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Section.3 ヴィーナス。

 上泉久は小さな頃からガキ大将で、中学の時はいっぱしの不良気取りだったが、成績はよかったので、地元では進学校で通っている公立高校に合格して、そのまま地元の国立大学に進学し、学生時代はかつての不良少年の面影を微塵も感じさせない好青年として知られていた。双子の妹の上泉聖が、大学に入っても地元のチンピラ連中との付き合いをやめず、悪名が高かったのとは好対照だった。

 聖はいまだに、久の友人で、久を悪く言う奴にお目にかかったことがない。

 大島も一樹も、みんな久の味方だった。

 双子の兄妹といいながら、聖は一樹のことをよく知らない……少なくとも彼らほどは……ように思う。

 プロテスタント系の教会の牧師だった父が、世間とは反対に、久を悪魔のような息子、と呼んでいたせいもあるだろう。それは、親子の断絶、などというものではなく、本当に憎んでいるとしか思えないほどのものだった。

 だから、久が死んだ、と知った時、父は心底ほっとしたような顔をしていた。

 聖は、その顔を一生忘れないと思う。

 聖には優しかった父が、何故あれほど久に厳しかったのか。父は自分が病気になってからも、その理由を話そうとしないし、聖も聞こうとは思わない。

 久と聖は、双子の割に、小さい頃からあまり仲良くはなかった。

 聖の知っている久は、正義感が強くて真っ直ぐすぎて、聖にはついて行けないところのある兄だった。体も大きくて頭も良く、二枚目。不良をやっていた中学の時でさえ、聖は、歪んだブラザー・コンプレックスに、小さい頃から悩まされていたように思う。弱さとか狡さとか、自分の嫌いな面を、久のそばにいると嫌というほど自覚しなければならなかったからなのかも知れない。

 だから、東京の大学に行って、東京で就職し、兄や父と連絡もほとんど取らずに長い間過ごしてきた。

 久しぶりに父からかかってきた電話が、久が事故で死んだ、という知らせだった。聖も、何故か救われたような気持ちになり、その気持ちを抱いた自分を許せない、と思った。

 帰郷してみると、そこで待っていたのは、久を慕う大勢の友人たちと、ただ一人所在なげに過ごしている痩せ衰えて縮んだ父だった。

 聖は東京の出版社をやめて帰郷することにした。

 それが、二十四歳の時のことだったと思う。

 父だけでなく、久を慕う者たち全員に、必要以上に歓迎されたと思う。帰郷した矢先、久を可愛がっていた大島という資産家が仕事を紹介してくれた。大島は趣味で喫茶店とバイクショップを経営しているが、マンションをいくつか持っている先々代からの大地主で、一年たって独立してタウン誌を出版する時にも、かなりの資金を用立ててもらった。もともとの悪友たちとは意識して距離を置いていたが、久の友人たちがそれに代わって親身に力を貸してくれた。

 まるで、いなくなった久の代わりに、聖に負債を返すかのように。

 聖ははじめ、それをとてつもない重圧に感じていたし、自分は久ではないし、久のようになれなくて東京に逃げ出したというコンプレックスを蒸し返されるような思いも感じていたが、故郷の街で、大島や一樹たちと慌ただしく何年か過ごすうちに、いつしか、途中で斃れた久の役割を果たすのが自分の責任のように思い始めていた。流石双子だけあって、聖は周囲が久に期待していた役割を、久とは違った形で、いくらかは果たすようになっていた。いうならば、楽しい場の、中心のような存在として。

 そして三年ほど経って、聖はいつしか自分が双子だったことを忘れ、最初からそこに自分がいたかのようにさえ思えるようになっていた。病気の父はほどほどの具合悪さを維持して病院と教会を行ったり来たりしているが、さほど重荷ではない。仕事の合間に時々相手をしてやると、子供のように喜ぶ。大島や一樹たち、久の古い仲間たちは、今や聖の親衛隊のような存在だったし、雑誌を作り始めてからは、ソムリエの小諸のような新しい知人も増える一方だった。タチの悪かった昔の友人たちのうち、真面目に暮らしはじめた連中もぽつり、ぽつりと寄ってきて、聖ははじめて故郷の街を好きだと思えるようになっていた。

 そう、あの日。

 大島が毎朝湧かす馬鹿甘いコーヒーの、秘密を聞くまでは。

 その秘密を知ってから、聖の内心はずっと凍り付いたままだ。

 しかし、聖はそれを完全に押し隠し、これまでどおりに振る舞っていたから、その凍てつきに気付いている仲間は少ない。

 大島や一樹のようなごく親しい友人を除いては。

 その店……「ロゼッタ・ストーン」のオーナーである神崎美春は、その「ごく親しい友人」の一人で、珍しく聖のもともとの友人である。

 聖も大柄だが、美春はハイヒールを履くと一八〇センチを越える長身で、亜麻色に染めた長髪を軽くウェーヴさせている。化粧は濃いめで、服装は原色系のヒラヒラしたものを好む。かなり鍛えていてスーツの似合う、ナチュラル・メイクの聖とは何から何まで対照的な女だった。

