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Section.13 HELP!!(6)

「孝一郎さん……」

 雪奈は、弱々しい声を絞り出すようにして、愛人の名を呼んだ。

 後ろ手に手錠をかけられた雪奈は、毛足の長いカーペットにうつ伏せに転がり、力なく脱力している。ゴス・パンクの服はあちこち手荒く破かれ、白い肌にはアザや擦り傷、切り傷が無数につけられている。

 唇にも、口の中の傷からにじんだ血。

 両の頬も、平手で何度も打たれて紅く晴上っている。

 思いもかけない、岸川の暴力に、雪奈は意識が朦朧としていた。

 権藤の指示に従って、与えられたマンションの部屋に戻った雪奈の顔を見るなり、岸川はいきなり張り飛ばし、何度も足蹴にしてから手錠をかけ、執拗に暴力を振るった。

 その間、岸川は無言だった。

 雪奈は、岸川に何か言おうとしたが、声を出すことすら許されなかった。

 長い長い暴力の嵐が雪奈の上を通り過ぎていった。

 視界が歪み、滲み、身体の痛みが遠ざかっていく。

 岸川の顔が、雪奈の知らない顔になっていた。

 普段の、一見穏やかに見えながらどこか底知れない暗さを秘めた表情ではない。唇の端をつりあげ、にやにやと笑いながら、抵抗できない雪奈を殴り、蹴り、カッターナイフで服を裂き、肌に傷をつける。まるで、虫の足をちぎって遊ぶ小学生のような表情。

 雪奈は最初面食らい、驚いて、次に怒り、全く抵抗もできないことを知って、諦めた。

(宮田を殺させたバチかなあ……)

 雪奈は、心の隅でそんなことを思った。

(あたしも、ここで、死ぬのかなあ)

 そんなことを思いながら、雪奈はぐったりと床に身体を横たえていた。

 何もかもがどうでも良くなってきていた。

 雪奈なりに、いろいろなことを考えていた。最初は、聖のためだった。岸川孝一郎に近づいて、岸川摩耶のことを探ろうとした。岸川の愛人をやりながら、岸川の会社に勤めた。岸川は、何かを隠しているようだった。会社にはよくわからない帳簿があったし、時々ガラの悪い男達がやってきて、岸川と密談していた。しかし、どこか子供っぽく、いつの間にか雪奈は少し、情を移してしまっていた。そうこうしているうちに、岸川の許を訪れるガラの悪い男の一人から、権藤を紹介された。権藤は、岸川の動きに不審を感じていて、愛人の雪奈を使って岸川を探ろうとしていた。雪奈はその時とっさに、他の人間に探られる位なら、自分で情報を握ろうと思った。それで権藤の申し出を了解した。いざとなれば、自分が嘘をつけば岸川を守ってやることもできる、と思っていた。権藤は岸川に、雪奈に裏の仕事もさせるよう指示し、宮田や柴田をつけてやった。

 岸川摩耶の秘密と、岸川孝一郎の秘密の両方を握れば、聖も孝一郎も、自分の側に置いておける……。

 雪奈は、そんな欲張りを後悔していた。

 第一、自分にこんなひどいことをしているのは、守ってやりたかった当人なのだ。自分のバカさ加減に腹が立ってくる。

「残念だよ、雪奈」

 ワイシャツの腕をまくり、ネクタイを緩めただらしない格好でデスクに腰かけた岸川は、にやにやと笑いながら、言う。眼鏡を外して、レンズを拭く。

「君が私を裏切っていたなんて、信じられない」

「……裏切ってなんて、いないです……」

 雪奈は、霞む眼で岸川を見上げながら、言う。

 嘘ではなかった。

「駄目だよ、嘘をついても」

 岸川は、哀れむように雪奈を見下ろして、黒い靴下の爪先を雪奈の鳩尾に叩き込んだ。容赦も遠慮もない蹴りに、力の入らない雪奈の身体が人形のように蹴り飛ばされる。

 雪奈は、もう声も出さなかった。

「君は本社の命令で私のことを探っていただろう」

 岸川は、いつもの抑揚のない口調で言う。

「気付くのがもう少し遅れたら、危ないところだった。手柄を大きくしようとして、帳簿のことを権藤に黙っていたのは失敗だったな」

 雪奈は、岸川の言葉を聞きながら、ただ悲しかった。

 岸川は、明和会に断りなく、いくつかの非合法のシノギに手を染めていた。雪奈は数年前から帳簿の管理も任されていたから、実体はともかく、金の動きはよく知っていた。しかし、そのことを権藤には話していなかった。いざというときの切り札でもあったし、帳簿の入手をちらつかせることで明和会の評価を得て、実働部隊を預かっていた。岸川がこれまで尻尾を掴まれなかったのは、間にたつ雪奈がギリギリの綱渡りをして誤魔化してきたからだった。

 それなのに、岸川孝一郎は、雪奈を裏切り者といい、話も聞かずに暴力を振るった。そしたこのままだと、そのまま苦しんで殺されるのだ。 

(そもそも、愛してる、なんて嘘をついた報いかな)

 岸川は、まだなにかぶつぶつと話しかけてきて、話しかけながら雪奈を蹴ったり殴ったりしたが、雪奈は、もう、聞いていなかった。

(可哀想な孝一郎さん。可哀想なあたし)

 雪奈は、ただ悲しかった。

 岸川の非合法のシノギの中で、一番まずいのが少女売春だった。単なる売春ならまだしも、岸川のところで足取りの消える未成年少女があまりにも多すぎた。人身売買だったり、始末されたり、ということなのだろうと、雪奈は思っていた。帳簿に突然高額の振り込みがあった後、「在庫」がいなくなっていることを、雪奈は宮田から聞いて知っていた。岸川が雪奈を疑っていたせいか、本社から派遣されてきた宮田たちと近かったせいか分からないが、雪奈は直接そっちに関わったことはなかった。それはすべて、岸川子飼いの連中の仕事だった。

 雪奈は、岸川が自分から隠したがっていることを知って、あえて宮田に探らせることにした。本社の欲しがる情報だったから、宮田たちも疑いなく協力してくれた。雪奈自身は、何故わざわざそんなことをしたのか、自分ではよく分からなかった。理屈というより、岸川が自分に隠し事をしていることを許せなかったのかもしれない。

 岸川は、結局雪奈には本当のことを何も教えていなかったのだろう。

 最初の目的だった、摩耶と久のことも、結局何も聞き出すことができなかったし、裏の仕事だって、一番大事なところは、ほとんど雪奈には知らされていなかった。

 勝手なことを言い募り、気が済むまで雪奈を痛めつけると、岸川はキッチンに行って冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルをとりだし、グビグビと美味そうに飲んだ。半分ほど飲み残すと、それを床で倒れている雪奈にぶちまけ、最後にペットボトルを投げつける。

 それから、洗面所で顔を洗って髪を整え、ネクタイを締めなおすと、ジャケットを羽織って、デスクの上の携帯電話をとって、ボタンを操作した。デコレーションでゴテゴテの、雪奈の携帯電話。

「私だ」

 岸川は、事務的な口調で、電話の相手に言った。

「後始末を頼む」

 そう言うと、岸川は関心を失ったように携帯電話を投げ捨てた。

 がしゃん、と音をたてて、携帯電話の画面が割れた。

 雪奈は、遠くで、自分のマンションのドアが閉まる音を聞いた。

(誰か……)

 身体の感覚はもうほとんど無くなっていて、心もどこかのタガが外れて、もう動かない。

(助けてあげて……)


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