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Section.11 ここだけの、話。(3)

 聖に呼び出されて「マインドトラベル」の編集室に行った日、美春はずっと腹を立てていた。

 降ったりやんだり鬱陶しい雨にも、中途半端な気温にも。

 嗅ぎなれた街の前の湖の匂いにも。

 こんな殺伐とした気持ちは、女性として生きようと思い立って以来、初めてだった。

 それこそ、聖と二人、街のハナツマミだった頃のような、ササくれだった気分だった。

 この気分を晴らすために、美春はボクシングをやっていた。不思議な感じだった。楽しくもなんともなかったのに、才能に恵まれてしまっていた。どんなときでも、拳でカタがつけられるように錯覚するくらいには。そのおかげといえば、前科がついたくらいのものだが。

 美春は、聖と男女としてつきあっていたことがある。

 ほんの一時期だが、もちろん、するべきことはしてしまった。

 それでも、聖と美春は、親友にはなれても、恋人同士にはなれなかった。

 その主な原因は、美春のたくましい体躯の中に眠っていた、可憐な乙女心のせいだったと気付くまで、二人とも何年もかかってしまった。

 美春は最初、久のことを疑っていた。

 聖は、美春には久のことは一言も言ったことがない。どんなに親しくなっても。一度だけ、一緒に寝ていたときに聖が、久、と漏らしたのを聞いただけで。

 その一言は、しばらく美春の中でわだかまり、美春を苦しめた。傷害事件を起こしたのは、そのわだかまりを抱えていた時のことだった。聖が売られたケンカを、聖が知らないうちに片づけようとして、やり過ぎた。

 後で聞けば、その頃の聖は昔から続いている地元ヤクザ、明和会の先代会長のお気に入りで、密かにガードされていたらしい。聖の知らないうちに、聖に代わっていろいろな問題を処理するようなことになっていたと、美春は接見に来た見知らぬ男に聞かされた。聖も、なんとなくそのことを知っていたようだ。その男は、現在は雪奈の用心棒のような立場にあるらしいと、美春は聖から聞かされた。雪奈が、狼男のことを探ろうとしてアイコを痛めつけさせたのがその男だった。

 この前、そいつがアイコにひどいことをしたと、聖は怒っていたが、それでも、「上泉の嬢ちゃん」に逆らわないというルールはいまでも生きてたみたいだ、などと言っていた。聖を気に入っていた先代の会長はもう亡くなってかなりたつ。聖が帰郷後の就職先に選んだ、当時フリーペーパーだった「マインドトラベル」の出版元・岸川企画が、実は明和会のシノギの一つだったというのは、本当に偶然だったが、死んだ会長に取り憑かれてるんじゃないかと、美春は少し怖くなったことを思い出す。

 そんなことを考えながら、自分の店に戻り、開店準備をはじめる。いつもよりかなり遅い仕込み。いつもなら、一樹かアイコが腹を空かせてまかないをたかりにくる時間だが、今日はまだ何の準備もできていない。ロゼッタ・ストーンのスタッフは、もっと遅い時間にならなければ出勤してこないし、なんとなく、今日は誰も来ない気がした。

 美春は、たまの静けさを満喫することにして、カウンターの奥、フロアからは見えないところに置いてあるパイプ椅子に腰を下ろし、普段はカラオケくらいにしか使われていないオーディオ・セットのドックに自分のiPodを突っ込んで、音楽を流す。良く伸びる、外国語の歌。プッチーニのオペラ、蝶々夫人。

 美春は肘をついて目を閉じ、しばし聞き入る。

「やっぱ……ジョルダーニよりカレーラスの方が好きだなあ」

 ぽつりと呟いて、美春はオーディオを切った。

 少しずつ、ボタンを掛け違えてきているような気分だった。

 美春は携帯を取りだして、画面を見ないでボタンを動かす。着信履歴を記憶していて、目を瞑ったまま操作するのは、美春の特技だった。

 相手は、アイコ。

 三回コールで、返事があった。

「やほー、アイコ」

『やほー、みーちゃん』

 いつも通りの、アイコの声。

『今日はひどい目にあった! マスターのGPz借りて走ってたら、トロい大型に遭遇して。追っかけ回してたらガス欠になっちゃって。雨降ってきたのにレインウェアも無くって散々! 』

「へー。どこらへんで? 大丈夫なの? 」

『うん、街外れの田んぼばっかりのとこだけど、もう大丈夫』

「そう? 」

 心もち、アイコの声がいつもより弾んでいるように、美春には思えた。少し怪訝そうに、聞きかえす。

「雨は? まだ降ってるんじゃない? 」

『うん、大丈夫。屋根のあるとこに入って、シャワー浴びたし』

「シャワー? 」

 アイコが言った場所の近くに、そんな施設があったか、美春は疑問に思う。

『で、レインウェアもどうにかなったんで、これからマスターにGPz返しに行こうかと思ってるとこ』

「……そうかあ」

 なんとなく腑に落ちないものを感じながら、美春は生返事を返した。

「あんた、晩ご飯は? 」

『うん、今日は自炊する! 』

 思いがけない返事。

「あんた、料理なんかできるの? 」

『ママの得意料理!ジプシー風 グヤーシュ! 』

「ジプシー風……なに?」

『グヤーシュ! なんかシチューみたいなドイツ料理! 』

 アイコが、得意そうに言って、くすくすと笑った。

『たくさん作るから、みーちゃんとこにも明日持っていくね! 』

「たくさん作るの? 」

『マスターと、聖さんと、みーちゃんとあたしの分……』

 電話の向こうで、はっきり聞こえないが、誰かの声がした。アイコが受話器を抑えたのか、一瞬静かになり、また、アイコの声。

『あー、ごめんごめん。とりあえず、そんな感じです』

「そう……」

 誰かいるの、と聞きかけて、美春は言葉を飲み込んだ。気を取り直して、いつもの明るい声で、言う。

「じゃあ、楽しみにしてるね。アイコの自慢料理」

『うん! じゃあね! 』

 アイコは、元気よく答えて、電話を切った。

 美春は液晶が暗くなるまで携帯電話をみつめ、それから、ぼそっと呟いた。

「料理、ねえ……わかり易すぎるだろ」

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