Section.15 Yah−yah−yah!(5)
がし、と、史郎に貰った、おろしたばかりのトレッキング・ブーツでシフトペダルを蹴り上げてアクセルを吹かし、クラッチを滑らせながらつなぐ。弾かれたように、アイコとSDRが走り出す。
まるで早送りのビデオのよう。
がし、と、史郎に貰った、おろしたばかりのトレッキング・ブーツでシフトペダルを蹴り上げてアクセルを吹かし、クラッチを滑らせながらつなぐ。プルバックモーターでも入っているかのように、アイコとSDRが吹っ飛んでいく。
まるで早送りのビデオのように、派手なテールスライドを決め、加速しながらカーブを曲がる。GSX-Rの走り去った方に向かって。銀色のトラス・フレームが太陽を跳ね返して光る。スピードメーターのとなりの、後付けされたタコメーターが跳ね上がる。
明らかに、ノーマルよりもず太いエグゾースト・ノート。
まだ新しいタイヤが、摩擦で焦げる匂い。
ステップに立つように腰を浮かしながら、暴れだしそうな車体を押さえ込む。
四車線の大通りに出ると、すぐ目の前に車の群れが壁のように立ち塞がる。
聖の向かう先が、岸川興業の事務所ではなく、郊外の岸川邸だろうと史郎は推測し、アイコにもそう告げていた。逆に、事務所に向かうなら止める必要もない、と。
だからアイコは、聖に追いつける、と思った。
史郎と二人で、ケルンから岸川邸への道筋を調べ上げていた。
通る道は、だいたい二通り。
バイパスを経由して橋を渡って湖の反対側に抜ける道と、旧道を使って湖の外周を回る道。
史郎は、早朝ならバイパスを、時間が遅くなれば湖の外周を通ると考えていた。
「朝のうちはバイパスで張ってるネズミ取りより、湖畔周回道路の方が多いからな。そのくらいのことは知ってるはずだ。逆に、時間が遅くなれば、バイパスは交通量が多くなって渋滞するからGSX-Rは思ったようには走れない。周回道路の方が早いと判断するかもな」
できれば、走り出す前に捕まえて欲しいのだが。史郎は、そう言って肩をすくめた。
そうは言っても、そもそも聖がどこにいるのかが、アイコには分からなかった。アイコがケルンを出たときのまま、そこにじっとしているとは思えなかったが、アイコはケルンから逃げ出すのが精一杯で、携帯電話も放り出したままだったから、連絡のとりようがなかった。アイコは聖の携帯番号を覚えていなかったし、何故か番号を覚えていた一樹の携帯は、公衆電話からかけたせいか全く繋がらない。美春の店、ロゼッタストーンにも電話してみたが、こちらも電話は繋がらない。当たり前だが、深夜二時閉店の店に、七時に人がいるはずはなかった。電話帳で調べた、『マインドトラベル』の事務所も無人。アイコは、余土以外の『マインドトラベル』のスタッフのことは呼び名と顔くらいしかわからないので、それで手が尽きた。
どうしようもなくなったので、アイコは史郎と別れて聖の自宅を覗いてみた。トランスポーターとバイクが地下駐車場に見当たらなかった。
最後の最後にケルンに戻ってきてみると、聖はちょうど出かけようとしているところだった。
あまりにタイミングがぴったりだったので、アイコは聖に声をかけるきっかけがわからなくなってしまった。何とかしようと思って、とっさに、ジャケットに入っていた玩具の狼男マスクを被って、冗談めかして話しかけたのが、大失敗だった。聖を無駄に怒らせて、目の前から走らせてしまった。
あたしは相変わらず間抜けなまんまだ、とアイコは思う。
うまくできない。奇麗になんてできない。格好悪くて、嫌で嫌で仕方ない。
それでも、やらなきゃ仕方がない。
「周回道路だろうと、バイパスだろうと、どうせ同じところで合流する道なんだ! 」
アイコは、ヘルメットの中で
「絶対追いついてやる! 絶対、止めてやる! 」
史郎が聖を止めたい理由を、アイコは詳しくは聞かなかった。史郎が止めなければいけない、というのだから、聖のためにも止めたほうがいいんだ、と思うことにした。雪奈が岸川に殺されかけたことを知らなかったからそう思ったのかも知れない。知っていたら、聖以上に無分別に、岸川に噛みつきに行こうとしただろう。
今は、史郎を信じて聖を止めることしか、考えていなかった。
それに何より、聖が話を聞かずに飛び出していったことにも、猛烈に腹を立てていた。こんなに腹が立つのは初めてだった。しかも、それなのに、聖のことが心配でたまらない。いてもたってもいられない、身体中が震えるような感情の波。アイコが、これまで経験したことのないような。
それを押さえ込むために、アイコはSDRを乗りこなすことに神経を集中させる。
大島の手で、アイコのために調整されたSDRは、前以上にアイコの身体にしっくりと馴染む。
シルバーバレット……浜橋皆山が、岸川摩耶のために、岸川摩耶の一部のように造り込んだSDRから、アイコのためのバイクに、大島は意図的に作り替えていた。摩耶はおそらく、アイコより少し背が高く、少し手足が短い。アイコの、上背こそ高くないが、スタイルだけならバレリーナだといっても通用する体つきは、ゲルマン系の母の血のためで、岸川摩耶は、標準的な東洋人体形だったようだ。
シルバーバレットは、SDRのライディング・ポジションや重心を、摩耶に合わせて細かく造り込んでいた。一見ノーマルに見えるが、タンクの位置やサスペンションの取り付け、シートの高さに至るまで。図面にして並べてみれば、普通のSDRと同じ形のようでいて、すべてが少しずつ変えられていた。
大島は、短時間でそれをアイコに合わせたものに変えていた。シルバーバレットの改造方法が、再調整の容易なように配慮されていたおかげだが、テストも微調整もせずにいきなり適切な形に持ってこれた大島の腕も驚くべきものだった。シートは若干高くなり、ステップもやや後退して下半身が動かしやすくなり、ハンドル位置が少し遠くなって、窮屈さがなくなっている。ピストンを交換したエンジンの出力や、タイヤやブレーキの交換で良くなった足回り以上に、車上でのライダーの自由度が大きくなっていることが、大きな成果だった。
路面状態が一定しないだけでなく、どんなアクシデントがあるか分からない上に、多くの自動車と混在しながら走らなければならない公道というステージを、実質的に速く走るために一番重要な、「乗りやすい」という要素が、大きく改善されていた。
あまり身体にフィットしていなかった状態のSDRでさえ、車の間を縫って走るような状況では、聖がGSX−Rで追いかけても離されるくらいだったのだから、アイコの反射神経と判断力はかなりのものだった。まだバイクそのものの経験が多くないための操作ロスも考えれば、驚くほど速いといってもいい。
もちろん、そんな速さは危険と隣り合わせであり、決して誉められたものではない。しかし、圧倒的な力をもつ相手と戦う時には、それを武器にするしかなかった。
アイコは、周回道路ではなく、あえて湖を渡る橋の方を選んで、聖を追うことにした。
既に渋滞が始まっているはずだった。
「……コースの動くジムカーナかあ……」
バイパスに向かう曲がり角の信号が、少し先で赤から青に変った。アイコは、減速していた車の群れの脇をすり抜けるようにして、自分の進路を確認し、一気にアクセルを開けた。
ばうん、と、SDRのエンジンが吼えた。
「……できれば動かないコースでもう少し練習させて欲しかった! 」