Section.10 純情(4)
いつもは、少し高齢な村人がひっきりなしに出入して賑やかな山奥の古びた洋館が、今日は珍しく静まり返っていた。
浜橋皆山は、作品製作に集中するときには、一切の来客を謝絶し、小学校跡で開いている店もすべて休んでもらうことにしていた。
薄曇りの、今にも雨がふってきそうな昼下がり。農作業の音も聞こえてこない皆山のアトリエは、耳が痛くなるほど静かだった。
皆山は、展示場にもなっている玄関ホールの奥で、素焼きの終わった作品の灰を落とし、仕上げを検討していた。皆山の作品は、フォルムの精密さ、緻密さが特色で、釉薬も絵付けも精密機械のような繊細さが特徴だった。それでいて、きちんと表情があるのが、地方の、かなり遅く陶芸をはじめた作家としては比較的高い美術業界の評価につながっている。どちらかといえば、伝統的な工芸の世界より、セレクション・ショップや現代美術系、デザイン系で人気が高い。
個人的な顧客も、岸川のような年配の者はむしろ少なく、少し気取った若者たちに人気がある。
彼らに言わせれば、皆山の作品は「ポップ」なのだという。
鉄やらアルミニウムのような、ガチガチの素材を旋盤で削っていた手が、土を削っているのだ。好むと好まざるとに関わらず、ちょっと浮ついた調子になるのだろうと、皆山は勝手に思っていた。
自分ごときが「ポップ」とは、恐れ多くて名乗れはしないが。今でも、皆山にとってその名前は神にも等しい。陶芸はほとんど独学だったから師匠はいないが、その前にやっていた仕事の心の師が、そういうニックネームの人物だった。
皆山はスケッチブックを見ながら、素焼きの上がりを確認し、仕上げのイメージを頭の中で造り込んでいく。ドイツ製の、水彩用に使える色鉛筆で、ラフなスケッチを書きつけながら、十点ほどの作品を磨いて、作業机の上に並べた。
普段は消している、太陽光に近い色調の蛍光灯の下に、静かにカップが並ぶ。……まるで、直列四気筒のピストンのように。
皆山は角張った顔に厳しい表情を浮かべてそれをじっと睨みつける。
右端のひとつに、皆山の視線が止まった。
慎重に取り上げ、ためつすがめつ、自分の作品を観察する。
やがて、皆山の目は、カップ全体に、ほんの少しの歪みがあるのを発見した。
いや、歪みと呼ぶほどのものではなかったのかもしれない。おそらく、浜橋皆山その人と同じだけの眼力がなければ、決して気づかないほどのわずかなものだった。
皆山はそれを取り上げて、無造作に床に叩きつけようとした。
……が、途中でふと気づき、手を止める。
「いかん、いかん」
口に出して自分を諌めるように言い、ほかのものから少し離れたところにそれを静かに置く。気持ちを落ち着けようとするようにごま塩のような無精髭をなで、頭に巻いた藍の日本手拭を外す。
皆山は、作品を載せた作業机に背を向けて、大きく伸びをすると、玄関ホールに出た。
裏の厨房厨房に行って、コーヒーでも沸かして飲もうと思っていた。
いそいそとホールを通り抜けかけて、皆山はふと何かの気配を感じて、立ち止まった。
「……誰だい? 」
玄関ホールに置いた木製テーブルの向こうの気配に、振り向かずに聞く。
普段は決して表に出すことのない、鋭い口調。
「申し訳ないが、今日は製作日で、面会謝絶だよ」
「すみません、先生」
少し巻き舌の、煙草焼けした、どこか蓮っ葉な声がした。
ダークスーツにエナメルの靴。がっしりした体格。
それは、雪奈の配下についている、明和会の男だった。いつぞやアイコに情け容赦ない暴力をふるった、絵に書いたようなチンピラ・ヤクザ。
「ええと」
「宮田です」
チンピラ・ヤクザは、不意に真面目な口調になって、名乗った。
「明和会の若頭直属で、今は岸川企画の社員をやってます」
「思い出したよ。以前、小諸さんと一緒に来られたね」
皆山は、振り向かないまま、尋ねる。冷ややかな口調。
「岸川さんの使いかい? 」
「いや、残念ながら」
芝居がかった大きな身振りで両手を広げ、同じくらい芝居がかった口調に戻って、宮田が言う。
「今日は小諸の姐さんの使いで。こいつを持ってきたんですよ」
「ほう? 」
ばさ、と、宮田は皆山の方に、雑誌を放り投げた。
皆山の足許で雑誌のページがパラパラとめくれ、表紙が釣りあったセンターページで開いたまま止まる。
皆山が目を細める。
それはちょうど、アイコがモデルをやっている、ファッション・ホテルの特集ページだった。
「そいつに見覚えがあるでしょう? 」
「ああ」
宮田の問に、皆山が、一層固い声で答える。
「上泉さんとこの雑誌の子だろう。この前、取材に来たよ」
皆山は腰をかがめて床に落ちた雑誌を拾い上げ、ようやく宮田の方を振り返る。
「だが、それだけだ」
「嘘言っちゃいけませんや、先生」
宮田が、獲物を見つけた蛇のような表情で、言った。
「あんたが、こいつの乗り物の音、聞きわけられない訳ないでしょう」
「……なんのことだ」
「ああ、ああ、まだバックレるんですか? 」
宮田は、頭をかいたり、もみ手をしたりしながら落ち着きなく皆山の周囲を歩き回る。
「わかってるんですよお。あんたが銀の弾丸だってことは」
「知ってるよ。あんたたちが私のことを嗅ぎ回っていたのは」
皆山は、別に怯えた風もなく、固い声のまま答える。
「小諸さんからも聞かれたからね。だが、だからなんだというのかね? 」
「おや、開き直りですか」
「開き直りではない。私は確かにかつて、オートバイの改造を生業としていた。そして、その業界ではそれなりに知られる程度の腕だったが、ただ、それだけだ」
皆山は、そう言い捨てると、宮田に背を向け、厨房の方に向かって歩き出す。
「大丈夫なんですかねえ、そんなこと言ってしまってえ」
白々しいほど明るい口調で、宮田が皆山の背中に声を叩きつける。
「岸川のオヤジも、上泉のお嬢さんも、血眼で探してますぜ」
「……」
「おおかみおとこ、の、ことをねえ」
皆山は、歩みを止めずに、奥の厨房へとどんどん歩を進める。
皆山の、思わぬ反応の薄さに、宮田の方が慌てたようだった。
「小諸の姐さんや俺たちほど紳士的じゃないですぜ、岸川の狸は! 」
去っていく背中に、懸命に声をかける。
「あんたが、娘の自殺のことについてなんか知ってるとわかれば、どんな手を使ってでも聞き出そうとするはずだ。今のうちに小諸の姐さんに話をして、」
宮田は、柄にもなく真顔で話しかけながら、皆山の後を追おうとした。
皆山はもう、厨房に続く狭い扉を開けて、奥に行こうとしている。
宮田は、小走りに後を追い、皆山の、作務衣姿の肩に手を置こうとした。
その刹那。
どこかで、ごん、と、鈍い音がした。
「……あ? 」
宮田は、一瞬、何が起こったのか分からなかった。
分かったのは、視界が急に九〇度傾いて、頬が油臭い床板に叩きつけられたことだけだった。
続けて、頭が文字通り割れるような、激痛。体中に突き刺さる、鈍器の痛み。
宮田の視界は急激にぼやけ、ブラックアウトした。