遥の様子を見ていた。
ぴくりとも動かず、どこか遠くを見ているかのような表情。もう五十代にさしかかっているはずだが、ともすれば聖の方が年上に見えるほどの童顔。
しかし、人形のように、反応が薄い。
目の前で皆山が殴り倒されても、久しぶりに現れた義理の息子の姿を見ても、ほとんど表情が変わらなかった。
なんだかぞっとする微笑だった。
聖と一樹、美春、雪奈は思わず顔を見合わせた。
「……この十年、ずっとそうだ」
皆山が、芝生にあぐらをかき、口元に滲んだ血を拳で拭いながら、言った。
「摩耶が、遥の心を殺したんだ」
「……なんだよそれは? 」
聖が、鋭い視線で皆山を突き刺す。
「話せば下らないことだ」
皆山は、少し俯いた。それはまるで、涙を零さないためのようだった。