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Section.4 スキップ・ビート(4)

「アイコちゃーん。冷めるとまずくなるよ、みーちゃん特製カルボナーラうどん」

 カウンターの奥でサラダを作りながら、美春が甲高い声をあげた。

 開店前のロゼッタ・ストーンの店内には、美春と一樹、アイコと聖。

 一樹は素知らぬ顔でカウンターの一番端に陣取って一心不乱にカルボナーラうどんをかっ込んでいる。

 そうでもしないと、この妙な緊張感に耐えられなかったのかも知れない。

 聖はバイクで乗り付けたくせにいきなり黒ビールを二杯立て続けにかっ喰らい、その後はカウンターの真ん中の席で頬杖をついて黙ったままだし、最初なにやら聖に喰ってかかりながら店にやってきたアイコは、一番カウンターから遠い、冷たいイミテーションの石材のテーブルに突っ伏したまま、死んだように動かなくなっている。しかも、何故かくたびれた赤いジャージに、バイク用のプロテクターをくっつけた珍妙なスタイル。

 一樹は、この近くでやっていた昼のバイトがハネて、遅めの昼飯を開店準備中のロゼッタ・ストーンで食わせてもらいに来ただけなのだが。それが運の尽きで、美春特製のカルボナーラうどんを楽しみに待っている間に、景気の悪そうな二人の来店に居合わせてしまったのだ。逃げるにも逃げられないので、素知らぬふりをしてやり過ごすことにした。下手に手出しをしてとばっちりを喰らったら、命に関わるような気がした。

 こういう時、美春が頼りになることを、一樹は実感していた。美春は二人の様子を咎めるでもなく、聖には黙って冷えたビールを注いでやり、アイコにはいろいろ話しかけながら、早めの晩飯……または、遅めの昼飯を準備してやっている。

「アイコお、まだいじけてんの? 」

 カウンターを出た美春が、少し冷めかけたカルボナーラうどんの皿の横に、ほうれん草のシーザーサラダの小皿を置いてやりながら言う。

「うっさいうっさいうっさい」

 アイコは三回繰り返すと、がば、と起き上がって、フォークに手を伸ばした。

 美春の、メイクは濃いが端正な、とても途中で女性にクラスチェンジしたとは思えない顔をにらみつけるように見て、ぺこり、と頭を下げる。

「いただきます! 」

「わ、ビックリした! 」

 驚く美春を尻目に、アイコはいつものようにガツガツと、すごい勢いでうどんに食らいついた。

 朝はたっぷり食べたのだが、途中で聖と公道バトルをやってへこまされたり、そのままちょっと気持ち悪い得意先で、自分だけが分からない上に自分にも関わりのありそうな話をされたりしていたので、昼ご飯にありついていなかったのだ。挨拶と謝罪とお礼をちゃんと言う、三度のご飯はきっちり食べる、といった点限定で妙に躾の良いアイコには、結構辛かった。

「おいしい……」

 頬をかすかに紅潮させ、口一杯にうどんを頬張りながら、アイコは呟いた。

「みーちゃん、この前はごめんなさい……」

「なーにが? 」

 わざと大仰に、美春が聞き返す。

「あたし、ひどいことを言った……」

「なんのことかしらねえ? 」

 美春は、腰に手を当てて、大げさな溜め息混じりに言う。香水の甘い香りが、アイコの鼻をくすぐった。

「みーちゃん、何の身の覚えもないわよお、アイコちゃん」

「うわ、偽善くせえ」

 カウンターでぼそっと呟いた一樹は、美春にすごい顔で睨まれて黙り込む。今は細腕で長身な女性の姿をしているが、美春が高校時代にボクシングのインターハイ選手だったことを一樹は知っている。しかも、対立するチームとのケンカで相手の頬骨と肋骨を誤って折ってしまい、家庭裁判所に書類送検されてそのまま引退したことも。おかげさまで一樹には、その手の勲章はひとつもない。

「ありがとお、みーちゃん! 」

 一樹ほどひねくれてもいなければ、美春の過去の情報ももたないアイコは、がば、と、美春の腰に抱きついて、大声で嘘泣きをはじめた。聖に当てつけるように。

「どっかの誰かさんみたいに、アイテム扱いしないもんね! 」

 ぴく、と、聖の肩が震えたような気がした。

 一樹は、ひゅ、と、空気が鋭く動くのを感じた。

 聖が、瞬時に立ち上がって、美春に抱きついていたアイコの、ジャージの襟首を掴みあげていた。キスできるぐらいの距離に顔をくっつけて、聖が言う。

「あんたねえ、いつからそんな嫌ーな言い方するようになったの? 」

 ちょっと息が酒臭かった。

「あたし、悪くない! 」

 アイコは、負けずに言い返す。

「シルバーなんとかとか、摩耶さんがどうとか、あたしの知らないあたしの話をしたのは聖さんの方! 」

 勢いでアイコを吊り上げかけていた聖は、言葉に詰まる。

「聖さんのことは信用してるけど、自分の知らない自分のことを勝手に離されるのは嫌! 」

「く……」

 聖は必死で言葉を探すように、体の動きを停めて、目だけをぐるぐるとさ迷わせた。が、結局、急に回ってきたアルコールのせいもあって考えるのをやめ、アイコを突き飛ばすようにして離した。そのまま背を向けて、どん、とカウンターに拳を叩きつける。

