Section.15 Yah−yah−yah!(6)
予土の病院から逃げだしたところで、結局どこに行く宛てもなかった。
一樹は結局、ケルンに戻ってきていた。なんとなく足が向いた、というより、何も考えずに車を走らせていたら近くに来てしまったのだった。とはいえ、当然店に入る勇気はなかったし、誰かに見つかるのも面倒だった。
ちょうど店の入り口から死角になる、店の前の道と県道の合流するT字路の脇に車を止めて、エンジンを停めた。
いつの間にか、眠りこけていたらしい。
閉じたまぶたをこじ開けるような朝日が、目に染みた。
少し痛む身体を捻じって小さくうめくと、一樹の浅い眠りを覚ますように、女の言い争う声が聞こえた。両方とも聞き覚えのある声。ひとつは、少しハスキーで低い、大人の声。一人は、高くて細い調子だが、力強さもある、少女の声。
意識が急激にはっきりして、一樹は完全に目を覚ました。
どちらも、一樹にとって大切な人物の声だった。
一樹は倒したシートから跳ね起きて、回りを見渡した。
目の前の坂道を、青い光が走り抜けていった。
その後ろを追いかけて吹き抜ける、図太い四気筒の排気音。
一段低くなった一樹の場所からは、まるでバイクが天に昇るように見える。
「あ……」
一瞬呆気にとられ、ぽかんと口を開けている間に、黒づくめのライダーを乗せたGSX−Rが視界から消えていった。
「……聖さん! 」
今さら追いつくはずもないのに、そして追いついても話す言葉もないのに、一樹は思わず車を飛び降りた。
道に出るために土手をよじ登ろうとして、朝露に濡れた草むらに足をとられて前のめりに倒れる。
今度はその頭の上を、金属音混じりの、パアン、という甲高い排気音が駆け抜けた。ぎゃん、と、ギャップで跳ねてアスファルトに着地するタイヤの悲鳴を残して。
それがアイコだということは、見なくても分かった。今どき二ストロークの単気筒、オフローダーでもほとんど見ない。それをこれだけ振り回す無茶ライダーとなれば、この辺りではアイコ以外に考えられなかった。
一樹は懸命に起き上がり、道の上に視線を走らせた。
オレンジ色のマウンテンパーカーが風に舞うのが、視界の隅に見えた。
サイレンサーからの白い煙が視界を妨げ、鼻をくすぐる。
一樹は道路に出て立ち尽くし、見えなくなった二人の姿を目で追った。
少し飛ばし気味の営業車が何台か、残像をかき消すように通過していく。
冷たい風が、うざったい長さの前髪を流す。
一樹は、がっくりと肩を落とし、天を仰いだ。
「あーあ、行っちまったか」
しばらく突っ立っていた一樹の背中に、全く感情の抑揚のない声が投げつけられた。
驚いた一樹が振り返ると、そこには仕立の良いスーツを着た、ガッシリした体格の角刈りの男が立っていた。温和そうな空気を漂わせているが、警察官だったこともある一樹には、カタギの人間ではないように見えた。
「あんたは? 」
「上泉聖さんの、古い知り合いですよ」
男は、不気味なくらいの無表情で答える。
「君は北原一樹さん」
「! 」
「もと警察官、上泉久さんの後輩、上泉聖さんの友人」
何故そんなことを知っているのか、一樹は不気味に思う。初老の男は、一樹の質問を手で制して、言った。
「私が誰かとか、野暮な詮索はなしだ。だが、放っておいていいのかね、上泉さんを」
「なんだと? 」
「このまま放っておくと、あいつは岸川の屋敷に単身で乗り込むことになる……警察沙汰になるならまだいいが、下手をすれば帰ってこれないぜ。俺たちも、上の指示無しには助けに行けないしな」
一樹は男の言葉に唖然とし、それから、急に猛烈に腹が立って、相手の襟首に手を伸ばした。
それを掴む前に両手首をごつごつとした男の掌に握りこまれ、ふわん、と一樹の身体が宙に舞った。
アスファルトに叩きつけられて、息が詰まる。
「ぐふっ……」
「おいおい、勘違いするな。相手は俺じゃなくて岸川だぜ……少なくとも、今のうちは」
悶絶する一樹を冷ややかに見下ろしながら、男……権藤は、言った。
「だから、助けに言ったほうがいいってことを、あんたに教えてやるんだ。あとは、好きにしな」