 しかし、そこはやはり聖の友人だけあって、どこかに嗜好の共通性があるらしい。

 アイコは、一樹と別れて店の中に入るなり、その嗜好の餌食になっていた。

 美春はアイコを一目見るなり、まるでペットショップで見つけた柴犬に飛びつくみたいに襲いかかり、背中からアイコの首に抱きついて、ぎゅうぎゅうと抱きしめはじめた。

「やーん、なにこの可愛い生物」

「ぎゃああ、離して! ひじりさああん、たすけてー」

 恥ずかしいのと驚いたのと首が絞まるのとで真っ赤になりながら、アイコが細い手足でジタバタともがくのを、聖は笑いながら人ごとのように眺めている。

「ごめんねえ、アイコ。美春は可愛いものに目がないのよ」

「可愛くねえ! あたし、全然可愛くねえから! 」 

「あーら、謙遜して。可愛いわよ、あなた」

 くすくす笑いながら、美春は豊満な胸をアイコの背中に押しつけ、耳元で囁く。アイコは、半べそをかきながら、悲鳴をあげる。むせかえるような香水と化粧品の香り。

「わあん、耳元に息吹きかけないで! 」

「わはは、むだな抵抗はおよしなさい」

「ふえええ」

 放っておくといつまでもじゃれついていそうな勢いの美春を、ぽん、ぽん、と、手を叩いて聖が制止する。

「はいはい、みーちゃん」

 美春は、きょと、と聖の方を見る。聖は肩をすくめ、天井を見上げる。

「アイコに惚れたのは分かったけど。時間ないんだから、取材させてくんね? 」

「えー、そうなの? 」

 舌なめずりしながら、美春が残念そうにいう。

「おあずけは辛いわねえ」

「えう」

 急に解放されて、アイコは黒いリノリウムの床にへたり込んだ。けふけふ、と小さく咳き込む。目尻には、涙。

「ほんと泣き虫ね、あんた」

 面白がっているように、聖が腰に手を当てて言う。いつものようにビシっと決めたデザイナーズ・ブランドのスーツ。肩幅も結構あって、ハリウッド映画に出てくるキャリア・ウーマンのよう。黒髪が長いのを除けば。

「泣き虫とかそういうのと違うと思う」

 床にへたり込んだまま、アイコは恨めしそうに聖と美春を見上げる。

 しなやかな鞭のように鍛えられている印象の聖と、決して太ってはいないが少しぽっちゃりしている分存在感のある美春を前にすると、アイコは自分がまるでちっぽけな存在に思える。貧相で痩せっぽちの野良猫の自分。鍛えられたシェパードみたいな聖、ふかふかのアフガンハウンドみたいな美春。

「嫌なオバサンたちだ」

 アイコは、二人に向かってべえ、と舌を出した。

「可愛いから一回は許すけど」

 少し頬をひきつらせながら、聖が言う。その後に続いて、にこにこと笑顔で美春。

「次それいったら椅子に縛り付けて、泣くまでくすぐるわよ」

 きゃあ、と縮みあがったアイコを引きずりあげるようにして、聖が立ち上がらせた。本当に猫の子を持ち上げるみたいに。

 立ち上がって服の乱れを整え、アイコは、ようやく落ち着いて店の中を見渡すことができた。

 黒い、大理石のようなリノリウムの床は磨き上げられてピカピカ。大きなカウンターも、十台ほどのテーブルも、イミテーションの石材。カウンターの向こう側は、床から天井まで、鏡張り。よく見ると目地があるので、棚になっていることが分かる。

 日差しの入る窓は一つもなく、照明は炎の色に似た間接照明。薄暗いようで、結構明るい。

 アイコが、これまで見たことがない種類の店らしかった。

 アイコは、不思議そうに周囲を見回し、少し、呆然とする。

「ほーら、アイコ。ぼさっと突っ立ってないで、手伝って」

 見とれているアイコの背中に、さっさと作業に戻っていた聖の声が飛ぶ。

「レフ板、持って! 次の取材のアポ、三十分後なのよ」

「わ、はいはい」

 アイコは、訳も分からないまま聖に駆け寄る。聖は床に置いたジュラルミンのカメラバッグの前にしゃがみ込み、デジタルの一眼レフ・カメラのレンズを交換していた。無言で床に立てかけた白い板を指さすので、アイコはその九十センチ角くらいの板をひょい、と抱え上げる。

 美春は一度カウンターの中に入り、隅っこでメイクのチェックを始めていた。

「みーちゃん、テキストの方はどうしよう? チェックする? 」

 顔も向けずに、気安い感じで尋ねる聖。

「店名と営業時間が間違ってなければ、あとはひーちゃんにお任せでいいわよ」

 口紅をひきなおしながら、美春が答える。

「広告料はずんでるんだから、名文頼むわよ」

「任せなさい! 効果的な記事にしてあげるから」

 聖は、にやり、と笑い、カメラを三脚に据え直す。美春はカウンターから出て、壁際のテーブルに座り、モデルのようにポーズをとる。

「アイコ、みーちゃんの右側に回って、下側からレフ板構えて」

 ファインダーを覗きながら、聖がアイコに指示を出す。

 あわててテーブルの脇にレフ板をおろし、カメラの方に板を向ける。

「違う違う、照明拾っていい感じに仕上げたいんだ。下側から、照明拾ってみーちゃんの顔が少し明るく見えるように……」

「あたしの顔はいつでも明るいわよ? 」

「気分の話しじゃない! ベタなボケかますんじゃない! 」

 聖はアイコと美春に、ああでもない、こうでもないとこまごました指示を弾丸のように投げつけてくる。美春はゆうゆうと、アイコはジタバタと、忙しく動き回る。美春は途中で衣装とメイクを二度変えた。

 結局、たっぷり二時間かけて必要なカットを撮り終えた頃には、アイコはくたびれ果てていた。ガス欠寸前、というより、もう立っているのさえ精一杯。

 中学校の時のマラソン大会で、意地を張って男子と張り合ってぶっ倒れた時と同じで、世界が歪んで、回りの音が一拍遅れて聞こえる感じ。

 よく考えれば、昼ご飯も食べずに列車に乗って、駅につくなり一樹に運ばれて、訳も分からないまま動き回っているのだから、当たり前なのだが。

 アイコは、意地っ張りであることだけは人並み外れていたから、それでも平気な顔で、聖の指示に対処しようとしていた。時々ぼーっとして聖に鋭い声を出させたりはしたが。聖がそれとなく自分の様子を伺っているのに気付いていたから、余計に意地の張り甲斐もあった。適当なところで保護されるのはたまらない。

