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Section.16 ダイヤモンド。(5)

 来客が帰った後、胃の痛みに耐えかねた岸川は、胃薬を探し回った。普段こんなことがあれば、雪奈がすぐに胃薬を準備するのだが。

 キッチンのキャビネットの中で胃薬の瓶を見付けると、数も確かめずに手のひらに山もりにし、むさぼるように一気に口に放り込む。

 たまたま、冷蔵庫にはアルコールと牛乳の1リットルパックしかなかったので、それをジョッキに入れ、胃薬ごと、飲み干した。

 すぐに胃の中から嫌なにおいがあがってきて、岸川は吐き気を覚え、トイレに駆け込んで、力一杯吐いた。派手な嘔吐。

 げえ、げえ、と声を上げて、胃液しか出なくなるまで様式便器にぶちまけると、岸川はようやく一息ついた。

 出勤のために身支度を整えようと、リビングを出てバスルームに行き、シャワーを浴びる。バスローブをひっかけてベッドルームに戻っても、着替えは用意されていない。

 岸川は小諸雪奈以外の人間を自宅の生活空間には入れなかったから、当たり前なのだが。雪奈がいなければ、すぐに日常生活にも支障をきたす。それくらいに、岸川は雪奈に依存していた。

 その女を、昨日、殺そうとした。

 仕方なかった。

 雪奈は、岸川の大切な記憶に触れ、それを汚そうとしたのだ。それも、上泉聖のために。

 岸川は、それが許せなかった。

 明和会の意向を受けて、自分の地位を確保するために権堂に情報を流していたことなど、岸川は気にしない。雪奈自身の欲望のための行動は、むしろ微笑ましいとさえ思う。それは所詮、岸川の腕の中でじゃれているようなものだ。

 だが、上泉聖のことは、違う。

 雪奈は、自分より、岸川より、そして岸川と自分の関係より、聖のことを優先した。聖の求めることに、自分たち以上の価値があるかのように。

 そもそも雪奈が岸川に接近してきた理由がそれであることも、岸川は知っていた。上泉久の事故死と深く関わる「狼男」、そして狼男のSDRの本来の持ち主である岸川摩耶のことを知るために、雪奈は岸川のもとにやってきたのだ。

 最初のうちは。

 それから何年かたって、狼男のことも摩耶のことも、みんな忘れていた。

 雪奈も、岸川も、ひょっとしたら聖も。

 このまま、平穏に過ぎてくれれば、と岸川は思っていた。

 だが。

「岸川さん」

 とりとめもないことを考えながら、バスローブのままリビングに戻り、ソファに腰掛ける。その岸川の背中に、出し抜けに男の声が投げつけられた。

「不便でしょう、身の回りの世話をしてくれてた小諸雪奈がいなくなって」

 開封したてのカッターナイフのように尖った声。

 岸川は、その声の主を知っていた。知っていたから、振り返らずに、そのまま答える。

「久しぶりじゃないか、狼男くん」

「できれば二度とお会いしたくなかったですがね」

 玄関側のドアにもたれ、腕を組んだまま、声の主はため息まじりに言った。

 オレンジのマウンテン・パーカー、目深に被ったジャック・ウルフスキンのキャップ。マスクはアイコにとられてしまったので、かわりにレイバンのサングラス。「狼男」、新田史郎。

「大島さんから聞きましたよ。相変わらず酷い人だ」

「ご挨拶だな。君も人のことは言えないだろう」

 岸川はふああ、とあくびをして眼鏡をかけなおし、応接テーブルの上のシガレット・ケースに手を伸ばす。葉巻を一本取り出し、深々とふかす。

「で、何の用だね? 」

「あんた相手に無駄口を叩く気はない」

 史郎は肩をすくめて、つかつかと岸川に歩み寄った。岸川は表情も変えずに、もう一口、葉巻をふかす。

「手短に聞く。浜橋皆山はどこにいる? 」

「それを聞いてどうするんだね」

「とりあえず、連れて帰る」

 史郎は、岸川の向かいに腰掛け、上目遣いに見上げる。

 鋭い目つきは生まれつきだが、サングラス越しの射るような視線は、アイコは勿論、聖にも一樹にも向けたことがない厳しいもの。

「あれでも父親なんでね」

「そうだったかな? 」

「そうだよ」

 史郎の声が、ほんの少し、険しくなった。

「俺と、摩耶の父親だ。忘れたとは言わせない。だからあんたも、あの人を飼ってきたんだろう」

「君も口が悪いな」

 岸川は少し目を細め、葉巻を灰皿に押しつけて消した。

「だが、間違っているよ。訂正したまえ。摩耶は私の娘だ」

「さあてね」

 ぱあん、と、史郎は右手で作った拳を、左手の手のひらに叩きつけた。

「まあ、それもどうでもいい。オヤジはどこにいる? 」

 岸川は、いつものつまらなそうな愛想笑いを浮かべ、史郎の方を振り返った。

 ぞっとするほど、何の揺らぎもない表情。

 史郎は、ふ、と小さく息をつき、意識して体の力を抜く。史郎にとっては、相変わらず不気味な男だった。

「皆山先生は、旅に出られたよ」

 岸川は、まるで天気の話でもするように、言った。

「作品のインスピレーションを得るために、バーナード・リーチのポタリーでも尋ねてみたらどうかと勧めてみたら、大変乗り気でね。今頃は国際線に」

「嘘だね」

 史郎は、途中で岸川の言葉を遮った。

「オヤジのパスポートは、俺が預かっている。パスポートなしで行けるリーチの窯元ってのは、あの世くらいにしかないだろうよ」

「……」

 岸川は、不思議そうに史郎を見た。空洞のような、中身のない目。

 史郎は、人形か死人の目でものぞき込んでいるような気分になった。

「慎重なあんたが、あんな無茶をやり出すとは思わなかった」

「ほう? 」

「そんなにまでして、自分の体面が大事なのか、と、最初は思った。だが、上泉聖や小諸雪奈が少しくらい騒いだところで、あんたのこの町での立場は揺るがない。明和会本体や権藤に嗅ぎまわられてるのは、少し鬱陶しいかも知れないが、それにしても人一人殺せるほどの理由じゃない。そうだとすれば、そして、オヤジとあんたの利害が一致してるとすれば、たったひとつ」

 史郎は、鋭い視線で岸川の空っぽの目をのぞき込みながら、言った。

「あんたもオヤジも、摩耶を守ろうとしているんだろ」


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