Section.13 HELP!!(5)
タイヤが拾う、路面の荒れ。
しなやかに、なめらかに路面に吸い付くサスペンション。
シングル・シリンダーのエンジンの吸排気は、自分の鼓動と同期してしまったかのよう。
これまで感じたことのない、バイクという機械と自分の身体が融合してしまったような感覚。
アイコは、店の不穏な空気から逃げ出すため、という目的をとっくに忘れ去って、走る快楽に身を任せていた。
(何これ……)
どんな速度で、どんな状況が来ても、怖くないような高揚感。
「気持ち、いい! 」
アイコは、シンプソン・バンディットのバイザーの下で、思わず声に出して叫んでいた。
なんだか、いろいろなものが、流れる景色と一緒に後ろに吹っ飛んでいくみたいだった。
アイコは右手をひねり、アクセルを開ける。
中回転くらいまでは、むしろ少しマイルドに感じていたエンジンが、タコメーターのレッドゾーンまでの広くない範囲ではビンビンに吹けあがる。
パワーバンドそのものは、明らかに狭くなっていたし、エンジンはSDRとしてはピーキーな設定になっているようだった。低速トルクが太っているせいで、あまり気にせずに乗ることはできるが、本領を発揮できる部分は、指先で操るようなデリケートなアクセルワークを要するような狭い部分だった。大島が、わざわざハイスロットルを噛ませたのだが、アイコはそんな機械的なことには気付いていない。
ただ、自分の一部のように操れるSDRに、酔っていた。
公道としては、かなり危険な領域で、アイコとSDRは夜道を駆け抜けていく。
以前ですら、車の量が多い時間とはいえ、ベテランと言っても良い聖が、リッターバイクに乗って追いつけないほどだったアイコだが、今はさらに速かった。
フォームは無茶苦茶だが、マシンコントロールは抜群に上手い。レースに全く関心がない、というのが嘘のようだった。
気がつくとアイコは、例の県境の峠に向かっていた。
峠の入り口の潰れたドライブインの前を通り過ぎ、最初のカーブに鋭く突っ込んでいく。
無理に小回りをするというよりは、速度を維持しながら大きめのカーブを描くラインで進入し、クリッピング・ポイントで瞬時に向きを変えるような乗り方。
これまでは、やりたくても出来なかった。
中低速からの加速は鋭いが、上で伸びないエンジン特性のために、どうしてもメリハリをつけた加減速と、最短距離でのコーナリングでなければ、速く走れなかったのだ。車重が軽く、初期加速のいいSDRならではの走り方で、小さいコーナーの連続する狭い峠で、しかもパワー差の影響が出にくい下り坂では大きな武器になる。
今のSDRは、それに加えて、高回転域をキープすれば、速い速度帯のカーブでも失速せずに回れるようになっていた。静止状態からのダッシュではリッターバイクに勝てないにせよ、走行中の運動力では引けをとらない感じだった。
アイコは、右手に黒々と影を落とす深い森を、左手にガードレールと深い谷を見ながら、峠に入る緩やかなS字に突入した。
……久の死んだ峠。摩耶と史郎が記念撮影をした峠。
二つ続く緩いS字は、スピードが乗る。これまでならアンダーパワーになりかねないところを、SDRはトラクションをかけて進入していく。クリッピング・ポイントで曲がる方にぴったりと車体を伏せると、ジーンズの膝が路面の表面を撫でた。
我流だが、理にかなったハング・オン。
マシンの一部になった身体が、滑らかに車体を押さえ込んでいく。
一車線を一杯に使いながら、SDRは速度を失わず、安定して走る。
短いストレートで充分に速度を乗せ、そのまま大きいS字カーブも失速せずに進み、エンジン任せでは失速しそうなS字の出口の急勾配の直線も、リッターバイクのように力強く加速する。
坂の頂上から下りへの折り返しで、一瞬SDRは宙を舞い、そのまま何事もなかったかのように着地して、そのまま左カーブに進入。強めのブレーキングで車体の向きを変え、深い谷に面したガードレールに背を向けるようにしてヘアピンを抜ける。
そこからは、少し長い昇りのストレート。
アイコは、ここで、アクセルを緩め、減速した。
笠を被った月が、バイザー越しに輝いて見えた。
直線の終わりの急激な右カーブを、二速までギヤを落としてゆっくり回り、小さな左カーブは直線のように通り抜けて、次の右カーブへ。
その先が、摩耶と久の死んだ場所だ。
ガードレールの切れ目、谷の向こうの、滝が見える断崖。
アイコは、慣性でSDRを走らせ、ゆっくりと、そこに近づいていく。
何故か、胸騒ぎがした。
そういう予感がよく当たることを、アイコは経験で知っていた。
アイコは、少し心臓が高鳴り、体温が上がるのを感じながら、その場所に近づいていった。
予感は、当たった。
月明りに照らされて、二つ目の、トリコロール・カラーのカウリングに包まれたバイクが姿を現した。
VFR750R、RC30。
そして、その傍らには、ジャック・ウルフスキンのオレンジ色のマウンテン・パーカーを羽織ったライダー。
RC30のミラーには、ガンメタリックの、使い込まれたシンプソン・バンディットが引っかけられている。
小柄なライダーは、小さな花束を抱えて、月を見上げていた。そして、近寄ってくるバイクのエンジン音に気付いて、アイコの方に顔を向けた。
アイコの心臓は、破裂しそうになった。
それは、間違いなくアイコの大切な先生……新田史郎だった。
アイコは、思わずバランスを崩して転びそうになり、なんとか態勢を立て直して、史郎とRC30の少し手前でSDRを留めた。
アイコはサイドスタンドをかけてSDRを降りた。
「せ……」
ヘルメットを外そうとして、グローブが邪魔で外せない。もどかしそうに左手で右手のグローブを引きはがし、ようやくヘルメットの顎ひもを外して、アイコはヘルメットを脱いだ。
「先生! 」
月明かりの中に突っ立っていた史郎は、いつものように、皮肉っぽく見えるが瞳が優しく感じられる微笑を浮かべて、小さな花束を持つ手を小さく上げて見せた。
「よ。久しぶり」
アイコは、その声を聞くなり、顔をくしゃくしゃにして史郎に駆け寄り、飛びつこうとした。……が、膝が震えて、すっ転ぶ。
思わず眼を閉じたアイコを、史郎がすんでのところで抱き留めた。
「おいおい。相変わらずのドジだなあ」
にやり、と史郎が白い歯を見せて笑った。