Section.9 マスカレード(4)
ニーヴェの入り口から少し離れたところに愛車ストーリアX4をで停め、黒塗りの高級セダンから降りてくる岸川を、一樹はバックミラー越しに見ていた。
店の入り口で待ちかまえていた雪奈が、それを満面の笑顔で出迎え、しなだりかかるように腕を組む。
雪奈をここまで送ってきた一樹は、雨の中、雪奈が二〇分以上店の外で岸川を待っていたのを知っている。
「良かったんですか、聖さん」
二人の姿が店の中に消えて行くのを見守っていた一樹は、不服そうに言った。
雨粒が、ウィンドウやミラーに小さい粒を叩きつけてくる。
「仕方ないだろ」
助手席の聖は、くわえた煙草を唇でもてあそぶように上下させながら呟く。
「実際、金は振り込まれてたし」
「岸川に都合してもらったなんて聞いたら、リョータたち怒りますよ」
「まあ、岸川から雑誌買い取ったときの借金を、この前まで返してたわけだからねえ」
ふーっ、と煙を吐いて、聖は天井を見上げた。今日はスーツでもライダーズ・ジャケットでもない、ジーンズにGジャンというラフな格好。上背もあるので、モデル並のスタイルが際立つようだった。ごついブーツの足をダッシュボードの上に乗せ、つまらなそうに言う。
「出して」
「はいよ」
一樹はキーを回してエンジンを始動し、ゆっくりと走り出させる。
あまりに特徴的なエンジン音なので、回しすぎないように気を遣いながら。
「まあ、今回はこっちが借りたいって言ったんじゃなく、岸川企画が出したいって言ってきた形なんだから、いいんじゃない?」
「またまた……岸川が恩を着せてくるのは目に見えてるじゃないですか」
「でも、『マインドトラベル』に直接干渉するようなことはしない、って話だから」
「……聖さん」
一樹は、横目で聖の様子をうかがった。薄暗いせいか、表情はよく分からない。
「そうなるように、雪奈から岸川に言わせたんでしょ? 」
珍しく少し、責めるような口調になったかも知れない。
「言わせたんじゃない」
聖は、その問いに、強い口調で答える。
「雪奈が自分で言いだしたことだよ」
「あの、格好つけのヘタレ女がねえ……」
突き当たった道を左折しながら、一樹はアクセルを踏み込んだ。
途端に、爆発的に響くエンジン音、シートに体が押し付けられる、加速の感覚。
路面から水飛沫をあげて、黄色いストーリアが蹴飛ばされたように加速する。
聖は、全然楽しそうではなかった。
「でも、思い切ったことしましたよね」
「……」
「アイコなんか今朝、ガンガン携帯が鳴って、涙目でしたよ」
「それは見たかった! 」
聖は、腕を頭の後ろで組んで、リクライニングしないシートに背中を押し付けた。
「きっと全力でバタバタしていたに違いない! 」
「どこまでSなんですか」
「愛だよ、愛」
聖は携帯灰皿で煙草を揉み消すと、そのままずるずるとシートからずり落ちる。
「疲れた」
聖らしくない言葉を吐いて、目を閉じる。
「でしょうね。あの後、ほとんど徹夜続きでしょ」
一樹は、少しトゲのある口調で言った。
「制作スタッフにも営業スタッフにも秘密で、勝手に校了後に印刷屋に無理言って増刷して。出荷数ほぼ五割り増しでしょ。それから流通に乗り込んで了解取り付けて、って、どんだけの仕事量ですか」
「流通の方は、半分は雪奈にやらせた」
目を閉じたまま、聖が答える。
「地元のやくざって、最近不動産だけじゃなく流通にも顔がきくんだね。それも合法的なシノギなんだって。事務処理は、美春が店の経理の子、貸してくれたし。コンビニの方は、マスターが口きいてくれた」
「悪い仲間総動員ですね」
「誰かさんが手伝ってくれないから」
聖は、眠そうな声になった。ふああ、と、力のない欠伸。
一樹はばつが悪そうに頭をかいて、黙り込む。
