Section.12 Believe……。(6)
アテもなく走らせた車は、いつの間にかあの峠の入り口の、潰れたドライブ・インの駐車場にたどり着いていた。
頭の芯がじんじんと痺れていた。普段は微塵も感じさせないが、あの年齢で大島の筋力は全然衰えていないようだった。そう言えば、いつもモンキーでも運ぶような軽やかさでひょいひょいとリッターバイクを取り回していた。
殴られた頬も痛いが、口の中が切れて血の味がする。
一樹は溜め息をつくと、頬をさすりながら車を停めた。
何故か自動販売機だけは昔のままに生きていた。
一樹は車を降りて、濡れたアスファルトの水たまりを避けながら、自動販売機に歩み寄り、見本缶に眼を走らせる。どういうわけか、一年中ホットのコーンスープとお汁粉がラインナップされているのも、昔のままだった。
一樹はまた溜め息をついて、皺だらけになった安いスーツのポケットを探り、小銭を引っ張り出す。ちょうど一本分のコインがあった。
一樹はノロノロと小銭を自動販売機に投げ入れ、炭酸飲料のボタンを押そうとした。
それより一瞬早く、自動販売機の影から伸びてきた華奢に見える手が、お汁粉のボタンを押していた。
「……え」
一樹は何が起きたのか分からず、ぽかんと口を開けて、自動販売機の取り出し口に手を突っ込んだ。
「うわっち! 」
必要以上に、缶は過熱されていた。一樹は慌てて手を引っ込め、アスファルトにできた水たまりで冷やす。
「……あーあ、そんなに熱い訳ねえって」
自動販売機の影から、呆れたような男の声がした。どこか少年っぽさの残る声。
一樹は、のろのろと、声のした方に向き直った。
自動販売機のわずかな光に照らされながら、小柄な男が影の中から半分だけ姿を見せていた。
フルフェイスのヘルメットは、アイコのものと同じガン・メタリックのシンプソン・バンディット。オレンジ色のパーカーに、トレッキング・パンツ、ブーツもトレッキング・ブーツ。
パーカーには、ジャック・ウルフスキンのエンブレム。
……「狼男」。
「……」
一樹は、その場に尻餅をついて、呆然として声も出なかった。
尻に水たまりの水がしみこんでくるのも気がつかない。
「なんだ、もう少し派手に驚いてくれると思ったのに、残念だな」
「……なんで」
一樹は、驚くというよりあまりのことに感覚が麻痺してしまっていた。
「なんで、あんたがここに」
「さあね。なんでだろうな……俺も二度と来ないつもりだったんだが」
「狼男」は、腕を組んで、困ったような、戯けたような口調で言った。
「……っていうか、なんで勝手に押すんだよ」
一樹は、つい、どうでもいいことの方を口にしていた。
「梅雨時に、しかも汁粉飲む奴がいるかよ! 」
「そうか? 」
「狼男」が、意外そうに答える。
「俺は好きだけどな、オールシーズン」
「あんたの好みは聞いてねえよ! 」
ようやく少し正気に戻った一樹は、飛び上がるようにして立ち上がった。
「まあ、なんでそんなことをしたのか、と言われれば、」
動物でもなだめるように、両手の掌を開いて上下させながら、「狼男」が答える。
「君に声をかけるきっかけが欲しかった、ってところだよ。北原一樹くん」
「……なんで俺の名を」
「すぐわかるさ。そんな年代物のラリーカーを足代わりに乗り回してる奴なんか、こんな田舎に他にいるわけがない」
「……」
一樹は、思いがけず相手が自分を知っていたことで、少し薄気味悪さを感じていた。だいたい、自分が来るのが分かっていたかのように、自動販売機の影に潜んでいたのも不自然だった。
よく見ると、自動販売機の薄い蛍光灯の光の向こうに、VFR750Rが停まっているのが見えた。
一樹は、思わず身構えて、車の方にあとじさる。
「おいおい。そんなに怖がるなよ」
「狼男」は、逆に、なんの身構えもなく一樹に歩み寄ってくる。
「別にとって喰おうってわけじゃないぜ」
「うるせえ」
一樹は、歯をくいしばるようにして、ようやく言い返す。声が、ほんの少し震えてかすれた。
「あんたは、久さんの仇だ」
「……って、上泉久の妹に吹き込んだのは、あんただってなあ」
「狼男」は、大げさに、当惑したような身振りと口調で言って、天を見上げた。
「冗談じゃねえぜ、虎をけしかけられるなんざ」
「ふざけるな! 」
悪ふざけのようにしか見えない「狼男」の態度に、一樹は思わず声を荒げた。
つい手が出てしまい、一樹は態勢を崩しながら、「狼男」に殴りかかる。
「あんたはナガブチかい」
呆れたように呟いて、「狼男」は、ひょい、と一樹の足をひっかけた。
一樹は前のめりに地面に叩きつけられ、したたかに顎をアスファルトに打ちつけた。「狼男」は、倒れていく一樹の左手をとって抱え込むように掴み、アスファルトに倒れる速度を少し緩めてやりながら、一樹の背中に膝を乗せるようにしてそのまま間接を極めていた。
一樹は、胸を打ちつけて息がつまりそうになる。
「おいおい、いきなり殴りかかってくるなよ」
「うるっせえ! ……痛え! 」
間接をねじ上げられて、一樹は悲鳴をあげた。
「人の話を聞けよ。あんたといい、虎姫さんといい」
「狼男」は、少し疲れたような声で言った。
「俺が言いたいことなんざ、たった一つだけなんだから」
「……! 」
じたばたと性懲りもなくもがく一樹を悠々と押さえ込みながら、「狼男」は、言った。
「俺を追いかけるのは構わないが、アイコを……小林・ヒルデブラント・アイコを、巻き込むな」
「……! 」
一樹は、「狼男」の口からアイコの名が出たのが、信じられなかった。暴れようとする手足の力が抜け、へなへなとアスファルトに体が投げ出されていく。
「お前は虎姫の問題に、アイコを巻き込むな」
「狼男」は、そこだけ真剣な声で、もう一度、一樹にきっぱりと言った。
一樹が動かないのを確認して、すい、と一樹の腕を放す。
「そのかわりに、一つ、ヒントをやろう」
「狼男」は、はじめて少しためらうように言葉を切った。それから、決心したように、言う。
「俺にとって、上泉久は、岸川摩耶の仇だった」
「! 」
「だが、俺はしくじった。奴は勝手に死んじまい、俺は復讐の機会を永久に失った……それが、俺と摩耶と久の、ちょっとしょぼいコントなのさ」
二、三歩下がって、数秒様子をうかがい、一樹がそのまま伸びているのを見ると、「狼男」は背を向けてVFRの方に戻っていった。
セルモーターの回る音、それから、V4エンジン独特のエグゾースト。
死んだように倒れている一樹の横にゆっくりと這いだしてきたVFRは、そのまま加速しようとして、ふと思い出したように停止した。
「あと、ちゃんと責任はとるように」
「狼男」は、また戯けたような口調になって、言った。
「見たぜ、今日。雨の後、あんたとアイコが国道沿いのホテルに入っていくの」
「! 」
一樹は弾かれたように顔をあげた。
「狼男」は、大胆にアクセルを開けた。VFRは、ウィリー気味にダッシュし、テールランプが流れるように遠ざかっていった。
「……てめえこそ、人の話を聞けよな……」
一樹は、大島に殴られた頬をさすりながら、のろのろと立ち上がった。
安物のスーツは、泥まみれになっていた。
「誰がガキとなんか、するかよ……」