 アイコにとっては、聖との勝負みたいなものだった。力の差があって、本当は勝負にもならないのだが、それでも。

「はーい、オッケー」

 最後の一カットを撮り終えた聖の声が、妙に遠くに聞こえるな、と思った。

 とたんに世界がぐるぐると回る。黒い床、黒い壁、鏡のドア。アイコは耐えきれずに尻もちをつき、レフ板を取り落とした。

「ふええ、目え回った……」

「あらら、大丈夫? 」

 美春が、少し慌てたようにアイコに歩み寄り、青白い顔をのぞき込む。

 大丈夫、と答える代わりに、アイコのお腹が、ぐう、と音を立てた。

「あれ、お腹空いてるの? 」

 アイコは、返事もせずに、そのままがくりと頭を垂れる。息も絶え絶えに、美春にすがりつくと、がぶ、と首筋に歯を立てる。

「ぎゃああ! 」

 いきなり噛みつかれた美春は、実際の痛みより驚きのために大声を上げた。

「いきなり、何するの! 」

「あんた……」

 アイコは、必死で美春の腕から逃れようとして、弱々しく藻掻きながら、精一杯の声で叫んだ。

「あんた、男じゃん! 」

「ええっ? 」

 思わずアイコを床に放り出して、美春はぽかんと口を開けた。


 がじがじがじがじ。

 アイコは、助手席でジーンズの膝を抱え、ひどい仏頂面やたらと固い「大阪名物粟おこし」を囓っていた。

 半分ほど囓ったら、唾液がなくなって口の中がもそもそしたので、ドリンクホルダーに残っているペットボトルのジャワ・ティを一気に飲み干す。

 それから、また、がじがじと残りの粟おこしに歯を立てた。

 ロゼッタ・ストーンを出て、聖からとりあえずの食糧としてあてがわれたのが、粟おこしの小さい包み二つと飲み残しのジャワ・ティ、あとは眠気覚ましの苦いガム。

「なにむくれてんの。血糖値あがったから、少しは気分よくなったでしょ」

 車を運転しながら、聖が唇を尖らせる。

 アイコの言葉にショックを受けた美春に、さほど悪びれもせずに詫び、アイコの頭を押さえつけるように下げさせると、聖はそそくさとロゼッタ・ストーンから撤収した。時間は夜の十時を回っていた。

 聖は、次の現場で今日はおしまい、とアイコに告げ、いつものワンボックス・カーに荷物とアイコを詰め込んだ。で、粟おこしを口に突っ込まれた。

「ある種の性的暴行だと思う」

「余計な言葉を知ってるわね」

「口の中が切れたじゃん」

「ちょっと塩味ついていいじゃん。あと鉄分補給」

「ひどい」

 アイコは、ぷい、と横を向いた。

 聖は、くわえ煙草のまま、肩をすくめる。

「聖さん、なんで美春さんのこと、ちゃんと説明してくれなかったの? 」

「はあ? 」

「知ってたら、あんなこと言わなかったのに……」

「なんだ、そんなこと気にしてるの? 」

 聖は、ふう、と溜め息混じりに煙を吐く。ちょっと苦笑い。

「大丈夫よ。あれくらいでめげたり嫌いになったりするようなタマじゃないから、みーちゃんは」

「そういう問題じゃない……あたしが人にダメージ与えたくないだけ」

「ガキなんだから」

「どうせガキです」

 ぶー、とアイコは頬を膨らませた。リスの食事中、みたいな顔。実際、口の中には粟おこしも残っているようだったが。

 聖は涼しい顔で、言う。

「でも、おかげでいい記事、書けそうだよ」

「いい記事? 」

「なんたって、この街たった一軒のおかまバー! 放っといてもいい記事になるところを、編集長である私が記事にする! いい記事にならない訳がない! 」

「どこまで自分好きなんですか」

 呆れたように言い、アイコは残りのジャワティで粟おこしを流し込んだ。

 ひょっとしたら、この人に身柄を預けるという判断自体が、大きな間違いなのかも知れなかった……。

 

 その次の取材は、ファッション・ホテルだった。

 アイコが普通のホテルとの区別を知らないと見るや、聖は普通の取材をする予定を急遽切り替えて、アイコにモデルもやらせることにした。

 もちろん、単なる着衣モデルだが。しかも、衣装も用意していなかったので、とりあえずジーンズにジャック・ウルフスキンのベストのままで。アイコは、モデルなんて絶対嫌だ、とかなんとか、抵抗を試みるものの、聖の口車には結局対抗できない。顔のアップはなし、という条件で、結局引き受けさせられる。

 もちろん、ノーメイクのままで。

「いくらなんでも、色気、なさ過ぎじゃないですか? 」

 取材に対応していた初老の管理人が、不審そうに尋ねるのに、聖は自信ありげに笑って、むしろ色気内くらいの方がイメージ通り、と、口から出まかせを言って、スナップで写真を撮り始める。

 アイコは、今時の十六歳にしては、驚くほど何も知らなかった。聖は、アイコにも適当に口から出まかせを言いながら、ホテルの設備の紹介カットを撮影していく。

「最近のラブホって、リゾートホテルみたいな設備だよねー。回るベッドとか鏡張りとか、いかにもラブホ、みたいな悪趣味装備がないのは寂しいなあ」

「上泉さん、いつの時代の話しですか……」

 こざっぱりしたベスト姿の管理人は、肩をすくめる。大きめの液晶テレビに、ゲーム、衛星放送、カラオケのついた寝室スペースには、巨大な、リクライニング付きのダブルベッド。浴室と洗面、トイレは独立していて、清潔感のあふれる造作。

