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Section.11 ここだけの、話。(1)

 アイコは、一樹に、ぽつり、ぽつりと話をした。

 狼男の話を。

 それは、一樹の方からすれば、あまり聞きたくない話だった。

 アイコは、中学三年の終わり、高校受験の当日に盲腸にかかって、浪人した。制服の可愛い私立の学校には行けなかった。

 ヨーロッパ生まれで、親の仕事の都合で転々と引っ越しを繰り返していたアイコは、学校ではすっかり浮いた存在になっていた。それに、両親の別居・離婚も重なって、ちょっと荒れていた。親との関係は悪くなかったが、学校ではちょっとした不良生徒扱いだった。

 アイコ本人は、実はそのことを結構気にしていたのだが。一般生徒とは、関心事項や価値観が違いすぎて、うまくコミュニケーションがとれなかったし、第一、担任の教師が頭からアイコを異分子扱いしていたから、解決のしようがなかった。友人らしい友人もいなかったが、妙に同性には憧れられたりしてもいた。バレンタインデーに何故か大量のチョコレートを貰ったこともある。その代わり、よく上級生や他校の生徒に絡まれたりもした。

 別に彼らに盾突く気もなかったが、母親譲りのゲルマンの血のせいか、理不尽なことには黙っていられなかったし、小学校のころにバレエをみっちり仕込まれたせいか、運動能力は標準的な同級生よりずっと高かったから、結局我を張り通すことになった。

 いつの間にか、完全に全校公認のヤンキー扱いになっていた。

 それが嫌でインターナショナル・スクールを受験したのに、結局入学できなかった。

 急病だったのだが、友人がいなかったせいで、いろいろな噂をたてられたりした。

 無駄に前向きなことには自信があったアイコも、さすがに気分が滅入って、しばらくひきこもっていた。母はドイツにいて音信不通だったし、父はときどき帰ってくるくらいでアテにならなかった。

 それでも、父は父なりにアイコのことを心配していたらしい。

 たまに帰って来たときにはそれなりにアイコに暖かく接していたし、山登りだの野球観戦だの、東京でのショッピングだの、いろいろ連れ出してもくれた。

 アイコも父は嫌いではなかったから、それなりに甘えて過ごしたりもしたが、どこかで抜けてしまった力が戻ってこない感じが、ずっとつきまとっていた。……まあ、その間も、独学で合気道の練習を、畳がすり切れるほどやったりはしていたわけだが。

 海外赴任の決まった父が、そんなアイコのためにやとった家庭教師が、新田史郎だった。

 一ヶ月だけの約束で、史郎はアイコの家庭教師を務めることになっていた。

 標準的な中学生からすればかなり特異な感性をもっているアイコだが、日本から一歩も出たことがない史郎の非常識さは、それ以上のものだった。

 史郎は、河原にテントを張って暮らしていた。

 警察に通報されたりしないのが不思議だったが、その場所は私有地で、所有者の許可があるからいいということらしい。史郎は、そこに一ヶ月バイクと一緒にビバークして、自炊しながら暮らしていた。

 アイコも、随分そこで食事をご馳走になったり、天体望遠鏡で星を見せてもらったりした。

 一晩だけ、泊めてもらったこともある。テントの中に寝袋を並べて。アイコの方はかなりときめいたりしたが、史郎はさっさと寝息をたてて眠り込んでしまった。アイコは結局その日、一睡も出来なかったが。

