Section.13 HELP!!(1)
アイコが四人分のビーフシチューもどきを用意し、黒パンを切ってバスケットに並べ終えても、雪奈はケルンに戻ってこなかった。アイコは、料理が冷めるとかなんとか騒いで、雪奈を探しに外に出ていった。携帯ぶっ壊して引きずって来てやる、とかなんとか、物騒なことを呟きながら。
聖は煙草に火をつけて軽くふかし、溜め息交じりに天井を見上げた。
「マスター……大島さん」
「ん? なんだ? 」
黒パンをちぎってシチューに漬け、つまみ食いしていた大島は、口髭の下の口をもぐもぐと動かしながら聞きかえす。
「なんか、大変なことになったみたい」
「というと? 」
「宮田さん、知ってるよね」
「明和会のか? お前が高校の頃からこの辺うろついてたな」
大島は、口の中のものを飲み下し、カウンターに並べた安物赤ワインのグラスを傾けながら答える。
「全然出世しないで、今じゃ小諸雪奈の下働きだって聞いたが。そいつがどうした? 」
聖はすぐには答えず、大きくもう一度煙草をふかし、煙をゆっくりと吐き終わってから、言った。
「殺されてた、ってさ……浜橋皆山のところで」
ぽろ、と、大島の手からパンがカウンターに落っこちた。
「雪奈が死体見たって。あのバカ、警察に通報しないで組に最初に連絡とったみたい。そしたら明和会の方で掃除するってさ」
「……おい、聖」
「……やっばいよね、これ。闇ルートだよ。浜橋と明和会の間に何かなければ、そんなことあり得ないもん」
「……」
「雪奈もヤバいと思って、あたしのところに逃げ込んできたんだ。ヘタレの癖にプライドだけは高いあいつが、大っ嫌いなあたしのところに」
聖は、灰皿で押しつぶすようにして煙草を揉み消した。
大島は、のろのろとカウンターに落っこちたパン切れを拾い上げ、意味もなく二つに裂いた。聖は頭を抱えてカウンターに肘をつく。
「なんか、あたしが『狼男』のことを知りたがったばっかりに、こんなことになったとしか思えなくて。雪奈だって、あたしがさっさと兄貴のことを諦めてたら、意地になってヤクザまがいのことを始めたりしなかっただろうし」
「お前は悪くないさ」
大島は、いつもかけているサングラスを外して、カウンターに置いた。
ぽんぽん、と軽く聖の背中を叩く。
「久は、特別な奴だったからな。双子のお前は、いつも比べられて辛かった反面、そういう兄貴が誇らしいとも思ってたんだろう」
「……」
「ガキの頃から、兄貴が誉められれば誉められるほど、グレてったんだろうな。俺はお前さんの方を先に知ってたからな。なんでお前みたいな賢い奴がバカやってんのかずっと不思議だったが、久に初めてあったときにやっとそのことが分かったよ」
言いながら、大島は火をつけずに煙草をくわえた。
「だから、大学でお前が他所の街に出ていったとき、俺は正直ホッとしたさ。案外、久がいないところなら、自分を見失わないで済むんじゃないかってな。短大出て雑誌の編集始めた頃のお前を見て、俺はそれを確信してた」
「そう……? 」
聖は、ようやく顔をあげて、大島の方を見た。
「ああ。お前は上泉久の妹の上泉聖、を卒業して、上泉聖っていう個人で前に進み始めてたからな。それは、今でも変わらないだろう? 」
「……」
「ただ一つ、『狼男』の話を除いて」
大島は、急に怒ったような声になって、ワイングラスをあおった。
聖は、一瞬愕然としたような表情になり、それから、唇を噛んでまたうつむいた。それから、少し考えて、何かを大島に言おうとして口を開きかけた。
その時、ほぼ同時に、店のドアが開いた。
聖は口をつぐみ、大島はグラスを置いた。
「……聖さん」
困ったような、少し強ばった表情で、アイコが立っていた。何故か、後ろを気にするような仕草。
「どうした? 」
「パンク女、行っちゃったって」
「何? 」
がたん、と聖は席を蹴るようにして立ち上がった。
「どういう……」
アイコに尋ねようとして、その背後に別の影があることに気付き、聖は言葉を飲み込んだ。代わりに、唇をなめ、不敵な表情が浮かぶ。敵や困難な状況に直面したときに聖の身体を駆け巡る、いつもの興奮。
「珍しいお客さんを連れてきたね、アイコ」
聖は、カウンターに座り直し、アイコと、その背後の男に、むしろ悠然とした調子で言った。
「お久しぶり、権藤さん……まあ、入ったら?」
アイコを押しのけるようにして、背後から、ガッシリした体格の初老の男が店の灯の下に姿を現した。
仕立は良いが地味な紺のスーツ。きっちり締められたネクタイ、角刈りの、白髪混じりの頭髪。
この世の中の何にも関心の無さそうな、冷徹な眼。
「久しぶりだな、聖。すっかり更生したと聞いてたが、あれは何かの間違いか」
抑揚のあまりない、低く太い声で、権藤が言った。
「すっかり真面目な社会人っすよ、権藤さん。あんたににらまれた日には、ビビってチビリそうです」
「相変わらず、口が減らないな」
表情をぴくりとも変えずに言って、権藤はずかずかと店内に入り込み、聖の隣の席に腰かけた。
「おや、良い匂いだ」
カウンターの上の、冷めかけたシチュー皿に鼻をひくつかせ、黒パンに手を伸ばす。ごつごつした、岩のような手。
アイコは、何するんだ、と言いかけて手を伸ばそうとするが、権藤の迫力に負けたのか、珍しく身体の方が止まってしまったようだった。顔を腹立たしさと恐怖で引きつらせながら、権藤を避けるように店の奥に入り、自分の皿を掴むと、大島を挟んで一番奥の席に移動する。
権藤は、誰も食べていいとは言っていないのに、悠然とアイコの作ったグヤーシュ……というより、アイコがグヤーシュと思い込んでいる、ビーフシチューとしか見えない代物……を啜り始めた。