Section.9 マスカレード(6)
結局、アイコは大島から代車の鍵を受けとって、SDRへのパーツの組み込みを了解した。雨が降っていたのと疲れが抜けないのと両方が原因で、アイコは大島の「これから分解にかかろう」という誘いを断った。大島も無理に今日やらなくてもいいか、という気分になったらしく、それ以上は特に何も言わず、アイコとしばらく雑談して帰っていった。
アイコは、朝コンビニで買ってきたチョコレート・バーを、冷蔵庫にまだ一つ残っていた三角パックの牛乳で流し込んで、布団に戻った。
だが、今度は疲れているのに目が冴えて眠れない。
空気もなんだか重くて寝苦しく、アイコは布団の中で何度も何度も寝返りをうった。
うつらうつらしているうちに夜更けになって、嫌な雨はあがった。
アスファルトや家々の屋根を叩いた雨粒も、早朝には薄い霧になって大気に溶けて戻っていく。
ギラギラの品のない朝日が昇ってきて、蒸し暑くなりそうな予感のする朝。
アイコは、その前に起きだして、ジーンズとTシャツに着替え、いつもの黒いレザーのライダーズ・ジャケットを着込む。
久しぶりに自由になったアイコは、大島に借りておいた鍵で、ケルンから少し離れたガレージを開けた。
昨日、大島は一人でバラす準備をしていたらしく、SDRは作業台に載せられ、いつでも作業にかかれる状況だった。
逆に言えば、どう考えてもこれからすぐ乗れる状態ではなかった。
アイコは溜め息をついて、心の中で愛車に詫びを入れると、作業台を避けてその後ろの格納スペースに向かった。
大型も含めて二十台以上のバイクが停められているハンガーの前に、一台、乗れる状態で待っている。
「シルバーバレットみたいな地味なチューニングばっかりじゃつまらん。たまにはこれくらいハジケたのも良かろう」
村の長老みたいな口調でそう言って、大島はその中の一台の鍵を渡してくれた。そうなれば、借り物でも、目新しいものは自分で確かめてみないと気が済まない。
雨が上がったし、眠れそうにもないので、アイコはそれを早速引っ張り出してみることにした。
「でかい、重い!」
はじめてハンドルに手をかけてみたそいつの感想といえば、それに尽きた。
ライムグリーンの鋭角なカウリング、流れるようなタンクからテールへのラインに対して、武骨なぐらい大きい、黒にペイントされた空冷エンジン。フレームは鉄パイプ。ハーフカウルの古いスポーツバイク・カワサキGPz400F。
SDRのほかには教習車の水冷ネイキッドくらいしか知らないアイコにとって、GPz400Fは、リッターバイクのように巨大だった。その割にタイヤが細くて、聖のGSX−Rを思い出すと、なんだか頼りない。セパレートハンドルにバックステップ、集合管になったマフラーは後付けで、みるからにノーマルではない。ラジエターのように巨大なオイルクーラー。
変に重心が高くて、サイドスタンドをはずした途端にアイコは下敷きになりそうになる。
大島によると、「自分の青春の思い出」を再現したらしいが、アイコからすれば縄文人の青春と同じくらいよくわからない話だった。
アイコは、ほんの少しの勾配に力負けしそうになりながら、ようやくガレージからGPzを引っ張り出した。
雨の乾いていく匂い。
風は生ぬるく湿っているが、降り出しそうではない。
アイコは用心しながらGPzにまたがり、クラッチ・レバーを握った。足着きが悪くて、つま先立ちになる。左足でバイクを支えるようにしながら、イグニッション・キーを回す。
さすが大島が整備しているだけあって、呆気なく、エンジンが回り始める。ほんの少し、ばらけたアイドリング。シンプソン・バンディットを被り、グラブをはめる。
アイコは、バイザーを上げて、ハーフカウルの内側に貼り付けられた時計に目をやる。
大島から、きっちり二分、エンジンを暖機してから走り出すように言われていた。それから、あまり急にブン回さないで、馴染んでくるまではゆったり走れ、とも。
