Section.12 Believe……。(1)
その夜、使い込まれたケルンの厨房……カウンターの裏側の、ごくささやかなものだが……を、アイコが占領していた。
牛のスネ肉だの玉ねぎだのじゃが芋だのセロリだのを危なっかしい手つきで取り扱い、調理というよりは加工に近いような不格好な形に刻みながら、アイコは妙に楽しそうだった。時折、鼻歌が混じるくらいの上機嫌。
使い古しのフライパンでタマネギと牛肉を炒め、別の鍋には軽く火を通し、スパイスで風味をつけた他の野菜を準備。二つを、ラーメン店のような寸胴で合わせて、何故か厨房の中にあったハインツの大きな缶詰めデミグラス・ソースで煮込む。
たどたどしいが、それでもなんとか形にはなっている。寸胴からは、良い匂いがたち始めていた。……学校給食みたいな量になっているのは問題だったが。
アイコは、帰る途中に一樹に文句を言われながら探しまくったライ麦の黒パンをスライスしながら、何が楽しいのか、くすくすと笑う。自宅から何故か持ってきていた瓶詰めのザワークラフトは、自分で漬けたものだった。これだけは、普通の人の梅干しと同じで、切らしたことがないのだという。
そんなアイコの姿を、大島は、不気味なものでも見るような表情で、カウンター越しに眺めていた。
「まさか、子虎が料理する姿を眺めることになるとは」
大島が、小声で呟いた。
「どういう風の吹き回しだ? 」
「……さあ」
一樹は、大島から目を逸らすようにして横を向き、口笛で音程の外れた曲を吹く。
大島は、不審そうな顔で、カウンターのアイコの方に顔を向けた。
妙に上機嫌で、きらきら瞳を輝かせ、ほんのり白い頬を紅潮させながら、アイコが鍋をかき混ぜていた。
大島の貸してやったGPzで出ていったアイコは、日暮れ過ぎぐらいに、何故か一樹のストーリアを引き連れて戻ってきた。出ていったときには持っていなかったレインウェアの下には、出ていったときと違う、赤いTシャツと、ストーン・ウォッシュのジーンズ。いつものライダーズ・ジャケットと黒いジーンズは、ビニールの袋に突っ込まれて、ストーリアの後部座席に置かれていた。
大島にGPzを濡らしてしまった詫びを言い、ジーンズとジャケットをそそくさと奥の部屋にしまい込んだアイコは、何を思ったのか突然厨房を貸して欲しいと言いだし、一樹に買わせたらしい材料の山を広げて、グヤーシュとかいうドイツ料理を作り始めたのだった。しかも、妙なハイテンションで。
一樹はその間、いつものように悪態をつくでもなく、妙に神妙にアイコの指示に従い、材料を運び込んだりしていた。
大島は、そんな二人の間の空気に、妙なものを感じているようだった。
「……なあ、一樹」
大島は、いつものように火のついていない煙草をくわえ、アゴヒゲを撫でながら、一樹に向き直って、言った。
一樹は、びく、と肩を震わせて、大島に斜めの視線を向ける。
「あ、はい。なんすか、マスター」
大島は、サングラスをひとさし指でずりあげ、少しの間、一樹の顔を見てから、言った。
「ちょっと、顔貸せ」
「え……何ですか? 」
「いいから、ちょっと来い」
大島は、ひるんだように身をひく一樹を、ネックブリーカーでもかけるかのようにして捕まえると、意外な怪力でずるずると、店の入り口の方に引きずっていく。思いがけない乱暴な扱いに、一樹は思わず潰される蛙のような悲鳴をあげた。
「あれ? 」
アイコが不思議そうに首を傾げて、大島と一樹をみた。いつものじゃれあいと解釈したらしく、すぐに、仕方ないなあ、という表情が浮かぶ。
「マスター、もうすぐ食べられるんだから、ほどほどにしてくださいね」
「おうよ」
アイコに背を向けたまま、空いている方の手をあげていつもの調子で答えた大島は、いつもと違う迫力で一樹を引きずっていき、とうとう店の外に引きずり出した。後ろでで扉を閉め、アイコの眼から見えなくなったところで、大島はようやく一樹を離した。
「何するんですか、マスター! 」
げほげほと咳き込みながら、一樹が唇を尖らせ、乱れた茶色の髪を手櫛で整える。
「何するんですか、じゃねえ」
大島は、腕組みをして、サングラス越しに一樹を睨みつけていた。いつもの、柔らかく脱力した感じではない。低く、深いところから出てくるような声だった。
「いいか、単刀直入に聞く」
「……何ですか」
ネクタイを緩め、ジャケットのよれを伸ばしながら、一樹が聞きかえした。
「お前、アイコと寝たか? 」
「はあ? 」
一樹は、急に後ろから殴られたかのような表情を浮かべて、大島を見返した。
「な、何言ってるんですか」
「いいから、答えろ」
大島は、サングラスを外し、デニムのエプロンのポケットにしまいながら、真剣な表情で一樹の顔を覗き込んでいた。
一樹は、一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、それから酒でも飲んだように赤くなって、最後には急に怒りに駆られたように目尻を釣り上げて、唇を尖らせた。
「……マスターには、関係ないでしょ」
「……それが答えか」
大島は、くわえていた火のついていない煙草を、ぺ、っと道に吐き出した。
それから。
急に怒りの表情をあらわにして、右の拳を握ると、軽くステップして一樹の腹に右ストレートを叩き込んだ。
どすん、と、重い音がして、一樹は体が分解しそうなほどの衝撃を感じた。
「……! 」
声も出せずに、一樹はその場に膝をつき、体をくの字に折って丸めた。
「俺はふざけてないぞ」
大島は、低い声で言った。
一樹は、呼吸も満足に出来ないので反論することもできない。……警官をやっていたのに、相変わらず腕っ節はまったく駄目だった。
鼻水と涙があふれだして、顔がぐしゃぐしゃになる。
「お前、聖のことはどうする」
聖さんとは、なんでもないです。
一樹は、そう言おうとして、口をぱくぱくさせた。言葉にはならなかった。大島の、唐突な激しい怒りに直面して、パニック状態だった。
「聖が、なんであんなに久に拘るようになっちまったのか、お前、忘れたわけじゃないだろうな」
忘れたも何も。最初から、そんな理由は。
全然、考えてみたこともなかった。
一樹は、苦しい息の下で、急に意識が醒めていくのを感じた。
聖は、何故、久の死にあれほど拘るのだろうか。よく知りもしなかった久のことを。聖は最初、「兄貴をぶっとばしてやりたい」と言っていた。それができなくなったから、どうしていいのか分からない。だからせめて、久を「殺した」奴をぶっとばしてやる。聖が、昔そう言っていたのを覚えている。
その時、自分は、どう答えたのか。
『だけど、あんたが久さんをやった奴を探してぶっとばすっていうんなら、一緒にやらせて欲しい』
一樹は、自分のその言葉に行き当たって、愕然とする。
そして、ついさっき、アイコにもこう言ったのだ。
『俺も、一緒に探してやるよ。お前の先生を』
一樹は、大島に背を向けると、よろよろとケルンから離れ、傍の道路に路駐していた自分の車にすがりついた。ドアを開け、霞む目でキーを回して、アクセルを踏み込む。
一樹は、ひどく混乱しながら、その場から逃げだした。