「うわ、私、ここに住んでもいいかも」

 アイコは、ばったりとベッドに倒れ込む。

「ぐあー。眠い……」

「こら、寝るな! 仕事が終わってない! 」

 聖はアイコを叩き起こして、適当に指示を出しながら撮影を開始する。

 バスルームでは、ローションの袋を不思議そうに眺めるカット、大きめのバスタブに服のまま入って、ぎこちなく笑っているカット。

 寝室では、ベッドの上で飛び跳ねているカット。スイッチの入っていないマイクを構えて、歌っているようなカット。

 どことなく仏頂面だが、とりあえず言われたとおりにポーズをとって、カメラに収まっていく。

「ほう、なかなかいいですな」

「でしょ。イメージ的に、あんまりキレイな娘より、アイコくらいの野暮ったい子の方が際だつんですよ」

「じゃ、その線で行きましょう」

 管理人と聖は、顔を見合わせて、悪そうな笑顔を浮かべていた。

 その頃、すでにアイコは、ベッドにつっぷしたまま、寝息を立て始めていた。


 目が覚めると、アイコはいつぞや見覚えのある、畳敷きの部屋に寝かされていた。

 昨日の夜と同じ格好のままだった。

 ひええ、と慌てて起き上がろうとして、胸の上に乗っかっていた白い肘に顎をぶつけてひっくり返る。

 細い癖に、必要な筋肉はしっかりついている腕は、聖のものだった。

 聖は、アイコと同じ布団に入り、下着姿で熟睡していた。黒いレースで、キャミソールまでお揃いの下着。アイコはばさ、と聖に布団を被せて、とりあえず視界から隠す。

「? ? ? 」

 アイコは頭を抱えて起き上がり直し、それから、少し頭を整理して、思い出す。昨日、駅につくなり一樹に拉致され、息つく暇どころか夕食も食べずに聖の仕事につきあわされ、二番目の現場で眠りこけてしまったのだった。

 初めて聖に拾われた時と違い、聖自身も疲れ果てていたので、服を着たまま布団に放り込まれたのだろう。アイコは勝手にそう納得しておくことにした。

 体中が筋肉痛でぎしぎしいう。ぐきぐきと首と肩を回して体をほぐすと、アイコは部屋の中を見回し、押し入れの前に自分のバッグがあるのを見つけた。

 前回の経験で、この部屋の奥に風呂場があるのは知っていた。アイコは着替えとタオルを引っ張り出すと、そそくさとシャワーを浴びに風呂場に向かった。なんとなく息を殺し、聖を起こさないようにしながら。何故か、そうしないと面倒なことになるような気がしたからだ。

 最初に冷たい水が出てびっくりしたが、ちゃんとお湯の出るシャワーだったのは幸いだった。

 アイコは熱いシャワーで固まった体を温めて、ようやく一息つく。梅雨過ぎの蒸し暑さで、寝汗をかいたらしい。乾いた汗がべたべたしていたのが気持ち悪かったので、シャワーを浴びて髪を洗うと、生き返ったような気分だった。聖が用意していてくれたのか、この前はなかった女性用シャンプーとかドライヤーが風呂場に置かれていた。

 アイコはさっと体を拭くと、とりあえず中学時代の体操服とジャージを着こみ、ドライヤーで髪を乾かした。細くて柔らかい、猫の毛のようなショートカットの髪は、見た目より乾きにくかった。

 気分が落ち着くと、店の方から流れてくる、コーヒーの香りが気になった。

 それから、ベーコンか何かの焼ける油の匂い、焼きたてのトーストの匂い。

 アイコは、催眠術にでもかかったようにふらふらと、聖の寝ている部屋の前を通り過ぎ、細くて狭くて暗い廊下を抜けて、天井が低くて狭っくるしい、朝でも昼でも薄暗い、ばかでかいカウンターに埋め尽くされたような、ケルンの店の方に吸い寄せられていった。

「よう、お目覚めか」

 カウンターの向こうでフライパンを握る大島は、相変わらずの長い白髭とレイバンのサングラス。ジーンズに白いTシャツ、ジーンズ地のエプロン。

「俺の見込んだとおり、お前さんは躾がいい娘だったな。ちゃんと七時起床だ」

「小さい頃、朝寝してるとママにしばき倒されてたから、習慣なの」

 ふあああ、と、アイコは大あくび。それから口許を抑えて、うつむく。せっかくほめられたのに、このだらけぶりではだいなしだ。

「しっかし、花の十六歳が中学校のジャージで人前に出るのはいただけねえな」

 少ししゅんとするアイコに、先に店に来ていたらしい一樹が、意地悪そうに言う。開いた新聞の向こう側で、コーヒーカップを傾けながら。一番店の入り口に近い、カウンターの隅っこで。

 アイコは、上目遣いに一樹を睨みつけたが、言い返せないので、そのまま奥手近なスツールに腰掛ける。

「まあ、そう言うな。格好ばっかり気にしてる女にロクな奴はいねえさ。なあ、アイコ」

 言いながら、大島はコーヒーをサイフォンからシエラ・カップになみなみと注ぎ、ホット・ミルクで割ってカフェオレに仕立てた。焼き上がった二つ目玉のベーコン・エッグを、レタスの細切りサラダ、厚切りのハニー・トーストののった、銀色のステンレス打ち出しのプレートに盛りつけ、ひょい、とアイコの前に置く。

「朝飯、食うよな? 」

 首を傾げるアイコに、大島は腕を組み、有無を言わさぬ口調で言った。

 アイコが、こくこく、と大きくうなづくと、大島は満足そうに口許に笑みを浮かべ、いつものように火をつけずにショート・ホープをくわえた。

 アイコは、おずおずとフォークをサラダに突き立てて、まず、一口。ハーブの効いたドレッシング、しゃきしゃきした歯触りで予想外においしい。昨日の昼から粟おこししか食べていないことを、頭より先にお腹の方が思い出していた。