 史郎は、ダッヂオーブンでなんでもつくったが、特にスコーンとスモーク・チキンは抜群に上手だった。少なくとも母親のものよりはずっと美味しかった。

 家庭教師と言いながら、史郎は、アイコに勉強はほとんど教えなかった。

 史郎がアイコに教えたのは、自分の旅の話や、行った先々で出会った、普通の人々の話しばかり。

 そうでなければ、半分は史郎自身も見たことのないような、何十年も前の人の話。

 史郎は、そういう話を聞いて記録することを、少し前まで仕事にしていたのだという。どこか東の方の国の機関にいた、ということを、あとでアイコは父から聞いた。

 アイコは、真っ白い紙に絵を描くように、史郎からいろいろなものを吸収した。

 各地を転々としているうちに、学び損ねたいろいろなことを、教えてもらった。

 そんな夢のような一ヶ月は、あっという間に過ぎ去った。

 史郎は、約束通りアイコの前から去って行った。

 また会いたい、というアイコに、史郎は、

「お前が大人になったらな。それまでは会わない方がいい」

 とそっけなく言った。それから、思い出したように付け足した。

「だけど、高校はちゃんと受けろよ。受かったら、お祝いにこいつを渡してやるよ」

 そう言って史郎は、いつもテントの傍らに停めてあった、小さなバイクにまたがって、走り去って行った。

 それからは、本当に連絡がつかなくなった。

 父に聞いても、口止めされているとかで教えて貰えなかった。

 そして、今年の三月。

 今年もアイコは、いろいろあって結局受験に行くことができなかった。

 それなのに、「お祝い」は送られてきた。

 史郎はおそらく、アイコが高校に行くことを全く疑わなかったのだろう。

 登録用の書類は、アイコの父が送ったらしかった。

 合格発表の日に、史郎の乗っていた小さなバイク……SDRは、アイコのもとに贈られてきた。

「その言い訳も含めて、先生にもう一度会いたかったんだ」

 アイコは、長い話を終えて、息をついた。

「聖さんや一樹さんから話を聞いて、その気持ちはすごく強くなった。でも、決定的なのは、これだった」

 アイコは、ポケットからパスケースを取りだした。

 ラミネート加工の写真を一枚、大事そうに引っ張り出し、ためらいながら一樹に差し出す。

 一樹はそれを受けとり、目を疑った。

 写真に写っているのは、久の死んだ場所だった。ガードレールのない断崖、はるか向こうに滝。そして、SDRと、ジャック・ウルフスキンのマウンテンウェアに身を固め、苦笑している小柄な男。

 見間違える筈がない。顔こそ知らなかったが、それは一樹の知っている「狼男」そのものだった。

 絶句している一樹に、アイコはもう一枚、四つに畳んだ紙をパスケースから取り出して、広げて渡す。

 それは、同じようにピンボケな、間違い探しのように同じアングルの写真のカラーコピーだった。

 写っている人物が違い、バイクが写っていない以外は。

 この写真の被写体は、白いワンピースを着た日本人形のような人物だった。一樹は、その写真に見覚えがあった。……ケルンの奥の部屋に置いてあった、久の遺品だった。

 写っているのは、岸川摩耶だった。

「あたしは、これを見て、先生にもう一度会おうと決心した」

 アイコは、何故か寒そうに腕を組みながら、言った。

「何故、あたしにこの人のために作られたバイクをくれたのか、訊きたい、って思った。ひょっとすると聖さんのお兄さんを殺したバイクを、どうしてあたしにくれたのかを」

「……ちょっと、待ってくれ」

 一樹は、アイコの話がなかなか飲み込めなかった。意味はわかるのだが、理解が追いつかない。

「なんで、摩耶と狼男が、ほとんど同じ写真に……」

「写した日は、わからないけど多分違う。でも、少なくとも、この二人が無関係じゃないことは確か」

 アイコはそう言うと、急に腰が砕けたようによろめき、ガードレールにしがみついた。

「うわ、大丈夫か」

 慌てて助け起こす一樹に、アイコは顔をあげた。白い頬が、貧血でも起こしたようにますます白くなっている。

「ご、ごめん。大丈夫」

 アイコは、まだよろめいている。

「これって、嫉妬なんだと思う」

 アイコは、一樹にしがみついて、なんとか立ち上がりながら、言った。

「この人と先生の関係とか考えると、頭が真っ白になる。あたしは、テントで横で眠ってても、全然相手にされなかったのに。この場所だって、一緒に行ったことないのに。この人は、あたしの知らないところで先生と同じ風景見てたんだ、って……」

「……」

「あはは、馬鹿みたいだよね」

 アイコの体から、また唐突に力が抜ける。一樹は慌てて両手に力を込めて、なんとかアイコを抱きすくめる。

 端から見れば、熱い抱擁のように見えたかも知れない。

「こんな嫌な気持ちになっちゃった。嫌な子だよね、あたし」

 アイコは、かすれた声で言って、一樹にしがみついた。まるでそうでもしないと、どこまでも落っこちていくのではないかと疑っているような必死さで。痣ができるほど、強く。

「……嫌な子じゃ、ねえよ」

 一樹は、ふ、と笑って、アイコの猫っ毛の髪を、くしゃ、と軽く掴んだ。

 ゆっくり離して、髪を撫でる。

「お前はちょっとシンプルで、エネルギーをもてあましてるだけだ」

「……」

 アイコは、無言で頷いて、そのまま一樹にしがみついていた。

「なあ、」

 一樹が、いつもよりほんの少し、柔らかい声で、言った。

「俺も、一緒に探してやるよ。お前の先生を」

 アイコは、驚いたように顔をあげた。

 一樹は、空を見ていた。雨粒が、さっきよりさらにたくさん、落ちてくる。

「聖さんたちより先に、俺たちが見つけよう。そして、ちゃんと確かめよう」

 一樹は、アイコの方に顔を向けなおして、いつになく真剣な表情で、言った。

「……本当は、久さんと摩耶、そして狼男の間に、何があったのかを」

 

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