Section.10 純情(3)
その場の勢いに流されるように「マインドトラベル」の編集部を出た一樹は、裏手の路上に停めていた愛車・ストーリアX4に戻り、運転席に座って溜息をついた。
雪奈にひっぱたかれた頬が、熱くなってくる。
聖自身ならともかく、雪奈にこんな目にあわされるいわれはないような気がして、一樹は今更のように腹をたてていた。
そもそも小諸雪奈という女に、一樹はずっと不信感をもっていたし、これまでも気持ちが通い合ったことは一度もなかったが、ここまで理不尽な扱いを受けたのもはじめてだった。
久が、なぜよりによって雪奈みたいな気まぐれのへたれ女とつきあっていたのか、一樹にはさっぱり分からない。岸川摩耶にしても、生きているのか死んでいるのか分からないような女だったが、雪奈のようなあからさまな小物ではなかった。蒼白い影のように神秘的なところがあった摩耶の方が、まだしも雪奈よりは久にふさわしかったような気がした。
「わっかんねえよ、久さん」
一樹は、ハンドルにもたれかかって、呟いた。
分からないと言えば、聖も分からない。
目の中に入れても痛くないくらいに猫可愛がりするかと思えば、自分の都合で利用しようとしたりもする。これまでの聖は、強引で傲慢でも、相手のことを考えてからでなければ振り回したりはしなかったし、一樹も根元のところでは聖を信頼してつきあってきた。
だが、今回は、違う。
聖は、雪奈にそそのかされたせいなのか、アイコのことを棚に上げているようにしか思えなかった。
「アイコのことを気に入って、それで振り回してたんじゃないのかよ」
口に出して言ってみて、それ自体は間違いない、と改めて思う。
それとは別に、久と狼男のことを知りたいという強い気持ちを持っていることも、一樹は知っている。聖に手を貸すことには抵抗があったが、聖の頑張りを誉めてやりたい気持ちもあった。
だが、そういう考えが浮かぶたびに、アイコの、不意に大人びた顔をすることもあるが、基本的には子供っぽい好奇心に満ちた白い顔が思い出されて、手放しに聖のやり方に賛同できない想いの方が強くなる。
天秤にかけているつもりは毛頭ないが、雪奈はそういう気持ちの動きに勘づいて、一樹を張り倒したのかもしれない。
「別にあんなガキに懸想してるわけでもないのに、バカバカしい」
そう、自分に告げるように言って、一樹はイグニッション・キーを回した。
キュルル、とセルモーターの音がして、エンジンが目を覚ます。
薄曇りなのにサングラスをかけなおし、サイドブレーキに手をかけた途端に、一樹の胸ポケットで携帯電話が鳴った。
ちょっと前の、ガールズ・ロック。
噂をすれば影、ではないが、アイコ用に設定した着信メロディ。
一樹は何故か一瞬ためらい、液晶に表示される名前を確認した。それから、ようやく着信ボタンを押す。
「……おう、どうした? 」
『一樹さん? 』
聞き慣れているはずのアイコの声が、まるで別人のように聞こえた。すっかりしょげかえっている、そんな感じの声だった。
一樹は、自分も結構落ち込んでいたらしいことに気付く。
『今、お仕事ですか? 』
「いや、今日はちょっとサボってる」
『あ、そうなんだ……じゃあ、』
ちょっと出られませんか?
アイコは、消え入りそうな声でそう言った。
一樹は、何故か額に汗がにじみ、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
サングラスを外して首をふり、無理に落ち着こうとする。
『一樹さん……? 』
返事までに一拍空白があったせいか、返事より先に、電話からアイコの声がした。
「……いいけど? 出られるよ」
『あ……』
今度は、そう言ってアイコが絶句する。一樹は、ごくりと唾を飲み込んだ。
『……じゃあ』
数秒の沈黙があって、アイコが、おずおずとした調子で、言った。
『すごく悪いんだけど、助けに来てくれませんか? 』
「助け、って……」
思わぬ言葉に、一樹は思わず半身を起こし、シートに座り直した。
「なんだ、コケたのか? 」
『えーと、うん、まあ……』
アイコは、妙に歯切れ悪く、弱々しい調子で答える。
『そんなもんかな……』
「ばっかやろ! 」
一樹は、いきなり大声をあげた。
電話の向こうで、アイコが驚いたように小さな悲鳴をあげていた。
「調子にのって走りまわるからだ! 今、どこだ? 病院か?」
『あ、いや、そこまでひどくはないんだけど』
意気込んだように尋ねる一樹を押し止めるように、少し素に戻った声で、アイコが答える。
『国道沿いの、四車線から二車線にかわってちょっと行ったところ。そこで立ち往生してる』
しかられた子供のような口調だった。
その、いつもより少し弱々しい調子が、一樹の心に突き刺さった。
「よし、待ってろ! 」
一樹は、必要以上に強い調子で、電話に怒鳴るようにして言った。
「これからすぐ行く! 」
そう言うが早いか、アイコの返事も待たずに携帯を切って助手席に放り出し、サイドブレーキのレバーをおろす。アクセルを踏み込み、二速発進で、一樹のストーリアは弾かれたように走り出した。
ウィンドウに落ちてきた、ぽつぽつと小さい雨粒を振り落として、一樹はアイコのいる場所へ、愛車を飛ばしていた。