Section.16 ダイヤモンド。(1)
「狼男」こと新田史郎が岸川摩耶に初めて会ったのは、父の経営するバイクショップでアルバイトをしていたときのことだった。
第一印象が最悪だったのを、よく覚えている。
暗い目の、日本人形みたいな儚げな……というより陰気な女だった。大学生ということだったが、中学生のように見えた。ずっと後になって、自分と一歳しか違わないことを知った史郎は、本気で驚いたものだった。
最初に父のショップ、シルバー・バレットにやってきた時は、自分を案内してきてくれた同じ大学の先輩……上泉久の影に、脅えたように隠れたまま、一言も口をきかなかった。
史郎が一番嫌いなタイプだった。
上泉久が店主である父に話しているのを、作業しながら小耳に挟んだところでは、免許もこれから取得するという話だし、バイクのことは全く分からない、という。それなのに、久と一緒に走りたいというだけの理由で、中型バイクを探しているのだという。
父は久と摩耶を店の外にある倉庫に連れて行き、在庫している中で適当なものをみつくろうことにしてやったようだった。
史郎はそれきり自分の作業に没頭し、時が経つのを忘れていた。
父が一人で帰って来たのは、夜中になってからのことだった。
何故か、真っ青な顔色だった。
「史郎。あのお嬢さんは、SDRをお買い上げだ」
「……? 」
史郎はその言葉が飲み込めず、思わず聞き返した。
「あのポンコツ? 」
「ああ」
「修理しないと駄目だろ。それに、四ストのもう少し扱いやすい奴の方がいいんじゃないの? 」
「どうしてもあれがいいそうだ……だから、好きなようにしてやることにした」
父親は、何故か苦しそうにそう言うと、会話を打ち切ってしまった。
その日からしばらく、父親……シルバー・バレットとして知られる名うてのチューナー・浜橋大和は、他の仕事を全部放りだして、そのSDRを全力で修理し始めた。史郎には、何がなんだかさっぱり分からなかった。
自分は新田、父は浜橋。離婚後の親権が母親の方にあったので、父とは姓が違っていた。史郎は母親と一緒に暮らしながら、父親の店でバイトをしていた。母はキャリアOLで、忙しかったせいもあるだろうが、史郎の好きにさせてくれた。史郎は十六歳の夏に自動二輪免許を取得し、父親のサポートでモトクロスや隣の県のサーキットのレースに出場するようになっていた。ちょっと大きなクラッシュをやらかして早々引退していなければ、大学でもレースを続けていただろう。父・浜橋大和は尊敬に値するメカニック・マンで、大手メーカーのアドバイザーに呼ばれることもあった。
その父親が、大手メーカーのセミ・ワークス・マシン以上に、あの陰気な日本人形のマシンに手をかけている理由が、史郎には分からなかった。
あの女を連れてきた上泉久のマシンも父が手がけたものだが、それはレーサー志望でもなんでもないくせに天賦の才能の持ち主である久の腕を面白がってのことだった。岸川摩耶には、バイクに関わる才能は欠片もなさそうだった。おそらくどんなに丁寧な仕事をしてバイクを仕上げても、たいして理解できそうになかった。だいたい、バイクに乗り始めた動機からして、史郎から見ればいい加減なものだった。
そんな一見の客のために、父は必死であのSDRを仕上げたのだった。
はじめ、史郎にはその理由が分からなかった。
毎日のように店を覗きに来て、毎日のように何も話をしないで帰っていく摩耶に対しても、ちょっとした不気味さを感じていたくらいで。
史郎の摩耶に対する考えが変ったのは、そんな毎日が繰り返されて十日ほど経ってからのことだった。
その日は、どうしても抜けられない用事だとかで、普段ならSDRにかかりきりの父が不在だった。いつものように、昼下がりの中途半端な時間に摩耶はやってきた。史郎は、ぶっきらぼうに父の不在を告げかけて、摩耶の手足の痣や生傷に気がついてしまった。まだ、できたての傷もあった。
とりあえず、史郎は応急処置をしてやることにした。
消毒し、絆創膏を貼ってやるくらいのことだったが。
その日、はじめて史郎と摩耶は言葉を交わした。摩耶は、礼を言って帰っていっただけだったが。
それから、摩耶と史郎はだんだん言葉を交わす数が増えていった。
摩耶は、久の後ろに乗るのでも、ついて走るのでもなく、並んで走りたいのだと史郎に言った。SDRが気に入ったのは、銀色の三角形で構成されたフレームの形に一目ぼれしたのだ、とも。それになにより、シングルシートがいいのだ、と。一人っきりで走ることができるから。
史郎ははじめ、摩耶の怪我はバイクの練習のせいだと思っていた。
