Section.18 鏡の中の人形(5)
「……あたしね、すっごい抵抗したんだよ」
摩耶は、史郎が冷蔵庫から出してきたコーヒー牛乳のパックに直接口をつけてごくごくと飲みくだした。膝を開いて椅子がわりのコーヒー樽に跨がった摩耶は、無理矢理蓮っ葉な格好をさせられたフランス人形のように不自然。口の中の傷にコーヒー牛乳が触れたのか、小さく「いたっ」とか呟きながら。
「あたし、パパに話をしたの。久が大学出たら、結婚して久と一緒にカナダ行くって」
「なんでカナダ? 」
史郎は、冷凍庫にあった保冷剤をタオルでくるんで、摩耶に渡してやる。摩耶は、額の生え際にできたコブにそれを当てて、痛そうに顔をしかめた。
「久、カナダのソフトウェア会社に就職内定してたんだ」
「それはそれは。エリートは違うな」
「そ、久はエリートだから」
なんのてらいもなく言い返されて、史郎は苦笑する。摩耶は、自分のことのように誇らしそうだった。が、すぐにまた暗い目に戻って、俯く。死んでしまいたい、といって史郎のところに逃げ込んできた摩耶は、傷だらけだった。聞けば、父親に乱暴されたのだという。その割には落ち着いているようにも見え、史郎にはなんとも理解できない様子だった。
史郎はとりあえず摩耶を店の奥の自分の部屋に招き入れた。シャワーを使わせ、破れて汚れた服をジーンズとトレーナーに着替えさせる。少し落ち着いて、今は簡単に傷の応急手当をしてやっているところだった。
「そしたら、パパは真っ青になって。絶対に、だめだって。それで言い争いになって。あたし、パパに逆らったことなかったから自分でもびっくりしたんだけど」
「そういえばひどいファザコンだって自分でも言ってたな」
「そう」
摩耶は、上目遣いに史郎を見上げる。
「小さい頃からずっとあたし、パパのお嫁さんになるんだって思ってた」
「あのしけた親父のねえ」
「まあ、確かにショボい親父なんだけど。でも、あたしには大事な人だった」
史郎に言われて怒るでもなく、摩耶は淡々と答える。
こんなに長く、摩耶が話すのは初めて聞いた気がした。
「少なくとも、久くらいの奴じゃなきゃ、あたしの中では置き換えられなかった。パパがくれたいろいろなものに釣り合わせようとしたら、久が必要だった」
「……で、久はお前の中にあるその『大事なもの』に釣り合おうとしてる、ってことか」
史郎は、ようやく少し、「完璧超人」などとあだ名されている久が摩耶に惹かれ、懸命にその心の中に入り込もうとした動機がわかったような気がした。
「……無償の愛、か。てんで非合理」
史郎はため息をついた。何の役にも立たないけれど、役に立つ何者かと交換することのできないもの。
「しかもそれ、全然お前のためじゃないだろ。あいつ自身のためであって」
「あはは」
摩耶は、ちょっと目尻を下げて、なんだか泣き出しそうな顔で笑った。
「史郎さん、やっぱ、女のことわかってないよね」
「悪かったな」
「久は、あたしがいないと駄目なんだもん。そんな子、」
放っておけるわけないじゃない、と、摩耶はためらいがちに言いかけて、口をつぐむ。
「それで、困っちゃった。パパもあたしじゃないと、駄目。久も、あたしじゃないと、駄目。でも、久は」
「ああ、もういい」
史郎は自分の髪を掻きむしった。
「自傷行為に俺をつきあわすな」
「……ごめん」