「うーん、マスター、昔話のおじいさんみたいだ」
注意事項を並べて鍵を渡してくれた大島のことを思い出してくす、と小さく笑い、アイコはヘルメットのバイザーを下ろした。
ガレージから、一段高い土手の上を通る公道に出るには、上り坂を少し上らなければならない。
「きっちり二分。行きますかあ! 」
アイコは気合いを入れなおして、左足でシフトペダルを踏み下ろした。ガツンと、SDRとは全然違う、ちょっと乱暴なリアクションがあって、アイコは少し顔をしかめる。クラッチも重いし、エンジンの音や動きも、なんだかガサツな感じがした。
「ええい、男カワサキ、ってかあ? 」
アイコは、ヘルメットの中で喚いた。なんだか、バイクになめられているような、変な気分だった。
「なめんな! あたしは女だぜ! 」
言いながら、アクセルを開け、クラッチをつなぐ。
思っていたのよりほんのわずかにタイムラグがあって、バイクがぐらつく。アイコは少し驚いて態勢を立て直そうとしたところで、バイクのリアクションが追いついてきた。ぐらついたように思った車体にトラクションが急激にかかり、急激に走行姿勢になって、車体が前に突き出される。アイコが慌ててアクセルを戻すと、車体はまた不安定になって、フロントフォークが沈むほどつんのめる。
坂道を、舟を漕ぐようにしばらくギクシャク走って公道に出ると、アイコはようやくGPzを路肩に停車させた。ニュートラルにいれ、歩道の縁石に左足を乗せて車体を安定させる。
冷や汗が噴き出し、体が硬くなっているのを感じた。
アイコは深呼吸し、肩や首をぐるぐる回して、リラックスしようとする。
「……か、可愛くない! 」
思わずタンクを殴りつけて、アイコは舌打ちした。
じゃじゃ馬と言われつつ、実は従順なSDRとは似ても似つかない。キレはあまり感じないが、といって鈍い訳ではない。ライト級とミドル級の差が、はっきりわかる。
乗りこなせるもんなら乗りこなしてみな、と言わんばかりの存在感。
「乗り物のくせに、生意気じゃん! 」
アイコは、少しムキになって、ハンドルを握りなおした。
しばらく街中を流しているうちに、アイコはなんとなくGPzとの折り合いのつけ方が分かってきた気がした。
乗り手が思った通りに振り回そうとすると、頑として言うことを聞いてくれない代わり、行きたい向きややりたいことを伝えてやれば、性能の限界の範囲内でちゃんと応えてもくれる。今日初めて乗ったアイコが、愛車SDR同様に体の一部のように操るというわけにはいかなかったが、それでも対話するつもりさえあればそれなりに走ることはできそうだった。
しばらくして、アイコはちょっと悪戯心を起こした。
あの峠を、このバイクで見に行こう、と、アイコは思った。
先生のSDRではなく、このバイクで。
深い意味はなかった。それでも、何かの予感はあったのかも知れない。
SDRに乗ったアイコや、GSX−Rに乗った聖には見えない何かが見えるのではないか、という。
そして、アイコはケルンから少し遠出し、久と摩耶の死んだ県境の峠を目指した。
その道を通るのは、二度目だった。
最初は、聖のトランスポーターの助手席で訪れた。はじめてこの街に来たときのことだった。
アイコは、ひどく鮮明に、道筋を覚えていた。
GPzは、アイコが道筋を思いだすのを助けるように、街中では滑らかに、低い回転数を維持して走っていた。早朝のためもあって、制限速度前後で流していれば信号にも引っかからない。
やがて道は旧道と真新しいバイパスの分岐に指しかかる。
朝日が、山の端から顔を出し始め、道はもう乾き始めている。
アイコは、潰れたドライブ・インの見えてくるあたりで、一度、路側帯にバイクを停めた。
エンジンを切ってサイドスタンドを出し、シートから降りる。
ヘルメットを外して深呼吸をすると、森と雨の匂いが鼻腔をくすぐった。
しばらく、アイコは目を閉じて、息を潜めた。
GPzのシートに体を預けるようにしてもたれ、昇り始めの太陽の熱を感じる。