 突き放されたアイコは、一瞬、信じられない、という表情をして立ちすくんだ。そして、事態を理解すると、ぐしゃ、と表情が崩れて、あわててその場を逃げ出そうとする。あたしは、また捨てられる……その想いが、背骨に突き刺さる。アイコは、転びそうになりながら、ロゼッタ・ストーンを飛び出していく。

「アイコちゃん! 」

「アイコ! 」

 一樹と美春が同時に声をあげ、それから、互いの顔を見合わせる。美春が目で合図をし、アイコの後を追う。一樹は頷いて、一呼吸。

 それから、聖に言う。

「今のは、聖さんが悪い」

「……分かってる」

 聖は、カウンターの奥のフォア・ローゼスの瓶に手を伸ばすと、キャップを開けて、そのままラッパ飲みした。

「だけど、どう言えばいい? あんたのバイクは、あたしの兄貴を殺した奴のものだった、なんてさ」

「聖さん……」

「言えねえよ。ひょっとしたら、あんたが『狼男』を知ってるんじゃないかと思ってる、そうじゃなくてもあんたを捕まえてたら、いつか『狼男』の尻尾をつかめるんじゃないかと思ってる、なんてさ」

 本当はそんなんじゃないんだから。

 聖の言いたいことは、一樹にはよくわかった。

 あの天然ボケを放っておけない、というだけではない。アイコは聖にとって、間違いなく特別なのだ。なにがどう特別なのかは分からないが、永久凍土のような聖の頑なさ……それは普段、聖自身の如才なさで巧妙に覆い隠されているが……を、少しずつ溶かしていくとしたら、ああいう奴なんだろう、と一樹は思う。

 だからこそ、聖は、いつもなら踏まないようなヘマを踏み、アイコを泣かせてしまうのだ。


 特に運動部に所属していたわけでもなければ、トレーニングをつんでいるわけでもないだろうに、アイコの足は速かった。特に、夕方になって少し混み合ってきた、ロゼッタ・ストーンの周辺の歩道を、人混みを縫うようにして走らせれば。

 しかし、走りにくい靴を脱ぎ捨てた美春は、いやしくも本物のアスリートだった。

 アイコは、次の四つ角の手前で美春に捕まった。

 むしろ、捕まってほっとしたように、その場にへたり込んで、がんがんと地面を殴りつけた。

「よしなよ、アイコ。バイクに乗れなくなるよ」

「うん……」

 諭されてアイコは素直に従い、美春は両肩を抱えるようにしてアイコを立ち上がらせた。

「今のは、聖が悪いと思う」

 美春は、はっきりと、そう言った。

「でも、悪い聖を、あたしは久しぶりに見た」

「え……? 」

 何の冗談かと思って顔をあげたアイコの目には、美春が冗談を言っているようには見えなかった。

 美春は、真顔だった。

 アイコがどう答えていいのか分からないで黙っていると、不意に美春はいつものわざとらしいほど明るい笑顔を作って、言った。

「あの子、ここ十年くらい、『完璧な人』のフリをしてるんだ」

「『完璧な人』? 」

「あの子にとっては、久はそう見えるらしい」

「また知らない名前だ……」

「あ、そうか。話してないんだ……」

 そのうち必ず聖が自分から話すと思うから、あたしからは言えないけど、そういう人がいたんだよ、と、美春は懐かしむような表情で言った。

「ともかく、そいつが死んで、それ以来、聖は自分の役目とい久の役目、二人分の役目を引き受けてきた。最初のうちは、あたしたちもその方が都合が良かったから、そんなの嘘だと分かってても聖のやりたいようにやらせておいた。そしたらあいつ、自分で自分の型にはまり込んで、抜けられなくなったらしい」

「……」

「だから、今日みたいに、バランス崩せる相手ってのは貴重なんだ。あの子、あんたに甘えてるんだよ」

 自分に甘える聖、という美春の言葉は、どう考えてもアイコには理解できなかった。聖は、今のところアイコにとっては「目標」であって、絶対的な人のように思えていた。その人に突き放された、と、アイコは感じていた。

 美春の話を聞きながら、アイコの顔からはどんどん表情がそげ落ちていた。鋭く冷たく、瞳の輝きが変わっていく。

「そんなの、知らない」

 アイコは、

「聖さんは、あたしのことなんか、珍しいアイテムくらいにしか思ってないんだ、きっと」

「……ばーか」

 ふわり、と抱きしめられて、アイコの凍りかけていた気持ちが、ふと揺るんだ。とても、少し前まで男をやっていたとは思えない、暖かくて甘く、柔らかいハグ。体温が、ぶわあ、とあがる。

 通行人たちが、珍奇な目で二人を眺めながら、通り過ぎていく。

「……みーちゃん、恥ずかしい」

「ばーか」

 美春は、もう一度、言った。

「あんたは、こうしてあげれば暖まるだろう? 」

「……」

「聖は、あんたみたいな奴じゃなきゃ、暖められないんだよ」

 美春は、アイコを抱きしめたまま、耳元でささやく。

「だから、ちょっと感じ悪いかもしれないけど、聖を見捨てないで」

 アイコは、美春の言葉を、頭の中で反芻する。

 アイコなんかいなくても、聖には一杯、仲間がいるのに? 一樹や美春や、大島や、それから、それから。。。それでも、美春は聖にはアイコが必要だという。

 聖を追いかけてみよう、と思ったのはアイコの方で、それを認めてくれはしたけれど、聖の方にはアイコは必要ない、と思っていたのだが。

「……わかったよ」

 アイコは少しためらって、それから、くす、と笑った。

「みーちゃんがそんなに言ってくれるなら、もう少し、聖さんの足手まといをやってみる」

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