Section.9 マスカレード(2)
アイコはそのまま口をつぐみ、「追っかけだった」という自分の言葉に呆れたように黙りこんだ。
大島も一樹も、そのことをことさら尋ねようとはしなかった。
アイコはようやく落ち着いて、カウンターの前のスツールに腰掛けた。
……その途端に、また電話が鳴った。アイコはぬええ、と奇声をあげて、また席を立った。今度は、スツールがひっくり返って大きな音を立て、大島と一樹は耳を抑えて顔をしかめた。
そんな調子で、大島のモーニングの準備が終わり、パンが焼け、コーヒーも入って、それから、それらがすっかり冷たくなっても、アイコの電話が鳴り病むことはなかった。
とうとう、もともと電池の減っていた携帯は、ピピ、と警告音を立ててダウンした。同時に、アイコの電池も切れたらしい。ごん、と盛大な音を立てて額をカウンターに打ちつけて、アイコは肩で息をしていた。傍目にもはっきり分かるほど、アイコは消耗していた。
「お前、どんだけ愛されてるんだ」
一樹が、呆れたような顔で言った。
「というか、半分くらい、誰か分からなかった……」
ぐったりしたまま、アイコが答える。
「学校の先生とか、同じ中学の奴とか、近所のおばちゃんとか、派出所のおっちゃんとか……」
「学校の先生とか同級生はともかく、なんでオマワリまでお前の携帯知ってるんだ? 」
「それは、まあ、いろいろあって……」
「自分も警官だったくせにオマワリとか言うな」
サングラスをかけなおした大島が、まぜっ返す。
「いや、俺はすぐ辞めちゃったし」
「わあ、そんなことどうでもいいー! 」
がば、と顔を上げたアイコが、急にキレて喚き始める。
「なんであたしがこんな目に会わなきゃなんないのよ! 」
「すごい営業努力をされた、編集発行人さんのせいでしょ」
「わむ?! 」
喚くアイコの口に、一樹がひょい、と指でつまんだトマトを放り込んだ。
目を白黒させてトマトを咀嚼するアイコ。
「正直、大変だったと思うぜ、聖の奴」
大島が、アイコの前の、冷めたコーヒーのカップを取り上げ、新しく淹れなおした湯気を立てているものに置き換えながら、アイコに説明してやる。
「いつもの部数じゃ、平積みされるほど出荷されてないから、相当増刷してるだろうし。コンビニにもバックマージン握らせてるだろうから、いくら売れても赤字に近いんじゃないか?」
「……! 」
「制作の連中の反対を振り切っての大部数だろうな」
「コケたら雑誌ごとふっとぶ勢いだぜ、多分」
アイコは、ようやくトマトを飲み込んだ。
「実際、何考えてるんですか上泉さん」
次号の打ち合わせのために『マインドトラベル』の編集室を訪れたリョータは、開口一番、文句を言った。
「あんだけ俺とミサキさんが止めたのに」
大学時代から温厚さには定評があるリョータの怒った顔を、聖は初めて見た気がした。
聖ははぐらかすように視線をそらし、煙草に火をつけた。
「だから、二万にはせずにとりあえず一万八千部にしたんだけど」
フラワーエイジ風にベルボトムのジーンズとパッチワークのベストに赤いシャツ姿で現れたリョータは、チューリップハットを被りなおして、溜め息をついた。
「市内のコンビニ全部で平積みって、どんだけバックマージン払ってるんです? 」
「んーとねえ」
財務管理用のデータベース画面を眺めながら、聖はどうでもいいような口調で答える。
「平たく置いてくれた分の売り上げは、卸値ゼロの送料こっちもち」
「全部持ち出しじゃないですか」
お気楽な口調で言う聖に、リョータは天を仰いだ。
「そんなに資金ないでしょうに。また借金ですか?」
「まあ、そんなとこ」
曖昧に笑って、聖はふう、と煙草の煙を吐いた。
「岸川さんからひきついで有料化したときの借金、半年前まで残ってたんじゃないでしたっけ?」
リョータが、厳しい口調で言う。
「まあね……でも今回は、岸川企画の買い取りって形で資金を提供してもらったから、借りではあっても借金じゃないよ」
雪奈が岸川に口を利いてくれたことは、言わなかった。岸川に恩を着せられるのは嫌だったから、聖は話をするのをためらっていたのだが、雪奈が摩耶の話を出し、今回の大増刷の目的を説明すると、岸川は自分の方から必要な資金の提供を申し出てきた。聖はそれを断っていた。岸川の意向が『マインドトラベル』に影響するのは避けたかったが、背に腹はかえられない。
「なんでそこまでしなきゃならないんですか」
「うん……なんていうかな」
一口、二口。聖は煙草をふかしながら、答えを探しているようだった。
リョータが、口からでまかせのような言葉では、絶対に誤魔化せないことを、聖は良く知っている。
どんなときでも、素直に正直に考えるのが、リョータの美点だった。つぶらな眼は、どんな嘘も見通してしまう。
聖は、灰皿で煙草をもみ消して、真正面からリョータと向き合った。
リョータも、目を逸らさずに正面から聖をじっと見ている。
「どうしても、やらなきゃいけなかった」
聖は、リョータの肩に手を置いて、真顔で言った。
「それは、あたしがこの雑誌を始めた動機と関わることなんだ」
「それは、みんなの目標としての動機ですか? 」
リョータは、尋ねた。
「それとも、聖さん個人の? 」
「ごめん」
聖は、小さく頭を下げた。
「あたし個人の動機」
「俺、言いましたよね。『マインドトラベル』は、もう、一人のものじゃないって」
「言った」
聖は、顔を伏せたまま答える。
「それでも、やらなきゃ駄目なことなんですか?俺や、ミサキさんや、他にも一杯いる、この本好きな奴のこと、棚上げしといてでも?」
「棚上げになんか、しない」
聖は、顔を伏せたまま、首を左右に振った。
「心配ない。今回のは、あたし個人のわがままだから、『マインドトラベル』の資金には手をつけてない」
「そんな心配してるんじゃないですよ」
リョータは、溜め息をついた。
「顔、上げてくださいよ、聖さん」
「……」
「俺たち、聖さんが本当にやりたいことなんだったら、たとえ雑誌が無くなるようなことでも、思ったようにやって欲しいんですよ」
顔を上げない聖に、リョータは困ったように言う。
「ミサキさんだって、他のみんなだって。やって、失敗して、雑誌がつぶれたら、また創刊から一緒にやればいいんだから」
「うわ」
聖はどん、とリョータを突き放した。
「リョータのくせに生意気言ってる! 」
言いながら、不敵な笑みでリョータに答える。
「当たり前だよ、逃げられると思ったら大間違いなんだから! 何回だって、作り直してやるさ」
「そうですね」
リョータも、にっこりと笑って、言った。
「もしそうなったら、今度こそ、一からみんなで作りましょう」
聖さんにおんぶに抱っこではなく。リョータは、そう、呟いていた。