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Section.4 スキップ・ビート(1)

「さあ、仕事仕事! 」

 そう言ってフルフェイスのヘルメットを被りなおした聖は、アイコに背中を向けたまま、明るい声を張り上げて、言った。

「もう結構時間ぎりぎりなの。あたしの後ろ、ついてきて」

 返事も待たずに、エンジンのかかったままのGSX-Rにまたがり、聖はアイコに判らないように小さな深呼吸をした。

 朝の空気はもうずいぶん太陽に暖められて、生ぬるい。初夏の草の匂いが鼻につく。道路の両側は、藪と林。その向こうには、水田の水面。

 心臓がバクバクと音をたてているのが、自分でも判る。冷や汗が額に流れ、下手をすれば小刻みに手や膝が震え出しそうだった。

 聖は、アイコと大島の行動を最初から読んでいて、二人が大島のガレージから出てくるところあたりから、アイコがSDRで走り出すのを待っていた。

 最初は自分でも軽い冗談のつもりだった。

 いくらあの「狼男」のSDR、それも大島が調整し直したものとはいっても、所詮は二〇〇CCの中型二輪、しかもライダーが免許取得半年目のアイコである。聖のマシンは大型のレーサーレプリカ、GSX-R750。しかも、この一〇年、レースにこそ出ていないものの、ジムカーナや地方サーキットの走行会に顔を出し、かなり腕に自信ももっていた。

 だから、ほんの少しアイコを泳がせて、圧倒的なバイクの性能と腕の差を見せつけるつもりだった。最初はさしたる理由はなく、アイコが本気でつっかかってきそうで楽しそうだったから思いついたのだが、こういうタイプを自分の側に置いておくためには、それが必要でもあった。ただ気に入っているからということではなく、聖の目的のために、アイコをそばに置いておきたかったのだが、そのためには、アイコより強い自分を見せておかなければならなかったし、少なくともそのくらいのことはできる自信もあった。

 だから、アイコが赤いジャージにプロテクター、シンプソン・バンディットのフルフェイス、という出で立ちで、SDRを引っ張って歩く大島について視界に入ってきた時も、その微笑ましさに思わず口許がほころんだ。

 ところが、現実というのはそう思い通りにいかないものらしい。

 アイコに気付かれないように追尾しようと考えていた聖は、それが簡単でないことにすぐ気付かされることになった。

 走り出したアイコは、まるで、都市伝説になっている「狼男」が乗り移って、再びSDRを操っているかのようだった。

 いくらSDRの加速がいいとはいっても、所詮三〇馬力、二〇〇ccの単気筒エンジンである。単純な加速競争なら、型落ちとはいえ一四〇馬力をたたき出すGSX-R750の四気筒エンジンが圧倒的なのはいうまでもない。車重の差を念頭に置いても、ゼロヨン競争なら、三割増しくらいの差はあるだろう。ロードバイクであるSDRと、レーサーレプリカであるGSX-Rでは、車体剛性や安定性にも大きな差がある。アイコと自分の腕の差もあわせて、いくらSDRが飛ばしても余裕で追いつける、と聖はタカをくくっていた。

 だが、公道では、何がおきるかわからない。

 特に、ギリギリのところを飛ばして走るような場合は余計に。マシンの性能差は、ちょっとした状況でほとんど意味を失う。通行している他の車や通行人の様子を見ながら、走れるラインを探し、障害になりそうなものを瞬時に把握してマシンを操作しなければ、公道を速く安全に走ることはできない。それはひょっとすると、サーキットを走るよりも難しい面もある。

 どうやらアイコは、公道を速く走ることにかけては天才的なところがあるらしい。

 二車線の、結構他の車がたくさん走っている道路に出たとたん、SDRはシルバーバレットと呼ばれた昔日の面影を取り戻した。

 かなりの速度で車線変更を繰り返しながら走っている車の、さらに脇をすり抜け、谷間のようなトラックとトラックの間のわずかなすき間を、瞬時に見切って間を突破。目の前でブレーキングする遅い軽四輪のバンは右側に抜けてかわし、ドリフト気味に左車線に戻って加速。

 後ろから見ていると、まるで暴走する巨象の群れの中で、軽やかにステップを踏んでいるよう。かなりギリギリの走りの筈なのに、交通の流れ切ることも、周囲の車を驚かすこともなく、滑らかに、しかしかなりの速度で、黒と銀のSDRが駆け抜けていく。赤いジャージにシンプソン・バンディットの、小柄な悪魔を乗せて。

