Section.17 夜明けのミュウ(1)
バイクが湖に突っ込むという派手な事故の割には、周囲の反応は冷淡だった。警察にも消防にも、すぐに連絡した者はいなかったようだった。
あわてて、半ば逆走気味に引き返してきたアイコは、完全にパニックに陥っていた。サイドスタンドをかけ損ねてSDRを立ちゴケさせ、クラッチレバーの半分を折ってしまう始末。
GSX-Rの姿は全く見えず、油が湖面に浮いてくるのが見えただけ。聖の姿も、見つからない。
あわてて湖に飛び込もうとして、アイコは、すぐ傍の植え込みから、黒い、ごつい、オフロード用のブーツが顔を覗かせているのに気付く。
あわてて駆け寄ると、果たして、上泉聖が植え込みの中に放り込まれていた。
刈り込みがいい加減だったおかげで、クッション効果は結構あったようだ。バトルスーツに擦り傷は見えるが、大きな外傷は見当たらない。
アイコはおそるおそる聖に歩みより、手を差し伸べかけた。
「馬鹿、動かすな! 」
背中から大きな声を投げつけられて、アイコは思わず立ち尽くす。そのまま硬直している脇を、紺の作務衣の男が横から追い抜いて、聖の前でしゃがみ込んだ。聖の左手からグローブを外して、脈を見る。停まっていないのを確認すると、男は振り返らずにアイコに言う。
「救急車! 」
そのバリトンの声に、アイコは聞き覚えがあった。なかなか忘れられない声。
「浜橋先生? 」
見覚えのある、日に焼けた四角い顔。鋭い眼光。
忘れにくい特徴的な顔の、浜橋皆山だった。
「話は後だ。とにかく、救急車! それと、警察! 」
「あ、はい! 」
宮田のことを聞かされていないアイコは、そこにたまたま皆山が居合わせたことに驚きながら、携帯電話を取りだした。
たどたどしい調子で消防と警察に連絡し、ふう、と溜め息をつく。
そして、改めて、皆山に向き直った。
皆山は肩をすくめ、アイコに言う。
「大丈夫だ、多分大きなダメージじゃないと思う。上泉さんも強運だな。もちろん、頭の中までは分からないから、早めに見てもらったほうがいいが」
その言葉を聞いて、アイコは旧に膝に力が入らなくなったようだった。
その場にぺたんとしゃがみ込み、グローブとヘルメットを外して、傍らに置いた。膝を抱え、顔を伏せたまま、絞り出すように言う。
「……ありがとうございます」
気がつくと、肩の震えが止まらなかった。
「礼を言うのは私の方だ」
皆山は、ぽん、とアイコの小さな肩に手を置いて、静かに言った。
「君のおかげで、古い友人に罪を重ねさせなくて済んだ」
「……? 」
「というより、詫びを言うべきだろうな」
皆山は、アイコに背を向けて、転んだままのSDRを引き起こし、サイドスタンドを立てた。クラッチ・バーの端は折れているが、三分の二は残っている。
それ以外には、問題はなさそうだった。
「小林さん……アイコさん、だったね」
皆山は、うずくまっているアイコに言った。
「このバイクは、私が造ったんだ」
「……え? 」
「私が、娘のために造ったんだ」
アイコは顔を上げて、皆山を見た。
何を言われたのか分からない、という顔だった。涙と汗にまみれて、白い頬も色素の薄い瞳の目も真っ赤に染まっている。
だが、皆山の次の一言の方が、アイコにとっては大きな衝撃だった。
「私が、岸川摩耶と新田史郎の父親だ」
「……え? 」
「馬鹿息子が、君にそんな格好までさせたのだろう。本当にすまない」
皆山は、深々と頭を下げた。
「心から、詫びたいと思う」