Section.14 壊れかけのラジオ(4)
予土の父親の医院は、築八十年の木造洋風建築で、現在の院長の曽祖父の建てたものだという。少し、浜橋皆山がアトリエに使っている小学校に似ているのは、同じ大工が作っているからだと、車を降りた大島が呟くのを聞いて、聖は肩をすくめる。……大島は、何だって知っているのだ。
きしむ扉を開いて、ワックスの効いた厚い木の板の床をどかどかと踏んで応接室に入る。
聖は、この医院にくるのは初めてだった。
「どっかから阿呆陀羅経が聞こえてきそうだな」
薬臭さに鼻をひくつかせながら周囲を見渡すと、受付は木製のカウンターに波ガラスの仕切りで区切られていて、白いペンキの毛筆で「受付」と書かれている。波板ガラスを切り抜いて作った窓には、黒い板が裏からはめられていて、板には「本日休診」と書いてあった。
その受付はもう長いこと使われていないらしく、うっすらと埃を被っているように見えた。その奥に、本当に営業しているのかどうか訝しく思えるような、待合室の白い木のドアがあり、半開きになっている。
「よう、来たか」
大島と聖の気配を察した予土が、ドアの向こうから顔を出した。いらいらしているような顔をした美春が、壁際のベンチに座って足を組んでいるのが、その向こうに見える。ピンクのワンピースが、ちょっと煤けている。
スタンド式の灰皿には、揉み消した煙草が何本も捨てられていた。
「あのバカは? 」
「俺の親爺によれば、」
詳しいことは分からないらしく言葉を濁しながら、予土が答える。
「命に別状はないそうだ。今は、麻酔で眠ってる。小諸さんが側についてる」
「そう……」
良かった、とは言えずに、聖は気の抜けたような顔をした。
大島は、ふう、と大きく息をついて、天を見上げ、聖の肩を叩いて追い抜き、美春の方に近づいていく。
「……もっとちゃんと、止めておけばよかったな」
低い声で、美春が言った。聖は鋭い目で美春をにらみ、大島は美春の手前で固まったように足を止めた。
「予感はしてたんだ。シルバーバレットのことを、本格的に調べ始めるって聖が言ったときから。狼男に、急に近づきそうになったときから」
美春は、ばし、と、右手の拳を左手の掌に叩きつけて、唇を噛んだ。
「はっきりした理由はわからなかった。でも、狼男の存在がはっきりすればするほど、あたし達の世界が壊れて、なんか別のものが見えてしまうんじゃないかって。みんながちょっとずつ隠してたことが、ずるずる表に引きずり出されてきて、どうしようもなくなるんじゃないかって」
「大げさだよ、神崎」
あまり深刻な口調で言うので、予土が、取りなすように口をはさんだ。
「小さな秘密なんて誰にでもあるし、それで壊れる関係ばっかりでもないだろう」
「……そうかもね」
たいして信用していなさそうな口調で美春が答え、そして、それきり俯いて黙り込んだ。
「小さな秘密、か」
大島が、長い、白いあごひげを神経質になで付けながら呟いて、美春の隣の席に腰かけた。
「お前の言う通りだ、美春。俺もそいつを今、ひとつばかり話そうかと思ってる」
「え……」
美春の代わりに、予土が驚いたように声をあげた。美春は無言で黒目がちな大きな目を見開いて、大島のサングラスの下の目を覗き込む。
聖は、まださっきの場所で固まっている。
「俺は、浜橋皆山がシルバーバレットだってことを知っていた」
夜中の病院に、大島の声が妙に大きく響いた。
「知ってて、黙っていた」
「……そんな」
信じられない、というように、予土が目を見開いて絶句した。美春は、また拳を掌に打ちつける。
ぱあん、と、乾いた良い音がした。
「浜橋がこの街にやってきたのは、久が死んで半年ほど経ってからのことだった」
大島は、低い声で、続きを話し始めた。
「知り合いの工芸店の主人に紹介されて、俺は浜橋と出会った。浜橋は、バイクの話なんかこれっぽっちもしなかったが、俺がバイク屋もやってると言うと、例のピストンそっくりの、飲みにくいカップを作ってくれた。なんだか妙にウマが合ってなあ。結局、同じ穴のムジナだったからなんだが。それで俺は浜橋とは友人づきあいをするようになった」
「……いつからだよ」
美春が、大島の話を遮るように、小さい、鋭い声で尋ねる。
「いつから、浜橋がシルバーバレットだって知ってたんですか」
予土が、美春の質問を言い直した。
大島は溜め息をつき、サングラスを外した。少し頭の中を整理するように天井を見上げる。小さな穴がたくさん開いたボードの天井に、色気のない蛍光灯。エアコンのダクトが少し黄ばんでいるのは、この診療所の待合室が今どき禁煙でないせいだろう。
「最初から、そんな気はしていた」
大島は、ポケットに手を伸ばし、火のついていない煙草をくわえた。
「だが、ずっと、思い過ごしだと思っていた。確証をもったのは、ちょうど1年ほど前のことだ」
がたん。
聖がもたれかかったために、壁にかけられた小さな油絵の額がゆられて音を立てた。予土は聖の方に視線を走らせるが、壁にもたれかかり、俯いて腕を組んでいる聖の表情はよく分からない。蛍光灯のせいか、頬がいつもより白く見える。
「でも、黙ってたんだ」
美春が、小声で呟く。
「ああ」
「なんで? 聖も雪奈も一樹もマスターも、ずっと、探してたんじゃないの? 」
「ああ」
答える大島の煙草に、美春がライターで火をつけてやる。
「……話せなかった」
大島は、ふう、と煙を吐き出し、眉間を指で揉み解す。別に慌てた風でも、困った風でもなく。
「もう、十年だ。久のことを抜きにしても、聖はよくやったよ。きっかけはどうあれ。上泉聖っていう変り者を見て、『マインドトラベル』が続いてるのを見て。リョータやミサキたちスタッフだけじゃなく、この死にかけたような街の中で息詰まらせてる、ガキの頃のお前たちみたいな連中が、どれだけ勇気づけられてることか」
「……そんな立派なものじゃないよ」
うつむいたまま、聖が溜め息交じりに言う。
「あたしは、何もちゃんと考えられなくて。目の前のことをこなしてただけだし。それも、兄貴を殺した奴をぶっとばしたい、っていう単純な目的のためで……」
「それは嘘だよ」
美春が、呆れたような口調で言った。
「お前が狼男にご執心なのは、久のためでも、お前自身のためでもない」
美春の言葉に、聖は弾かれたように顔を上げた。驚きと怒りの混じった顔。まるで、思いもかけないところから急に殴られたときのような。
「……どういう意味? 」
「さあね」
唸るように聞き返す聖に、挑発するような視線で、美春が答える。
「自分が一番よく知ってるんじゃないの? 」
聖は、何か言い返そうとして、言葉に詰まる。二人の様子をみていた予土が、会話に割り込んだ。
「マスターが浜橋の事を話さなかったのは、そのためですか。今の上泉や北原たちには、知らせないほうが良いと思ったのは」
「半分はな」
大島は、まだ全然減っていない煙草を灰皿で揉み消し、少し、咳き込んだ。
「だが、半分は、浜橋のためだ」
「浜橋のため? 」
「ああ」
大島は、軽く瞼を閉じた。
「あいつは、ずっと苦しんでいたんだよ。……岸川摩耶と、上泉久のことで」