 アイコは、左手でトーストをつかんで大口でかじりつくと、右手のフォークでベーコン・エッグをやっつけにかかる。咀嚼するのも面倒そうな勢いでパンとベーコン・エッグがプレートから消えていく。一瞬喉を詰まらせかけ、あわててシエラ・カップのカフェオレでむぐむぐと飲み下し、親の敵のようにレタス・サラダに食らいつく。

「なんちゅうひでえ食いざま」

 無我夢中、という様子のアイコに、呆れたような顔で一樹が言う。

「カフェオレ、ぬるめにしておいて正解だったな」

 妙に嬉しそうに、大島はさらに頬を緩めていた。

「パン、もう一枚食うか? 」

「食べる! 」

 即答するアイコに、大島は目尻を下げて包丁で食パンの塊を切りとり、オーブントースターに放り込む。

「サラダ、もう少しあるぞ。トマト切ってやろうか」

 がつがつと朝食をむさぼり食いながら、アイコはまた、無言で大きくうなづく。リスのように頬を膨らませて、頬張ったパンで口をもごもごさせながら。

「うわ、気持ち悪! 朝からドカ食いかよ! 」

 ぐさ、と、一樹が乙女心を槍で突き刺すような言い方で吐き捨てるのを、きっ、とにらんで、アイコは口の中のものを一気に飲み下した。びし、と、左手の人差し指で一樹を指さし、手を握りかえてサムダウン。

「行儀悪いな、お前」

「別に一樹さんに気に入られてもなんの得もないもん」

「うわ、可愛くねえ」

 新聞の影に隠れるように、大げさに一樹が肩をすくめる。それから、思い出したように、小声で付け足す。

「お、そうだ。昨日の駅弁、結構いけたぜ」

「え? 」

 思わぬ言葉に、アイコは思わず食べる手を止める。

「ありがとな」

「……」

 アイコは目を丸くした。一樹は、照れくさそうに新聞の影に顔を隠す。

「こいつも、躾はいいんだよ」

 アイコのプレートに、普通のトマトよりふたまわりくらい小さいフルーツ・トマトを、カットしたナイフの腹を使ってのせながら、大島が言う。

「どんな些細なことでも礼はいう……まあ、ひねくれてるから伝わりにくいけどな」

「ああ、なるほど」

 アイコはぽん、と手を叩いた。

「道理で全然伝わってこないもんね、一樹さんの誠意って」

 がく、と、一樹はカウンターについていた肘をすべらせた。

 新聞を放り出すと、一樹はスツールから立ち上がり、アイコに詰め寄る。

「お前に必要以上の誠意を伝える必要がないだろうが! 」

「あはははははは。マスター、カフェオレもう一杯、いい? 」

「おう。ミルクとコーヒー沸かすから、ちょっと待ちな」

「人の話を聞けい! 」

 ついつい、一樹が大声を上げた。 

 そのとたんに、黒い影がかなりの速度でアイコの背後をすり抜けた。影に顎を直撃されて、一樹が仰向けにひっくり返ってスツールから落ちる。結構、派手な音。

「……うっせーよ、一樹」

 黒い影の飛んできた方……つまりは奥の部屋の方に目をやると、ぼさぼさに乱れた黒髪をぼりぼりと掻きながら、聖がのそのそと顔を見せた。スカートは履いているが、上半身はブラにキャミソールだけの、艶っぽいというよりだらしない格好。しかし、目が笑っていなかった。むしろ、眠そうなのに怒りのこもったようでもある目。

「わ、聖さん! 」

 あわてて立ち上がろうとして、一樹は腰が抜けたように立ち上がれない。きれいに顎にヒットしたのは、どうやら聖のローファーの革靴らしい。ボクシングのアッパーのような当たり方をしたので、一時的に腰が抜けたような状態になっている。一樹は、じりじりと尻で後ずさって、少しでも聖から離れようとする。

「あたし、まだ三時間しか寝てないよ? 肌ボロボロになって不細工になったらあんた、責任とってあたしを嫁に貰うか? そしたら、死ぬまでネチネチネチネチと嫌味を言いながら嫌がらせをして、少しでも抵抗しようものなら毎日病院通いが必要ない程度に暴力ふるうよ? ! 」

「ひい? ! 」

 一樹だけでなく、何故かアイコまで縮みあがって、スツールから滑り落ち、思わず、そのまま一樹にしがみつく。

 聖は、一樹とアイコをしばらくじーっと睨みつけていたが、二人が石のように固まっているのを確かめると、くるりと背を向けて、部屋に戻っていった。

「虎姫、寝起き悪いからなあ」

 大島だけは、何事もなかったように呟いて、煙草に火をつける。

「おい、痛えよアイコ」

 薄い、サマースーツの二の腕に、思いっきりしがみつかれていた一樹が、我に返ってアイコをふりほどきにかかる。

「わあ、待って待って! 」

 アイコは、反射的にそれに逆らってますます一樹にしがみつく。

「痛え痛え! やめろ落ち着け、まて馬鹿力! 」

「びびって手が離れない! ちょっと待って! 」

「ぐあ、骨折れる! 」

「どんだけカルシウム不足? ! 折れるわけないじゃん! 」

「俺は繊細なんだよ! 」

 怒鳴りあいながらじたばたとじゃれあう二人を尻目に、大島はふう、と煙を吐き出した。それから、ぽん、と右手の拳を左の手のひらに打ち付けて、思い出したように言う。

「ああ、そうだ。アイコ」

「いっそ折っちゃえ、後腐れ無く! ……って、はい? 」

「わあ、急に離すな! ってえ! 」

 物騒なことを言って捻りあげていた一樹の左手を放り出して、アイコが首をかしげる。一樹は、アイコに捕まれていた右手を隠すように左手で抱えながら、仰向きにひっくり返り、スツールにぶつかって派手な音をさせる。

