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Section.11 ここだけの、話。(4)

 久しぶりに戻ってきた自宅マンションの地下駐輪場は、がらんとしていた。

 コンクリートの柱と、アスファルトの床。薄暗い照明。

「くああ、びしょ濡れだ! 」

 GSX-Rを降りた聖は、喚きながらヘルメットを外し、長い髪を下ろした。

 ライディング・ジャケットは水浸し。ジッパーを下ろして、勢いよく脱ぎ捨てるようにして体から引きはがす。

 バイクと聖、両方の足下に、水たまりができていた。

 ぴちゃんぴちゃんと湿った足音を立てながら、バイクを離れてエレベーター・ホールに向かう。入り口についたキーボードに暗証番号を入力してホールに入ると、ポケットに突っ込んだ小銭を引っ張り出して、ホールに設置された自動販売機に放り込んだ。

 季節外れのホット・コーヒーのボタンを押す。

 掌で転がすようにしながら、ジャケットを小脇に抱え、小走りにエレベーターに乗り込む。五階のボタン。

 雨に濡れたせいか、体が冷えきっている。

 さっさと風呂にでも入って着替えて寝てしまおう、と決めこんで、静かに停まったエレベーターを降り、長い廊下を通って、一番端の自室に向かう。

 途中には、左に入る分岐が一つ。

 ひと気がないのはいつものことである。無機質な蛍光灯の光に、白い壁。

 急ぎ足に部屋に向かっていた聖は、分岐の手前で、不意に歩を緩めた。普段感じない違和感が、聖に足を止めさせる。

 聖は、コーヒーの缶を片手でお手玉しながら曲がり角の向こうを無言で睨みつけた。

 間違いなく、誰かがいるような気配があった。

 マンションの住民ではない。この分岐を左に曲がったところには、部屋の入り口はない。通りすがりなら、もう少し足音か何か聞こえるはずだった。

 誰かいるとすれば、あえて待ち伏せしている、としか思えなかった。

 聖は、腕を組んで首をひねり、左手でジャケットの袖を握り締めながら、慎重に一歩前に出た。

「暗証番号つきのマンションに侵入するとは、穏やかじゃないな」

「……というか、あんたは何かの達人か」

 聞き慣れない、男の声がした。少し高目の、どこか少年っぽい、大人の男の声。

「あたしになんか用事? 」

「あんたが上泉聖さんなら、そうだ」

 曲がり角の向こうから出てこようともしないで、男が返事を返す。

「俺は、上泉聖さんに用がある」

「それでずっと、待ち伏せしてたって訳? 」

 聖は、呆れたように言って肩をすくめる。

「よくよく暇ねえ」

「俺もそう思うよ」

 声の主も、戯けたような声で返してきた。

「もっとも、一日中待ちぼうけって訳でもない」

 言いながら、ぬっ、と、声の主が姿を現した。

 突然のことに、さすがの聖も驚いて後じさり、身構える。

「……え」

 身構えたまま、聖は固まった。

 声の主は、「狼男」だった。

 安物のゴムマスクに、安っぽいフェイクの毛。そして、ジャック・ウルフスキンのマークが胸と二の腕に入った、オレンジのパーカー。

 狼男は、腕組みして、聖を見上げていた。

「……」

「まあ、そう驚くなよ」

 驚きのあまり硬直して身動きができず、声も出ない聖に、狼男は肩をすくめる。

「こういう悪ふざけはあんたの専売特許だと聞いてたんだがな」

「ふ……」

 聖は、怒りと驚きで頬を真っ赤に染め、ぶるぶると震えながら、怒鳴った。

「ふざっけんなあ! 」

 怒鳴りながら、本気で「狼男」に前蹴りを放った。

「おっととと」

 「狼男」は、するりと身をかわし、蹴り出された聖の足を掴んで、ひょいとひねった。聖はバランスを崩して尻餅を着く。ヘルメットとジャケットが床に落ち、聖はしたたか床に叩きつけられて、痺れるような痛みにうずくまった。

「……くっ! 」

「怖い怖い」

 痛みをこらえて立ち上がろうとする聖から、軽やかにステップして距離をとり、「狼男」が能天気な声で言う。

「虎に本気出されたんじゃ敵わない。とりあえず、俺はあんたにこのことだけを伝えておこうと思う」

「……」

 ぎり、と、奥歯を噛んで、聖は、立ち上がろうともがく。が、したたか体を打った痛みで、また腰を落としてしまう。

 「狼男」は、腰に手を当て、首を傾げながら、言った。

「あんたが何を追っかけてるのかは知らない。だが、これだけは覚えおいて欲しい」

「……スカしてんじゃねえ! 」

 聖は、ノーモーションで缶コーヒーを投げつけた。

 ぱあん、と、乾いた音がして、「狼男」はそれを片手で受け止める。

 しばし、沈黙。

「……あっちい。この季節にホットかよ」

 「狼男」が、缶コーヒーをお手玉した。両手で持ち直して、ひょい、と聖に投げ返す。

「うわ」

 聖は、思わず両手を出して受け止めた。

 それから、改めて「狼男」を睨みつける。「狼男」は、こほん、と小さくマスクの下で咳払いをした。

「……ともかく」

 「狼男」は、言った。

「これ以上、あの直線バカを……アイコを振り回すな」

「……! 」

 聖は、目を見開いた。「狼男」の口から、はっきりとその名前を聞いて、体が熱くなった。

「お前、やっぱり……! 」

「おっと、質問は受け付けない」

 「狼男」は、ひらひらと掌を振って、聖に背を向けた。

「じゃあな。もう会うこともないだろう」

 そのまま、ひょい、と曲がり角を曲がって、姿を隠す。

 とんとんとん、と、小走りしていく軽やかな足音。

「ま……待て! 」

 我に返った聖は、あわてて立ち上がろうとし、腰を打った痛みによろめきながら壁に手をつく。

 足音は、どんどん遠ざかって、聞こえなくなった。聖が這うように曲がり角までたどりつき、そこから続く短い廊下に視線を走らせたときには、もう、「狼男」の姿は全く見えなかった。聖は舌打ちし、壁に拳を叩きつけると、床にへたりこむ。

 冷たい床だった。

 黒革のライディング・パンツの尻ポケットで、携帯電話が鳴った。あれだけ床に叩きつけられたのに、奇跡的に無事だったらしい。

 聖はのろのろと手を伸ばし、フリップを開いて耳に当てる。

「はい、上泉……」

『聖さん! 』

 いきなり、大音量で雪奈の悲鳴のような声が響いた。聖は顔をしかめ、少し耳から電話を離して、応える。

「……雪奈か 」

『聖さん、助けて……』

 雪奈は、ほっとしたのか、それだけ言うと電話口でしゃくりあげ、すすり泣き始めた。いつものヒステリーかと思ったが、どうも少し様子が違う。

「どうした? 」

 尋ね返す聖に、雪奈は嗚咽の合間合間に、ようやくといった感じで答える。

『とにかく、やばいの。あたし、責任が……』

 自分の中ではつながっているのだろうが、聖にはさっぱり分からない。

「とりあえず、あんたどこにいる? 」

『……駅前の、ミスタードーナツ』

「あんたにしては変わったところにいるな」

『ここなら、人が多いから安全かと思って……』

「じゃ、そこでコーヒーお代わりしながら待ってな。これからそっち行くから」

 聖は、気合いを入れて立ち上がった。「狼男」のことは気にかかるが、今はそれどころではなさそうだった。

「心配すんな! あんたにはあたしがついてる! 」


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