Section.18 鏡の中の人形(1)
岸川摩耶がはじめてシルバーバレットに姿を見せたのは、史郎がその店で働きはじめて2年目のことだった。
岸川摩耶の名前が、自分の母親と一文字違いであることには、史郎は最初から気がついていた。麻耶と摩耶。はじめは、単なる偶然だと思っていた。実は偶然でもなんでもなく、義母の遥が姉を偲んでつけた名前だったのだが。
史郎がそんなことを知るよしもなかった。
もちろん、父の皆山は知っていた。知っていて、妹だということを史郎に黙っていた。
母方の祖父母に育てられた史郎は父のバイクショップを手伝いはじめて間がなかったし、史郎には摩耶の誕生のことを話していなかったから、言い出せなかったのかも知れない。産まれて間もない摩耶を養女に出したことも引け目だったのだろう。
その時はまだ遥が存命で、史郎も微妙に気を使っていた。
祖父母から、父親夫婦のことを手伝ってやるように言われたのは、史郎が大学に進学しないでバイクレースを続けたい、と言い出したためだった。祖父は、むっつりと「蛙の子は蛙」と言って、父のバイクショップの広告の載った雑誌を渡してくれた。
シルバーバレットは、たいして大きなショップではなかったが、有名なパーツ・メーカーの、セミワークス・マシンを任される、腕利きのチューナーだった。史郎も、名前くらいは聞いたことがあった。
それが自分の父親だとは、予想もしなかったが。
とりあえず、資金稼ぎとプロライダーへの近道と割り切って、史郎はシルバーバレットを手伝い始めた。
手伝い始めてみると、シルバーバレットは噂にたがわぬ凄腕チューナーだった。仕事は的確で丁寧、全く同じ仕様のエンジンが、シルバーバレットの手にかかると感覚的にも実際的にもガラリと変わるのである。ちょっとしたライダーなら誰でも分かるほどである。仕事には妥協がなく、仕上がりは完璧。口数は少ないが、ライダーやクライアントとのコミュニケーションも決して不得手ではない。
確かに、シルバーバレットは尊敬に値するチューナーだった。
自分の父であるということを除けば、だが。
そういう捩れた敬意を抱きながら、店を手伝って半年ほど経った頃のことだった。
史郎は、県外のコースで走行練習中に、他のライダーの事故に巻き込まれて重傷を負った。一時は生命の危険もあったほどの大怪我だった。
結局レーシング・ライダーとして復帰することはなかったが、日常生活に支障がないところまで回復できたのは、父母の尽力があったからだった。
史郎はそれからは、父親としてもシルバーバレットを少しは尊敬するようになった。
岸川摩耶が現われたのは、ちょうどそんな頃のことだった。