Section.11 ここだけの、話。(2)
一樹が出て行き、予土と雪奈がそれぞれ自分の任務を確認して立ち去って行った後、聖は一人で煙草をふかしていた。
雨が、窓を叩き始めている。
随分、薄暗くなってきていた。
聖は冷めきった紅茶を飲み干し、食べ残しのケーキを無造作に口に放り込む。ゆっくり咀嚼して飲み込み、また煙草。
口の中で混ざり合った、嫌な味に顔をしかめる。
そして、考える。
自分が一体、何をしようとしているのか。というよりは、この十年、何をしてきたのかを。
柄にもなくいろいろなことを思いだす。
でも、それでも。
聖はもう、やめられない。北原一樹と初めて会ったあの日、聖は決めたのだ。久をやった奴をぶっとばす、と。
良く知ろうともしなかったし、実際、中学生になって以降は一緒に暮らしていながら疎遠な双子の兄だった。聖は、久にどれだけ周りの人間に好かれていたか、どれだけ評価されていたのかを知らない。多分、久も、聖がどれだけ周囲と噛みあわなかったか、どれだけきしみをあげながら暮らしていたか、知らなかっただろう。別に仲が悪かったわけではない。ただ、父親が妙に久を嫌っていたから、家族揃って話をする機会は全く無かったし、学校をサボることが多く、父親と接点が多かった聖はなんとなく久と疎遠になっていた。
だから、一つ屋根の下にいながら、聖は久のことはほとんど知らないし、知ろうとも思わなかった。
久が本当にいなくなるまでは。
久が死んだとき、父は葬式もあげようとしなかった。聖は、それがたまらなく悲しく、珍しく父を強い口調で責めたが、結局、意思を曲げることができなかった。聖は、久の存在が、自分の中で大きな位置を占めていたことに、はじめて気がついた。
久があまりに良い子だったので、ついていけない、という思いが、聖の根元に巣くっていた。
だから、虎姫、などというつまらない通り名がつくぐらい、馬鹿なことをやっていたのだと、聖は否応なく気付かされていた。短大を出て二年、久より先に社会に出たのも、結局同じ理由だった。
……同じことをやっていたら、自分の存在が消えてしまうから。
双子というのが、多分、良くなかったのだと、聖は思う。
歳の離れた兄妹か姉弟だったら、きっとうまくやっていけたのだ。ただ、あんな完璧超人が双子の兄として常に隣にいたら、聖でなくても歪んでいっただろう。
それで当たり前だったんだ、と聖は思う。
だからある意味、狼男には感謝しないといけないのかも知れない。
彼が久を消してくれたか、久自身が消えたがっていて、その責任を狼男になすりつけたのか、実は聖にはいまだに確信がもてないのだが。
だが、いずれにせよ久が消えてくれたおかげで、聖は、今ここでこうしているのだ。
「……とか、青臭いことに入れ込み過ぎだよな、あたしゃ」
短くなった煙草を揉み消して、デスクに肘をつく。
それでもやめられないのは、半分は雪奈のせい、だと思う。
あの泣き虫の弱虫が、どれだけ無茶を続ければヤクザ稼業でそれなりの地位なんてことを続けていられるというのか。しかも、岸川の愛人でもある、という。
それがすべて、死んだ恋人・久のためだと、雪奈は言う。
雪奈は二十代の大半を、そんなことのために費やそうとしている。
聖は、雪奈のことが好きではないが、それでも、少しは報いたいと思っている。
大島や一樹や、それからもとの久の友人達は、聖や雪奈に、それを忘れたほうがいい、と思っているのかもしれない。いや、聖自身も、心のどこかでは、もう久とも狼男とも縁を切りたいと思っているのかも知れない。
そうしないと、結局ずっと久の影から自由になれない、と、自分でも分かっている。それでも、雪奈を独り、放りだしてしまうことは、聖にはできそうになかった。
だから、美春も、途中までは付き合ってくれたのだろうと思う。
……聖が、目の前のアイコを犠牲にしようとするまでは。
美春を救うためにアイコを犠牲にしよう、などと、聖も思っていたわけではない。
アイコも真相を知りたがっていて、狼男に会いたがっている。少し乱暴だが、目的は同じ、と言えなくもない。そして、何より、アイコを「マインドトラベル」で大きく取り上げたのは、それだけが目的ではなかった。
純粋に、良かったから、大きく使ったのだ。
アイコの眼差しが、全体のしぐさが、猫の毛のように細い髪が、「マインドトラベル」という雑誌の誌面に奇跡のように良く映えた。
予土が撮ってきた、次号用の写真も、やはり同じように聖のイメージにぴったりだった。
轆轤に見入る瞳、大口を開けて笑う顔。そして、ときどき見せる憂いにかげるような横顔。それは、浜橋皆山のアトリエである廃校の洋風建築や、濃い緑の田や山並みから浮き立つようだった。
ハーフの割に日本人そのものの顔立ちで、十人並みよりは整っているが、コンテストで優勝するような飛び切りの美少女ではないところ、表情をつくれないぎこちなさも含めて。
アイコが写っているだけで、普通の「ちょっと凝ったデザインのタウン誌」である「マインドトラベル」が、「コンセプトに忠実でデザインと一体になった特別な雑誌」に変わってしまう。
それは、リョータやミサキと一緒に、聖が何年も試行錯誤して達成できなかったことでもあった。
「あいつ、変な奴」
聖は、テーブルに突っ伏した。
まだ、会って間もないガキなのに。聖は、アイコのことが気にかかって仕方ない。
ここ数日、顔を見ていないのが不思議なくらいだった。むしろ、聖が無意識に避けていたのかもしれない。やはり、少し後ろ暗い気持ちがあったのだろうと思う。アイコは、どんな聖でも信じる、と言っていたのに。
聖は、ふと切ない気持ちになり、携帯電話を取りだした。
アイコの声が、聞きたくなった。
何を話そうか、頭の中でまとめるより先に、指が携帯電話の着信履歴を探し当てていた。
ほとんど無意識に、コール。
五回、六回、七回。
十二回コールで往信がなく、聖は溜め息交じりに電話を切った。
「何やってんだあたしは! 」
自分に腹が立って、携帯電話を投げ捨てそうになる。が、住所録のバックアップもなければ、最近気に入ったデザインの電話がないことも思い出して、思い止まる。
それから、深々と溜め息をつくと、散らかったテーブルの上を片づけて身支度をし、編集室を出た。
いつも、スタッフか賑やかしの人間が誰か居座っていて、鍵を締めることが滅多にない編集室を、独りで出て、鍵をかける。
バックパックを背負い、ビルの脇に寄せたGSX−Rにまたがったとたん、急に雨がぱらついてきた。
「そんなに、あたしを責めないでよ」
溜め息まじり、誰も聞いていないのをいいことに珍しく弱音を吐く。
聖は天を見上げ、ヘルメットを被ってGSX−Rにまたがる。セルを回すと、エンジンだけは簡単に火が入った。雨がジーンズを濡らし、鉛のように足を重くする。
聖は砕けそうなほど奥歯を噛みしめ、アクセルを開けた。
GSX−Rは、弾かれたように車道に飛びだしていく。
ばらん、と、ヘルメットのシールドを雨粒が叩いた。