Section.5 Bang・Bang・Bang(1)
そうは言っても、一緒に店に戻るのは少し気が引けたので、先に美春に戻ってもらうことにした。アイコは近くの自動販売機で缶コーヒーを買い、歩道のガードレールに腰掛けて、気持ちを落ち着かせることにした。
もう、日が暮れ始めていた。
アイコは、ふう、と息をついて、缶コーヒーを一口、すすった。
「おい、お前」
その背中に、聞き慣れない男の声がかけられた。
お世辞にも、いい感じとは言えない声色。
アイコは、首筋にチリチリした感じを覚える。少し前まで、街を歩く度に感じていた感覚。
アイコはまぶたをゆっくりと閉じて開き、残りの缶コーヒーを飲み干すと、空き缶を足許にことん、と置いた。
「おい、聞いてるのか! 」
声の主が一歩踏み出してくるのを、背中ごしに感じる。
多分、右か左の手を掴みにくるのだろう。
それくらい予測できれば、アイコには振り向く必要もない。
空気が動くのを察知して、掴みに来た手を捻りあげるだけだ。
相手が本職の格闘家ででも無い限り、アイコには自信があった。
そして、自信の通り、左側の空気の動きに応じて右にすい、と体を少しそらし、空振りした手首を両手で捕まえて、相手の勢いで捻りあげる。
気がつくと、自分より二回りくらい体の大きい、がっしりした体格の男が、アイコの足許で苦痛のうめきをあげていた。
「何の真似? 」
アイコは、聖たちの前では出したことがないような、低い、堅い声で言った。
ダークスーツ姿の男の腕を背中側にねじ上げ、身動きを封じながら。
子供のような体格のアイコだが、関節を完全に決めているので、男は振り払うことができない。むしろさらに腕を捻りあげられて、歩道に膝をつかされていた。
アイコは、男を楯にしながら車道側に後ずさり、周囲に視線を走らせる。
通行量は、決して少なくない。しかし関係ないものは皆、見て見ぬふりをして足早にその場を去っていく。
そして、立ち去らないのは、崩れたダークスーツや、派手な刺繍の入ったジャージ姿の、五人の男たち。見るからにまともな仕事をしていなさそうな……というよりは、いわゆる「チンピラ」然としたスタイル。
アイコは、ちょっとびっくりして、息を飲む。中学の後半以来、どういうわけか暴走族のレディースだとかヤンキー学生だとかに目をつけられやすく、しかも本人も折れる気がないせいで、生傷が絶えないくらい毎日のように乱闘を繰り返してきた。アイコ自身に反社会的指向はほとんどないが、降りかかる火の粉に自分なりに対処してきた結果だった。
聖には冗談めかして説明していたが、空気投げだって単なる暇つぶしで独習したわけではない。必要に迫られて練習し、実戦でも使ってきたから、相手に怪我をさせることなくひょいひょい投げ飛ばせるくらいのレベルに上達したのだ。
とはいえ、所詮それはアマチュア同士のじゃれあいに、毛が生えたようなものである。
ところが、目の前にいるのは、そういうお調子者ではない。どうも、日常的にこういった荒事をてがけている、本職の方っぽかった。最初の一人を簡単に捕まえることができたのは、アイコがそちらを見ないで感覚だけで動いたために起きた僥倖に過ぎなさそうだった。
「おじさんたちさあ」
アイコは、唇を舌で湿らせながら、顎をあげた。悪い癖だが、挑発的な口調、見下げるような目線になる。
「悪いけど、人違いじゃない? 」
「舐めてると痛い目みるぜ、お嬢ちゃん」
腕をねじ上げられたまま、ダークスーツの男が言った。冷や汗をかきながら、しかし酷薄そうな笑いを口元に浮かべて。
「上泉の嬢ちゃんの客人だから、丁寧に扱ってやるつもりだがな」
「なんで聖さんのこと知ってるの? 」
「さあな」
「いいけど、こんな人通りの多いところでこんな目立つことしたら、警察に通報されるよ? 」
「だから、ちょっとカオ貸してもらおうかとおもったんだがな……思ったより乱暴な子で良かったぜ」
ダークスーツの男は、そう吐き捨てると、力任せにアイコにねじ上げられた腕をねじり返した。
ぐき、と、肩と肘の関節が、外れた手応え。アイコは、その手応えに驚いて思わず男の腕を放しかけ、あわてて掴み直そうとして男の怪力にふっとばされた。
「! ! 」
アイコは背中からガードレールに叩きつけられ、激痛で息が止まる。思わずうずくまると、男は太い足に履いたエナメルの靴をアイコの背中に乗せ、踏みつぶすように路面に押さえつける。
