Section.17 夜明けの、ミュウ。(4)
岸川摩耶は浜橋銀矢と新田遥の二番目の子供としてこの世に生を受けた。ということは、「狼男」こと新田史郎の妹、にあたるはずだった。
史郎は、そのことを知らずに成長した。
史郎の母は新田遥の姉、新田麻耶と言った。史郎を産んだ時に病気で亡くなって、史郎は麻耶と遥の父母に育てられた。銀矢はその後、亡き妻の妹・遥と再婚して事業を始めたので、史郎にとっては遥は義理の母であり、叔母でもあった。
「……それだけでも、昼ドラ真っ青の人生、だけどな」
コンクリートの柱の影に身を潜めながら、史郎はわざと大きな声で言った。
キイン、と金属音に近い音がして、柱の角の一部が弾ける。
「しかし、日本国内で銃で狙われる、なんてのはVシネマくらいかと思ってたが、俺が主役ってのはあんまりだと思う」
「気の毒だとは思うよ」
足を引きずるように史郎の方に近寄りながら、岸川は眼鏡をずり上げながら言う。
「私は遥と結婚するつもりだった」
声で見当をつけ、岸川が近寄ってきた分じりじりと後ろに下がる。気休めとは思いながら、ソファを楯にし、部屋の中を観察する。最初に話をしていたロビーで、まず史郎が岸川を投げ飛ばし、それからハンドガンを持ち出した岸川が史郎を二階まで追いつめていた。階段室から書斎、書斎の奥の寝室。岸川は書斎の入り口から、寝室に追い込まれた史郎を撃つ。サイレンサー付のオートマチック。岸川は随分打ち慣れているようだった。躊躇いもなく人に銃口を向ける人間を、史郎は久しぶりに見た。数年間滞在した東南アジアの開発軍事政権の国家で経験していなければ、身動きできなくなってもおかしくない。殺し慣れている人間特有の空気を、岸川はまとっていた。
「だが、私が身をひいた。私の手はもう真っ黒だったからな。将来性のなさそうなバイク屋でも、人殺しのヤクザよりはマシだろうと」
ガシャン。
岸川がテーブルの上の花瓶をなぎ倒してひっくり返し、派手な音を立てる。
「ところが、皮肉なことに。その時既に、遥は娘を身ごもっていた」
「あんたとオヤジ、どっちの子でもおかしくないタイミングで、かい」
「そうだ」
会話を続けながら、史郎は周辺を探る。寝室の奥には、庭に面した窓。ワイヤーガラスではなく、普通のガラス。忍び込む時に庭を見てきたが、寝室の外側にはかなり茂った植え込みがあったはずだった。
「だが、遥はその子を私と彼女の子だと確信していた。だから私は、その子を浜橋から取り上げることにした……ちょうど、自分のショップを持つために金を欲しがっていたからな」
「我がオヤジながら最低だね」
史郎は、ソファの影で身構え、窓の方を意識しながら少し身体をよじる。
「長男の俺は母方の実家に預けたまんま。後妻の娘は鬼畜ロリコンかもしれないオッサンにプレゼントかあ」
「浜橋は私と遥のことを、その時は知らなかったから、結構苦労はしたがね」
岸川は、少し感傷的になっているようだった。圧倒的に優位だからこそ、余裕をかましているのかも知れなかったが。普段以上に饒舌に、史郎に昔話を続けていた。
「だが私は、真剣に摩耶を育てたよ。当たり前だろう、実の娘なのだから」
「だからこそ、上泉久とつきあうのが許せなかった、ってところか」
溜め息混じりに答えて、史郎は少し思案する。
窓に向かって飛び、庭にうまく降りれば、この場は逃れられるかもしれない。が、岸川はおそらく、窓から史郎が飛び出すことくらいは予測していることだろう。そうだとすれば、飛んだ途端にいい的ということにもなりかねない。
思案してもたれかかると、楯替わりのソファがずる、と少し床を滑った。史郎はソファの足に、カーペットの上を動かしやすくするためのカバーがかかっているのを確かめた。
書斎側の入り口から見ると、寝室のソファは入ってすぐ左側の位置で、ベッドの脇。反対側の壁にはハンガーがあり、ジャケットが何枚か壁に直接かけてある。その隣は等身大の板鏡。
あんなスタイルでも、岸川は身だしなみを気にしているらしかった。