「そういえば、できてるぜ」

 にい、と、左の唇の端を吊り上げるように笑って、大島は面白がるような口調で言った。

「お前さんの恋人」

「え? 」

 アイコは、一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、それから瞳を大きく見開いて、頬を紅潮させる。まるで、大好きなお菓子の話しを聞く、小さな子供のような表情。

「あたしの、SDR? ! 」

「ああ」

 大島は煙草を手許の灰皿でもみ消し、エプロンをばっ、と脱ぎ捨てて、右手の人差し指を立てた。

「……飯食ったら、ガレージ行くぞ」


「どうだい? 」

 ガラガラとシャッターを開けた大島は、少し自慢げな表情でアイコの方を振り返った。

「他の作業を後回しにして、こいつ最優先で組み直してやったぜ? 」

 きちんと整頓された工具ワゴンがいくつか壁際に置いてある以外、ガランとしたコンクリートのガレージの中には、黒光りする塊。

 数日前に別れた時は完全なバラバラ死体だったそいつは、なんだか見違えたようになって、朝なのに機械油臭い空気の中に佇んでいた。

 精悍な、モーターサイクルだった。

 スリムで長いタンク。細いタイヤ。銀色の三角形が並ぶ、銀色のパイプフレーム。そもそも二人乗りを認めない、小さなシングルシート。乗り手を威嚇する、猫科の肉食獣のような威圧感。

「この子……」

 本当なら駆け寄りたいところだったが、アイコは、少しためらう。どこがどう変わった、というわけではないのだが、どこかが少し、前と違う。

「本当にあたしの? 」

「当たり前だ」

 大島が肩をすくめる。

「本来の姿だよ」

 そう言われるまで、アイコは愛車に近づく決心がつかなかった。

 大島の横をすり抜けて、一歩、一歩。

 刺さったままのメインキーに、古くなって汚れの目立つ革製のキーホルダーがくっついているのを見て、ようやくアイコは確信した。

「置いて帰ってごめんね……」

 タンクを手のひらで撫でて、それから、ゆっくりとサドルにまたがる。

 ハンドルに手を伸ばすと、乗り慣れた愛車の感覚が、少し戻ってくる。

 サイドスタンドではなく、整備用のスタンドで支えられているため、マシンは傾かずにまっすぐに立っていた。

 ただ、それでもアイコの違和感は完全には消えない。

 いつもは頼りなく感じる細い車体が、妙な迫力のせいか、一回り大きく感じる。

 よく見ると、グリップとか、細かい部品が新しくなっている。

「どうだね? 」

 大島に問われて、アイコは真顔で答える。

「なんか、違うバイクみたい」

「変わりはしないさ」

 大島は、火のついていない煙草を咥えた。

「クリーニングして消耗品を交換しただけだ。タイヤ、チェーン、ブレーキパッド、冷却液、ケーブルとかブレーキオイル、ギヤオイル。あと、後ろのサスペンション。フロント・フォークは分解してスプリングとオイルを交換。エンジンのオーバーホールまではやってないが、ガスケットとプラグも交換した。キャブレターはオーバーホールした。SDRの弱点のエンジンマウント、交換しようと思って準備してたが、もう対策品に変わってたからこれはもとのまま」

 次々と耳慣れない言葉が大島の口から飛び出してくるが、アイコには半分も意味がわからない。ただ、丁寧に、愛情をもって取り扱ってくれたことはわかる。

 自分が無神経に乗り回して、どれだけこのバイクを草臥れさせていたのかも。

「結構、手こずったぜ」

 大島は、バイクを挟んでアイコの向かい側に歩み寄り、ぽんぽん、と軽くタンクを叩いた。

「こいつ、タンクやシートカウルをブラックに塗り直している以外、ほとんど無改造に見えるような見た目なのに、いろんなところに手が入っててな。全然、普通のSDRじゃないんだ」

「へえ? 」

「エンジンマウントだけじゃない。ブレーキシステムは標準品を手作業で精密加工してるし、フレームの要所要所の補強までやってる。電装や吸排気系も、一見原型に近く見えるのに、実はほとんど全部手が入ってた。だから、四万キロ近くも走ってるのに、致命的な痛みがない。最初思ってたより、ずっと健全な状態だったよ。前の持ち主、相当手をかけてたんじゃないのかな」

「すっごい、大事にされてた子なんだ……」

 アイコは、しゃがみこんでタンクに頬ずりをする。

「ちゃんと可愛がってあげてなくて、ごめんね……」

「そういう気持ちがあれば、これからはちゃんと面倒みてやれるさ」

 大島はタンクに置いていた手でアイコの肩を叩き。口髭に覆われた口許をほころばせる。思ったよりごつごつした、大きい手。

「ありがと、マスター」

 アイコは、上目遣いに大島を見上げ、大きな目でじっと見つめながら、礼を言った。

「ああ」

 大島は照れくさそうに背を向けると、首だけで振り返って、言った。

「じゃ、虎姫が起きてくる前に、ひとっ走りしてみるか? 」

「はい! 」

 赤いジャージ姿で、アイコは大きく頷いた。


 大島はガレージからSDRを引っ張り出し、入り組んだ路次をエンジンをかけずに引っぱって、川沿いの土手の上の、少し広い、二車線の道の合流点でサイドスタンドをかけてとめた。ケルンのある場所は、ちょうど川を挟んだ対岸で、店の裏側の屋根が見えている。アイコは大島の後について、ジャージに黒い膝当てと肘当てをつけ、フルフェイスのヘルメットを被ってとぼとぼとついていく。

 いつもライディング・シューズを履きっぱなしなので、足許は問題がなかった。シンプソン・バンディットのヘルメットとグローブは、前にバイクを預けた時一緒に大島に保管しておいてもらっていたから、すぐそこにあった。

