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Section.9 マスカレード(3)

 ニーヴェ、というのが、その店の名だった。潰れた老舗旅館を改修したイタリアン・レストランで、オーナーシェフと経験豊かなソムリエ、よく躾けられた若いギャルソンの三人を中心に開店して、もう五年ほどになる。あるタウン誌で紹介されてから、この街の隠れ家的な店として密かな人気店になっていた。その「経験豊かなソムリエ」こそ、小諸雪奈の父・小諸明だった。

 そのタウン誌の経営者兼編集発行人で、娘の友人である上泉聖も常連であるこのレストランでの仕事は、小諸にとってはライフワークでもある。時には海外のワイナリーまで自分で買い付けにも出向き、店だけでなくこの街の通人向けの酒屋に紹介もしている。地元のワイナリーのワインの紹介者としては、東京でもその筋では結構知られた存在の小諸だったが、一番やりがいを感じる仕事は、店で客に快適な時間を提供することだった。

 その店に、娘の雪奈がやって来るのは珍しいことだった。

 派手な赤いワンピース姿で、初老の男と腕を組んでウェイティング・バーに入ってきた雪奈を見て、小諸は一瞬表情を曇らせた。気付かれないように営業用の笑顔に切り替え、ソムリエとしての仕事に戻る。

 雪奈は小諸に視線を向けることもなく、にこやかに笑いながらウェイティング・バーのカウンターに男と並んで腰掛けた。夕方の開店時間直後で、二人の他に客はいない。留学生の英国人バーテンダーが、元気よく対応しはじめるのが聞こえる。今日は、じとじとと嫌な雨が降っているが、ニーヴェのウェイティング・バーは、暖かい照明とちょうど良い空調のおかげで快適そうだった。

 相手の男は、雪奈の勤め先の社長で、岸川という。

 小諸は何度か雪奈に尋ねてみたことがあるが、その度に雪奈は「単なる社長と社員の関係」だと答えていた。しかし、街で偶然見かけた二人の姿は、小諸の眼にもとてもそうは映らなかった。やがて雪奈は小諸の問いに答えなくなり、代わりに「ニーヴェ」に岸川と二人で時々訪れるようになった。来店しても決して雪奈はレストランの方には入らず、ウェイティング・バーで二、三杯カクテルを空けてすぐに店を出てしまうのだが。小諸の担当はレストランの客だったから、店で見かけても、お互いに無理をしてまで言葉を交わそうとはしなかった。雪奈はたいてい、普段着のパンク・ファッションとも、会社の受付嬢の制服でもない、小諸の見たことのないような派手な服だった。

 岸川と雪奈はバーテンダーにサイドカーとジン・アンド・ビターズをそれぞれオーダーした。

 手際よくカクテル・グラスが並ぶと、岸川と雪奈は軽くグラスをぶつけて乾杯した。

「孝一郎さん、今回は我が侭を聞き入れていただいてありがとうございました」

 ぺこりと小さく頭を下げる雪奈に、岸川はオフタイム用の小洒落たセルフレームの眼鏡の下で、細い目をさらに細くした。

「いや、礼には及ばない。上泉さんの直接申し出でも、断らなかったと思う」

「えー、そうなの?」

 わざと拗ねたように、少し厚い唇を尖らせる雪奈に、岸川はふふ、と笑った。

「……いや、やはり君から話があったから、ということにしておこう」

「えへへ」

 雪奈は蕩けそうに甘えた笑顔で、岸川の、仕立の良いグレーのジャケットの肩にしなだれかかった。

 小諸雪奈が、岸川孝一郎の愛人の一人として周囲に認められるようになって、もう五年以上経つ。

 岸川は表向きは企画会社の社長だが、明和会という地域の暴力団の重鎮も兼ねており、何人かの愛人を抱えている。死んだ摩耶は本妻の子だが、他にも子供がいるらしい。

 少なくとも、この立場は、雪奈にとっては悪いものではない。岸川企画の受付嬢だけなら月給手取りで十万ちょっとだが、プライベートになった途端、地元財界では顔役の岸川の財布を預かっているも同然である。岸川も雪奈の事務的な能力を高く買っていて、裏の仕事に関わる表に出せない金の管理を任せていた。それで、岸川の配下の怪しげな連中に対しても、かなりの裁量を与えられているのである。