 聖は、少し、焦った。

 そのSDRの走りに、追従することができなかった。

 アクセルを開けても、前のラインはトラックに塞がれ、左はブレーキランプを灯して減速中の白いセダン。間をすり抜けようにも、前を走るトラックとセダンの速度差が中途半端で、前に出られない。右側に倒してセンターラインに寄せ、トラックを右から抜こうとすれば、トラックがそれをブロックするように右に寄る。

 まったく、思ったように走れない。

 アイコの赤い背中が、タイトロープの上を踊るように遠ざかっていく。

 ジムカーナのような、低速全開・急減速・急加速、ではない。アクセルワークだけで、無駄な加減速もなく、すいすいとすり抜けていく。銀色のフレームに、高くなりはじめた太陽の光を、キラキラと反射させて。

 聖は、冷や汗が流れ落ちるのを感じた。バクバクと心臓が高鳴る。

(あんな走り方、一つでもミスをやらかせば車に轢かれてあの世行きだ! )

 とてもついて行けない。

 少しの間アイコを追尾しようとした聖は、早々にこのエリアで追いつくのを諦めた。

 GSX-Rの、排気量からいえば決して大きいとはいえない車体も、こんな状況では大きすぎるし、パワーもフルカウルも、全てが足かせになる。原付と見まがうばかりのスリムさに、中低速重視のエンジン特性を兼ね備えるSDRをほぼ完璧にコントロールされれば、どうしようもない。

 だが、アイコがこのまままっすぐ走り続けるなら、多少離されても必ず補足できる自信も、聖にはあった。

 やがてこの道は市街地を抜けて田園地帯に続いている。

 そこまでいけば車が減るし、しかもダラダラした登り坂が、ワインディング・ロードに入るまで続く。比較的高速のコーナーから入っていく、小さすぎないカーブの連続するワインディング・ロード。

 その入り口までに、アイコを抜き返す自信があった。

(ちょっと無理すれば、ね……)

 アイコはまだ、聖が後ろをついてきているのに気付いていないようだった。

 聖は、SDRと自分の距離がどれくらい開くのかを想定し、全開走行できそうな場所に出てから、マシンの性能にモノをいわせて追いつくまでの時間を即座にはじき出す。少なくとも、ワインディング・ロードの入り口までには、補足できることを確信した。

(SDRの最高速度はいいところ時速一六〇キロ。GSX-Rの六割ってとこ。しかも登りのダラダラ坂、全開勝負なら絶対追いつく)

 性能差を使って直線で一気に追いつき、押さえ込む。それが多分、一番適当な方法。少なくとも、登りのうちに押さえ込んでしまわないと、峠を抜けて下りのワインディングに入ってしまったらちょっと面倒くさい。

 そう計算しながら、聖は少し、プライドを傷つけられた気がした。

 アイコに対してではなく、怖じ気づいて震える自分に対して。だが、それでアツくなるほど甘くもない。

 聖は呼吸を整えて、辛抱強く、交通量が減るのを待った。

 二〇キロほども、走っただろうか。

 道はやがてワインディングにさしかかり、車線は二車線に減った。

 車は急激に少なくなり、アイコの背中を、小さいながらもはっきり捉えられるようになった。

(ロックオン、アイコ! )

 聖は口の中で呟き、一気に二速、シフトダウンした。

 気持ちよさそうに加速しはじめるSDRを見ても、慌てない。

 単なる直線勝負なら、なんの問題もない。

 ただ、しっかり膝でタンクを抱え込み、アクセルを開いて、シフトアップするだけ。それだけで、聖はアイコの前に出ることができる。

 GSX−Rは、小鳥を捕らえる猛禽の鋭さでSDRに喰らいつき、あっさりと前に出て、あっという間に前を塞ぎ、アイコを押さえ込んだ。思ったより離されていたせいで、最初のカーブで捕まえ損ね、S字の向こうになってしまったが。そして聖はGSX−Rをスローダウンして路肩にを停め、アイコのSDRも停めた。

 無理に不敵な笑みを作ってヘルメットを外して、言う。

「アイコ、あんた、なんつー走り方してんの、いきなり」

 それはしかし、本当はただの強がりだった。

 そして今。

 アイコを従えて走りながらも、聖は自分の弱さに辟易していた。

 だが、思ったよりアイコを捕まえるのに手間取ったせいもあって、仕事先に急がなければならないのは嘘ではなかった。聖だって、毎日遊びほうけているわけではない。むしろ、アイコに構い過ぎて、他の仕事が滞っているくらいだ。

 聖は、バックミラーにアイコを映しながら、小さく舌打ちし、教本のように丁寧なライディングで、仕事場に急ぐ。心なしか、ミラーの中のアイコの体が、いつもより小さく見えた。


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