「ぐふっ……」
汚いアスファルトに無理矢理這い蹲らされて、アイコは咳き込んだ。必死に男の足をどけ、起き上がろうとするが、まるで身体の自由が利かない。
「やれやれ。喧嘩慣れしてるようでも素人だな」
ぐきぐき、と関節をはめ直しながら、男は嘲るように言った。
「さて、あっちでゆっくり話を聞かせてもらおうか」
「! 」
男は、尖った靴のつま先でアイコの脇腹を蹴り飛ばした。アイコは、激痛で声も出せず、芋虫のように路面を転がる。
視界が、涙と汗で曇らされて、すりガラス越しにみているようにぼんやりする。さっきまで聞こえていた街の喧噪が聞こえない。
負けず嫌いのアイコは、悔しくて歯を食いしばった。だが、どうにも反撃しようがない。さっきの脇腹への一蹴りで、体中の力が抜け、起き上がることもままならなかった。
男は、アイコの髪を掴んで、無理矢理引き起こそうとする。うええ、と、アイコの口から嗚咽が漏れた。涙がぼろぼろ流れて、頬が熱い。アイコは、口の中でちくしょう、ちくしょう、と呟いていたが、それは意味の通じない嗚咽にしかならない。
「雪奈、ご要望通り捕まえたぜ」
男は、アイコの顔を突き出すようにして、取り囲んでいる五人の男たちの背後に向かって呼びかけた。
「こいつが、狼男のイロかい? 」
「さあね」
真ん中にいた、派手な刺繍にサングラス、金色のモヒカンという出で立ちの男の背後から、乾いた女の声がした。
「でも、エサには違いない」
「狼男ってのはロリコン野郎かよ」
六人の男たちは、下品な笑い声をたてた。
その笑い声は、モヒカン男の後ろから、同じくらい背の高い、黒いロング・ブーツに黒いエナメルのワンピース・ミニ姿の、パンク・ファッションの女が現れると、潮が引くように消えていった。
「お嬢ちゃん、手荒な真似してごめんね」
女は、髪を掴まれたまま涙で顔をぐしゃぐしゃにしているアイコに歩み寄ると、ぐっと顔を近づけて、言った。言葉とは裏腹に、意地悪い笑みを浮かべていた。紫のルージュに、派手なマスカラ。
「でもねえ、怖いヒトがいないとこで、ゆっくりお話しを聞きたかったのよ」
言いながら、指でアイコの頬を突っつき回し、輪郭をなぞる。うええ、と、アイコは怯えたような声をたてた。女は、アイコの右目の前に右手の人差し指をかざすと、急に怒ったような声を上げた。
「びいびい泣くんじゃねえよ! 目玉くり抜いてやる」
「……や、」
髪の毛を掴まれたアイコは、嗚咽混じりに、絞り出すように言う。
「やれ、……るもんなら、やってみろ! 」
「へえ、おもしれえじゃん」
女の目が、細くなる。
「あたしを口だけだと思わないことだね」
「ひ……」
女の指が迫ってきて、アイコは思わず目を閉じる。女は、瞼の上に人差し指を立て、嬲るように眼球の形をなぞる。アイコは、冷凍庫の中にいるような寒気を感じた。恐怖というのは、度を超すと寒さそのもののように感じるらしい。
「覚悟しな」
「待った! 」
女がアイコの目に指を突き立てようとしたその時、ぼく、という鈍い音とともに、もう一人、別の女の声がした。
「雪奈。あんた、何してくれてんの? 」
鋼鉄のように、冷たく、硬い声。
「冗談としては度が過ぎてない? 」
アイコがなんとか視線をめぐらせると、六人の男のうちの一人が、仰向けにひっくり返っているのが目に入った。その向こうには、使い込んだ黒革のライディング・ブーツに、革パンツに包まれた、細いが必要な筋肉のついた、すらりと長い足。
「上泉のお嬢ちゃんか」
アイコの髪を掴んでいた男が、不意に手を離したせいで、アイコはアスファルトに顎を打ち付けた。
男は、アイコの背中から足をどけると、大仰に肩をすくめ、アイコを取り囲んでいた他の四人の男に目配せをした。金色のモヒカンは、聖の足許で頭を抱えて呻いている男を助け起こし、他の三人の後を追うようにして雑踏に消えていった。アイコを掴みあげていた男も、それに従って、顎を抱えてのたうち回っているアイコと、パンクファッションの女、そして最後に現れた黒革の上下の女の三人を残して消えていった。
聖はアイコに駆け寄ると、小さい子を抱っこするようにして、アイコを抱きしめた。
「聖……さん? 」
アイコは、薄く目をあけて、聖の顔を見上げた。そして、ほっとしたように、脱力して聖に身を預けた。聖は、アイコをガードレールにもたれかけさせて、パンク女の方を睨み付けた。