結構暑い。アイコは、ジッパーを下ろして、ライダーズ・ジャケットの前をはだけた。
(ここで、久さんは狼男を待っていた)
アイコは、心の中で呟く。
(どんな気持ちで? )
アイコは、隣に久のGSX−Rが停まっているところを想像しようとしたが、所詮見たことも会ったこともない相手のことは想像できない。
代わりに浮かんできたのは、向かいのドライブインに停まっている、一樹と予土の姿。
多分、自分たちが思っているよりもずっと、心配そうな、不安そうな表情の。何故か、若い頃の姿ではなく、アイコが知っている今の姿。
久が死んだとき、ドライブ・インにいた他の人間たちは、同じような顔をしていたのだろうか。
その顔の中に、自分が混ざっていたような錯覚を覚えた。
反対に、アイコのいる場所に停まって狼男を待ち受けているのは、久ではなく聖。
聖が、黒革のセパレートのレーシング・ウェアで、聖のGSX−Rにまたがっている姿。時折見せる、切り裂くような眼で、峠を背に街の方を見ている。
(嫌だ、変なの)
アイコは眼を開けて、頭の中から幻想を追い払った。
朝日の色は、黄色から白にかわりつつあった。
路側帯でバイクを停めているのはアイコだけだし、潰れたドライブ・インの駐車場には当然一樹や予土もいない。
アイコは頭をぶんぶんと振って、ミラーにひっかけていたヘルメットに手を伸ばした。それを被ろうとして、ふと、手が停まる。
遠くから、聞き慣れないエンジン音が近よってくるのが聞こえた。
ドロドロドロ、というような、ちょっと変わった音。
直列四気筒や単気筒のエンジンではない。車ではなくバイクのようだったが、ドゥカティやBMWとも違う。アイコの聞いたことのないエンジン音。
アイコは、音のするほうを振り向いた。
朝日の中、少し雨の残りが蒸気になって舞い上がる中を、一台のバイクが疾走してきた。
トリコロール・カラーのフルカウルに二つ目のヘッドライト。
VFR七五〇R。RC三〇と呼ばれる、レーサー・ベースのホモロゲーション・モデル。
縦置V型四気筒の、独特の排気音だった。
滑るように近よってきたVFRには、ジャック・ウルフスキンのオレンジ色のマウンテン・パーカーを羽織り、アイコと同じ型のガン・メタルのシンプソン・バンディットのヘルメットという出立ちのライダー。
……狼男。
アイコは、ぽかんと口を開けて、VFRを眼で追った。
フィギュアスケートのスローモーションを見ているような気分だった。呪縛されたように、体が動かなかった。
VFRのライダーの姿形だけが、アイコの視界に入っていた。
……ずっと、探していた姿だった。
「……せ……」
アイコは、ようやく、口を動かすことができた。
「せんせー! 」
力いっぱい、大きな声で。全力で、アイコは叫んだ。
一瞬、VFRのライダーがこちらに視線を走らせたような気がして、アイコは身を乗り出した。
……が、それだけだった。何の関心もひかなかったかのように、一瞬で狼男は視線を戻し、アクセルを開けていた。
V型四気筒エンジンの爆音が、アイコの叫びをかき消していた。
ほんの一瞬で、VFRと狼男の姿は、アイコの視界から消えていった。
アイコは、腰が抜けたように地面にすべりおち、膝の上に抱えたヘルメットにすがりつくように体を折った。
すぐに後を追いかけたかったが、衝撃で身動きがとれなかった。
間違いなく、あの狼男は、アイコの探している「先生」……新田史郎だった。
そして、力いっぱい呼びかけたのに、停まってくれなかった。それどころか、気付いてさえ、くれなかった。
「なんでだよ、先生……」
しばらくして呆然としていた気持ちが落ち着いてくると、アイコは、そんなつもりはないのに、また、ぽろぽろと涙をこぼしている自分に気がついた。
なんだか不思議な感じだったが、自分は大声で泣いているらしかった。
しゃくりあげながら、ひとごとのように、アイコは思っていた。
この街に来て、自分はひどく泣き虫になったような気がする……。