 問題があるとすれば、ちょっと草臥れた、中学校のネーム入りの赤いジャージ。ご丁寧に、肩から足許にかけて、二本の白いライン。このあたりの学校ではないのがせめてもの救いだが、小柄な体躯にショートカットのアイコがこの格好でバイクに乗ると、すぐに警察に保護されそうだった。財布と携帯電話は身につけていたから、免許証はもっていたが。

 アイコとしてもちょっと恥ずかしかったが、わざわざケルンに戻って着替えてくるのは面倒だったので、結局そのまま乗ってみることにした。一応大島が、着用式の膝と肘のパッドだけはむりやりつけさせたが、見た目はなんだかかえって不幸な感じになってしまった。

「なんか都市伝説のネタになりそう……」

 ミラーに映る自分の姿に嘆息しながら、アイコはおずおずとSDRにまたがり、メインキーを回した。ステップの上に立って、キック・レバーに足をかけ、軽く踏みおろす。

 ぱらん、と、冗談みたいに簡単にエンジンがかかった。

 アイコは、ちょっと拍子抜けしたような顔。いつも、一回でかかったことはないし、こんなに軽いキックじゃなかった気がする。

 二分ほど、大島とアイコは無言でアイドリングに耳を澄ます。

 ばらつきもなく、軽やかで歯切れのいい、ツー・ストローク・シングルらしい音。

 詳しくないアイコが聞いても、調子が良さそうに聞こえる。

 やがて、マフラーから出ていた白煙が消え、透明な排気ガスに変わる頃、大島が目で合図をし、アイコはSDRのサイドスタンドを蹴って外した。

 大島が、ヘルメットをかぶっているアイコに聞こえるように、少し大声で言う。

「全体に、操作が軽くなってるから、あんまり雑に運転するな! アクセルは特に気をつけないと、前輪が浮くかもしれん! 」

「ええっ? 」

「あと、通勤時間は外れてるけど、業務用車の移動時間に被ってるから、すり抜けとかは慣れるまでやめとけ! 多分、思ってるより二〇キロくらい、高めの速度が出てしまうと思うしな! 」

「うん、分かった……と思う」

 半信半疑、という顔で、アイコは頷き、ヘルメットのバイザーをおろした。

「気をつけていけよ! 」

「はい」

 うなずいて正面に目を向け、アイコは左手のクラッチを握り込み、左足のミッションを踏みおろし、ギヤをローにいれた。かっちりとギヤが入った感覚。

 びり、と、アイコは体に電気が入ったように感じる。

 普段はオフになっている、アイコの中のどこかのスイッチが、オンになる。

 すうっと、アイコの目つきが鋭くなる。

 霞が晴れていくように、回りの様子がクリアに見えてくる。

 アイコは、少し大きく息を吸いこみ、一度とめて、軽く吐き出した。

 体の力が抜けて、SDRに柔らかく接することができる。

 教習所にいる間は分からなかったのだが、どうも、バイクにまたがると、アイコの少しぼんやりしたところは奥の方に引っ込んで、別の、少し尖った顔が表に出てくるらしい。

 アイコは、ふぉん、と、一度軽くアクセルを捻って反応を確かめると、軽くうなづいて、SDRをスタートさせた。

 それは、大島の予測と違って、落ち着いた走り出しだった。

 赤いジャージ姿のライダーを乗せたSDRは、広い道との合流点までゆっくり進むと、左にウィンカーを出して、交通状況を確認すると、するすると曲がって合流していく。

「なんだ、案外大人しい……」

 じゃないか、と、大島がつぶやきかけた途端。

 アイコは、いきなり右手を一杯に捻って、SDRにフルスロットルをくれていた。

 一九五CC、単気筒のツー・ストローク・エンジンが、吠えた。

 フロント・フォークが伸び、リヤ・サスが沈むと同時に、SDRは蹴っ飛ばされたように加速する。

 あっという間に、赤いジャージの背中は遠ざかり、次の交差点で右折して消えていった。

 大島は、しばらく呆れたようにアイコとSDRの消えていった方向を眺めていたが、やがてポケットから百円ライターを取り出すと、咥えたままの煙草に火をつけて、肩をすくめた。

「ま、せいぜい気をつけな、子虎ちゃん」

 柄にもなく、煙にむせながら、後片付けのために踵を返して、最初のガレージの方に向かう。川の匂いが、急に鼻についた。太陽はもう結構高くなりつつある。

 空は青いが、雲も多い。

「そいつの本来の持ち主に、取り返されないように、な」

 大島は、何故かいつもの元気をなくしたように背中を丸め、足をひきずるようにしてガレージに戻る。密集している古い木造住宅と、造成され残したような小さな畑が点在する、開発から取り残されたような場所に作られた、コンクリート打ち放しの、大きな平屋。前面は全てシャッターになっていて、右端の、SDRの置いてあった区画だけが半開きになっている。周囲の木造住宅はほとんど無人になっているから、夜中にエンジンを回しても文句がにくいという理由で、二〇年ほど前に建てたものだった。聖のマシンも久のマシンも、大島がここで手塩にかけて仕上げてやったものだった。

「ここで狼男のSDRを組み直すなんて、な」

 がらがらとシャッターを下ろしながら、大島はつい、口に出して呟いていた。

「酔狂が過ぎるかもな」


(うひゃあああああ! )

 アイコは、心の中で悲鳴をあげていた。

 アイコの心は、震え上がっていた。パニックをおこしかけていた。

 ところが、体の方は全くそれと関係なく、機械のように正確に、バイクを操っていく。素早いシフトアップ、速いコーナリング。バイクもライダーも姿勢をほとんど乱さず、ダンスでも踊るようにまばらに走っている乗用車やトラックの間をすり抜けながら、一人だけ時間の流れが速いかのように、速いペースで走っていく。

(こんなの、あたしのレベルじゃないよ! )