しかし、摩耶は見た目よりはセンスがいいようで、教習所でも転んだことはないというし、教習所の外でも原付スクーターを乗り回していた。ショップに乗りつける様子は結構サマになっていたから、史郎も、父が摩耶のために手塩にかけてバイクを仕上げてやる気になった理由がなんとなく飲み込めたような気がしていた。
それは、史郎の思い込み、だったのだが。
バイクもかなり仕上がりかけていたある日、摩耶はひときわひどい怪我を負っていた。顔までが青く腫れ上がり、スクーターに乗るのに向かない白いワンピースには血のりがついていた。
そして摩耶は、呆然とした焦点の合わない目で宙を見つめながら、史郎に言った。
「もう、死んでしまいたい」
その日も、たまたま浜橋は留守にしていた。
史郎が病院に連れて行こうとしても、摩耶は頑として言うことをきかなかった。仕方なくいつものようにありあわせのもので応急処置をしてやると、摩耶は史郎にむしゃぶりつくようにしがみついて、泣いた。
摩耶は、堰をきったように、史郎に話をした。
自分の生傷の話を。
それは、父親である岸川の暴力によるものだった。
岸川は、普段は良き父親のようにふるまいながら、摩耶と二人きりになるとひどい暴力を振るうのだという。小さい頃からずっとそうだったが、最近はそれがエスカレートするようになった。生傷はそのためのもので、ずっと、耐えていた。
その日摩耶は、父である岸川に、無理やり女にされた。ひどく抵抗したので、ひどく殴られ、縛られて、傷だらけになった。
史郎は、黙って摩耶の話を聞いてやり、それから、尋ねた。
「オヤジには怒られるかもしれないけど、SDR、乗ってみるか? 」
ナンバーも自賠責保険もまだ残っていて、いつでも公道を走れる状態だった。浜橋はまだ完全ではないと言っていたが、普通に走るくらいならなんとかなることを、史郎は知っていた。
摩耶は嬉しそうに瞳を輝かせた後、少し考えて、首を横に振った。
「ちゃんと免許を取ってからじゃないと、後ろめたい気持ちで乗ったら申し訳ないから」
「そうか」
「でも、走るとこ、見てみたいな」
「そうか」
結局、史郎がSDRに乗り、摩耶は原付で並走することにした。
そして二人で、県境の峠の、滝のところまで走った。
摩耶は妙にはしゃいでいて、自分の写真と、史郎の写真を撮った。
免許をとったら久と来るんだ、と言って笑った。だから、今日史郎に話したことは、久には話さないで欲しい、と、不意にいつもの、日本人形のような虚ろな表情で言った事の方が、史郎の頭には焼き付いたが。
史郎は、岸川にも久にも、ひどく腹を立てている自分に気がついた。
特に、摩耶が秘密を打ち明けられずにいる久に対する理不尽な怒りは、収めようがなかった。何故、摩耶を護ってやれないのか。何故、こんなひどいことをされている話を聞いてやれないのか。
といって、具体的にはどうすることもできなかった。いいところ、自分のVFRを駆って、峠で久をぶっちぎってやるくらいが関の山だった。
そして、滝を見に行った翌日から、摩耶はショップに来なくなった。
そして数日後、史郎は摩耶があの場所から飛び降りて死んだことを知った。何故か浜橋がひどく荒れ、酒を飲んで岸川のところに怒鳴り込んで叩き出された。史郎は、浜橋が摩耶のためにできるだけのことをしてやろうとした理由を初めて知って、既にボロボロになっていた父をさらに何発も殴りつけて、そのまま家を飛びだした。摩耶のものになるはずだったSDRにまたがって。
摩耶のSDRは、ついに久と並んで走ることが無かった。
史郎は、摩耶の代わりに、SDRで久と並んで走ってやることにした。
そうしたら、久までが、史郎の前から消えていってしまった。
史郎の父はショップを閉じて陶芸家に転じ、史郎はテントを背負って流浪の旅を続けることにした。
旅の中で出会った、一風変ったオヤジさんに、家庭教師を頼まれた。その生徒が、小林・ヒルデブラント・アイコだった。
史郎はアイコに、摩耶に似たものを感じていた。だから、どうしてもアイコにあのSDRを渡したかったのかも知れない。
今、そのアイコに、上泉久の妹・上泉聖を止めてくれ、と、頼んでいる。
史郎は、自分自身の身勝手さにも、半ばあきれ返っていた。
しかし、それでも、聖より先に、岸川と話をしなければならない理由が、史郎にはあった。
出来の悪い父……というより、陶芸家の浜橋皆山が、岸川のもとにいるからだった。捕まっているのか、匿われているのかは分からなかった。
捕まっているのなら助け出してやらなければならないし、匿われているなら今度こそ警察につき出してやらなければならない。
その話をつけるのに、頭に血がのぼった虎の存在は、むしろ邪魔になりそうだった。