 昼間は午後出勤で六時まで受付嬢として週四日働き、あとは岸川の裏の仕事の処理をして、二週に一回くらい、岸川と夕食・ベッドをともにする。

 ここ数年の雪奈の、パターンにはまったライフスタイルだった。

 岸川はもっと若い愛人を囲っているので、雪奈はどちらかといえば有能な補佐扱いになっている。

 それをいいことに、この前アイコを襲った時のように、雪奈が岸川の配下の連中を使って、明和会とも岸川とも関係ない仕事をさせることもあった。

 残念ながら、中学以来、明和会のお歴々に顔の売れている伝説の不良・上泉聖のご威光には未だに及ばないのだが。

 それでも、岸川自身から金を引き出すことに関しては、雪奈の方が有利な立場だった。

 実際、今回の『マインドトラベル』の大増刷・配布の資金は、そうやって雪奈が引き出したのだ。

「孝一郎さん、はい」

 雪奈は、その『マインドトラベル』の最新号をバッグから取り出して、岸川に手渡した。岸川は眼鏡をずらし(遠近両用レンズだった)、真新しい雑誌の表紙に眼を細める。

「この子かね、上泉さんがご執心というのは」

「ええ」

 雪奈が、ジン・アンド・ビターズを一口含んで、答える。

「この前、お会いになったのでは?」

「ああ」

 つまらなさそうに、岸川は本をカウンターに放りだした。

「ジャージを着てた小学生か」

「そんなふうに言ったら怒りますよう、聖さん」

 うふふ、と、雪奈は眼で同意しながら、言う。

「……まあ、確かにちんちくりんでしたけど」

「まあ、上泉さんが見込むんだから、間違いないんだろう。私にはさっぱり理解できないが」

 雪奈は、放り出された『マインドトラベル』の表紙、アイコの横顔に眼を向けた。確かに、それは妙に目に付く表紙だった。アイコの、まだ幼さの漂う無垢な表情に、雪奈は急にむかっ腹がたって、小さく舌打ちする。

(確かに、間違いない餌だと思うけどね……狼男を釣るには)

 腹立たしいが、それは間違いないことだった。

「どうした?」

 不意に黙り込んだ雪奈に、岸川が不審そうに尋ねる。

「なんでもありませんよ……ふふふっ」

 雪奈は取り繕うように明るい笑顔で笑い、岸川にしなだれかかった。

 岸川は、雪奈が「狼男」のことを知らないと思っている。ましてや、上泉聖をめぐって、自分の娘と雪奈が恋敵だったと言われていることなど、知る由も無かっただろう。

 雪奈は、岸川もまた「狼男」を探していることを知っていた。

 岸川は、自分の娘が死を選んだ理由を知りたがっていた。そして、上泉聖から、「狼男」がその鍵を握っている可能性があることを教えられていた。

 雪奈はあえて、そこに踏み込まずにいた。自分と久の関係も含めて、説明が面倒だったからだった。

「さ、孝一郎さん。私のお部屋に行きましょう」

 グラスを傾け、残りを一気に飲み干して、雪奈は言った。

「今日は、良い夏牡蛎を買ってあるの。手料理を振る舞いますよ」

「お手柔らかに、頼む」

 岸川は、唇だけで笑って、言った。

「最近、腰痛がひどくてね」

 それは年甲斐もなく子供みたいな愛人を抱えているせいだろう、と雪奈は心の中で悪態をついた。雪奈は、岸川の愛人たちの中ではもう古株だった。アイコの顔と、このところ岸川お気に入りの女子大学生の顔が、似てもいないのに被って見えて、雪奈は苛々した。その若い愛人の小遣いの世話さえ、岸川は雪奈にやらせていた。雪奈は、ふと、岸川に殺意を覚え、ぶるぶる、と頭を振る。ジンが意外と回ったような気がした。

 ふと、バーの向こうで客のワインを選んでいる父親の背中が目に入った。

 夜はまだ始まったばかりだった。

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