 懸命に、アイコはペースダウンしようとするが、体の方は速いペースを維持するように動いてしまう。アイコの意志より、SDRの意志で動いているかのように。

 巧みなハンドリング、巧みなアクセルワーク。パニックになっているアイコとは別の、冷たく冴えたアイコが、SDRを前へ前へと走らせる。

(やめてよ、あたし! )

(しょうがないじゃん)

 もう一人のアイコの、厳しい声。

(SDRが、走りたがってるもん)

(やだ、死ぬ死ぬ助けて! )

 いつの間にかアイコとSDRは混み合った街中を抜けて、駅の方から続く、四車線の広い道に出ていた。昨日、一樹の車に乗せられて通った道。走っている車の間をスラロームのように駆け抜ける。

 二人の声は、アイコの中で混ざり合い、やがて、いつもの臆病なアイコの声は消えていく。

 何台か、途中で出会ったバイクが競りかかってきたが、とてもアイコとSDRについてこれず、気がついたら消えていた。

(速い、この子! )

 アイコは、自分らしくもなくハイになって、ヘルメットの中で笑い声をあげる。

(なんだよ、こんなに速く走れるんじゃん! これまで、なんでモタモタしてたんだよ! )

 SDRは、確かに見違えるほど速くなっていた。アクセルを開けた分だけ……いや、アイコの感覚から言えば、開けた以上にエンジンは回り、思っている通りにヒラヒラと動き、ブレーキも思った通りに効いてくれる。

 この街に初めて来た時のSDRとは、まるで別物のようだった。

 アイコは、SDRとのダンスを、落ち着いて楽しめる気分になってきた。気がつくと、二〇キロほども、ケルンのあるあたりから遠ざかっている。アイコが来たことのない、山間部を縫うような、交通量の少ないワインディング・ロードに、SDRはさしかかっていた。

 アイコは、バイクとの一体感に、少し酔っていた。

 そうなると、臆病さを押し込んだ冷静さに代わって、傲慢さが顔を出し始めてくる。

(これなら、あたし、一人でも走れるじゃん! )

 そう思った途端、目の前には急カーブ。そこから連続する、見通しの悪いS字。

 アイコは、奥歯を食いしばって、ぎりぎりまで減速せずにカーブに飛び込み、失速しないように、SDRの細い車体を押さえ込む。三速ギヤにシフトダウンして、コーナーを立ち上がりながら加速。かなりのハイペースで最初のカーブを超えると、S字の向こうに長い直線が開ける。

(これなら、いつか先生に追いつけるかも知れない……! )

 そう思った、S字カーブの入り口で、SDRは真後ろからパッシングを浴びせられた。あっ、と、思う間もなく、SDRのものではない、低く太いフォー・ストローク・エンジンの音が、耳ではなく体全体に響く。

 アイコは目を細めると、SDRをかなりの速度でコーナリングさせ、S字の出口でアクセルを全開にした。ついて来られないはず、と思った。

 低くて重い、SDRのものではないエンジン音が、アイコがアクセルを全開にしたのとほぼ同じタイミングで、弾けるように甲高くなった。

 黒い影のようなものが、するすると右側を通り過ぎて、アイコのSDRを追い抜いきながら立ち上がっていく。

(え……)

 驚いたアイコは、アクセルをさらに開こうとするが、それはとっくに全開になっていた。

 黒い影は、アイコにテールランプを見せつけると、長い直線でSDRを尻目にぐんぐんと速度をあげ、遠ざかっていく。

「なんだよ、ちくしょー! 」

 アイコは、口に出して叫ぶと、タンクに上半身を伏せて、懸命に抜いていった黒い影を追った。それでも、全く相手にならない。テールランプは、どんどん離れていく。SDRの速度メーターも、ぐんぐんあがっていくが、それでも全然追いつかない。しかもこの直線は路面が荒れているようで、小さくて軽いアイコとSDRは、ギャップを越える度に大きく姿勢が変わってしまう。

 速度的にも、もう限界だった。

 アイコは歯ぎしりをしてタンクに右拳を叩きつけると、アクセルを緩めてスローダウンした。

 アイコとSDRを抜いていった黒い影は、アイコがスロー・ダウンしたのを確認すると、自分もスローダウンして、車間距離を詰めさせる。

 スズキGSX−R750に、大柄な女性ライダー。ライダーは、黒革のセパレートの上下に身を固めている。

 GSX−Rは、SDRを誘導するようにハザードを点灯させ、覆いかぶさるようにしてラインをふさぐ。進路を塞がれたアイコは、止むを得ずSDRを減速させる。

 二台のバイクは、間もなく路肩に停車した。

 アイコは、がんがん、と、自分の頭をヘルメット越しにぶん殴った。

「ちくしょう、ちくしょう」

 この人が相手じゃ仕方がないという諦めと、高揚していた気分をへし折られた悔しさで、アイコの目尻に涙が溜まる。

 アイコには、もう相手が誰か、はっきり分かっていた。

「どうせ、あたしじゃあんたに歯が立たないよ」

 GSX−Rの女性ライダーは、フル・フェイスのアライのヘルメットを外してバイクを降り、不敵な笑顔をアイコに投げかけた。

 それは、さっきまで下着姿で高いびきをかいていたはずの、上泉聖だった。

「アイコ」

 聖は、不敵な笑みを浮かべてアイコに歩み寄る。

 アイコは、バイザーをあげて、聖をにらみつける。

「あんた、なんつー走り方してんの、いきなり」

「いいじゃん、あたしの好きにさせてよ! 」

 噛みつきそうな勢いで言い返そうとするアイコを、聖はヘルメットの上から、ぽかん、と一発、軽く殴った。

「バイクに走らされてる閑があったら、あたしのためにパシんな! 」

「ふえ? ! わああ! 」

 あまりのショックで、アイコは停まったまま立ちゴケしそうになった。

 ひょい、と、聖はSDRのハンドルに手を添えてバランスをとってやり、それからまた笑顔で言った。

「さあ、仕事仕事! 」


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