一樹が聖から、急に『マインドトラベル』を大増刷して、地域内で平積みになるようにゴリ押しの営業をやる、という話を聞いたのは、校了日の翌朝のことだった。多分、今の『マインドトラベル』のスタッフに相談しないで独断専行しているんだろうな、と一樹は思った。どうしても、このエリア四県か五県の中心部で目だつように置きたい、という聖に、一樹は、理由を尋ねた。聖は、この号が絶対売れるという直感だとかなんとか説明したが、一樹には分かりきっていた。
つまるところ、表紙のアイコの横顔のアップをばらまくのが目的なのだった。
聖は、アイコの横顔の表紙のラフを見たときに、尋ね人の貼紙のかわりにこれをばらまこうと思いついたに違いなかった。『狼男』が、きっとアイコを探しに来ると思っているのだろう。
それはしかし、スタッフと作り上げてきた雑誌を自分の都合だけで振り回すことだったから、リョータやミサキたちと話して一度諦めたはずだった。
一樹は、そこまでの話を聖から直接聞いていたから、土壇場でまた態度を変えたことに疑問を持った。それで、普通なら、聖の頼みを断ることなど考えられない一樹だったが、仕事がキャンセルできないことを理由に、聖を手伝わなかったのである。
……もちろん、聖がかなり露骨にアイコを利用しようとしていることへの、抵抗感もあった。
「分かってるんだよ、一樹」
聖は、寝言のようにささやく。
「こんなの、あたしらしくない……きっと、バチがあたると思う」
「……」
「でも、今しか、ないような気がするんだ。狼男を捕まえられるチャンスが」
言いながら、呼吸が寝息に変わり始める。
一樹はまた、横目で聖の顔をちらりとうかがった。
いつもは、一分の隙もなくナチュラル・メイクで固めている、まだ大学生のように若々しく見える聖の肌に、疲労のせいか、年齢相応の疲れが見えたような気がした。
出会ってから、ほとんど十年。先輩だったせいもあって、いつまでも聖は変わらないような錯覚を覚えていたのだが、普通に時間は流れていくらしい。その間、聖には浮いた噂一つ流れなかったし、一樹も誰かと聖が付き合っていたとか、そういう話は聞いたことが無かった。一樹と聖が付き合っている、などという見当違いな噂が流れたことはあったが。
してみると、「ずっと久と狼男のことを考えていた」という、酔ったときに出た聖の言葉は、嘘ではなかったのかも知れない。自分たち、日に日に久のことを忘れて行く人間の中で、聖だけは一〇年前から変わらずに、日常生活に潜みながら機会を待っていたのだろう。
だとしたら、手塩にかけて育てた『マインドトラベル』さえ、そのために利用しようとするのも仕方がないのかもしれない。
……一番悲しい思いをしているのは、聖なのだろうけれど。
「マクドナルドでいいですか? 」
一樹は、不意に優しい声で言った。
「聖さん、今日はまだ何も食べてないでしょ」
「……せめてチェーン店じゃないところにして」
一拍あってから、寝言のような声で、返事があった。
「学園都市の端っこの、トゥームストーンってカフェのベーコンエッグバーガー。トマト入り。アップルシードルとセットで」
「……マクドナルドのバーガーも結構美味いのに」
「……一樹のおごりなら、ビッグマックでもいい」
はいはい、と答えかけて、一樹は思わず息を呑んだ。
目を閉じて半分眠っているような聖の目尻に、涙の粒が浮いていた。欠伸をしたせい、かも知れなかったが。
一樹は、何故か心臓が高鳴るのを感じた。
Gジャンからのぞく、聖の首元の白さに目がいった。
あわてて首を振って、ハンドルを握りなおす。
「おごりますよ、聖さん」
一樹は、ストーリアのシフトを一速落とし、アクセルを踏み込んだ。
「頑張ったご褒美です! 」
本当に消え入りそうな声で、聖が言った「ありがとう」という言葉は、直列四気筒高回転エンジンの、甲高い排気音にかき消された。




