Section.9 マスカレード(1)
朝起きてみると、自分は変わっていないのに世界の方が勝手に変わっているなんてことが、稀にはおきる。
アイコは、そういう小規模な世界の変化を、そう長くはない十六年ちょっとの人生のなかで、何回か経験した。
小さいとき、朝起きてみると家の中がすっかり片づいていて、親につれられて家を出、車に乗せられたら、そのまま言葉も通じない遠いところまでの引っ越しだったことがある。それも、三度ほど。
ロンドンと、ボンと、横浜。それから、今の家のある街へ。さすがに最後の引っ越しの時は何が起きているのかは分かったが、かわりに母親が永久に出て行ってしまった。そして、翌週父親は海外に赴任して行って、アイコは一人で田舎町に取り残された。
それから数回しか父親には会っていないし、一度も母親には会っていない。
それから、最初の高校受験の朝。お腹が痛くて動けなくなり、救急車で運ばれたこともあった。急性盲腸炎で即入院、結局受験も出来なかった。
その次の年……つまり、今年の春……は、別に病気でもなんでもなかったが、とても大事な用事が出来て、結局自分で入学試験の方を投げ捨ててしまった。これは勝手に世界が変わったのではなく、自分で変えた。そして今、自宅から離れた町で、変な喫茶店の奥の部屋に住んで、変な大人たちに囲まれて暮らしている。これも自分で選んだつもり。
そんなこんなでアイコは、世界の方が勝手に変わってしまうことには慣れていると、自分では思っていた。
「でも、そうでもなかったみたい」
浜橋皆山の取材に行った数日後、いつもより何故か早起きしてしまったアイコは、大島がまだ店に出てきていなかったので、暇つぶしに近くのコンビニに買い物に出た。そしてアイコは、マガジンラックの前で呆然としていた。
ずらっと、三冊ずつ、三段に並んだ「マインドトラベル」の新しい号。
タウン誌がそんな置き方になっているのも初めて見たが、その表紙のデザインを見て、アイコはそのまま固まった。
「いっ、いっ、……」
ぶるぶる震える指先でそれを指さして、裏返った声で呟く。
「いつの間にこんな写真を……」
その表紙は、まがう事無き自分の横顔。
何かに集中しているらしく、撮られていたことにも気付かなかった。
背景はピントがあっていないのに流れているのでよく分からないが、日付から考えて予土がとったものではない。ロゼッタ・ストーンの店内か、取材を手伝わされたファッション・ホテルのどこかで、聖が撮った写真に違いなかった。
「こんなの、聞いてないよお! 」
アイコは、店員が驚くのも構わずに大声で喚くと、コンビニからダッシュで逃げだした。
そういえば、ここ数日、聖は妙に忙しそうにしていた。
アイコはもう次の号の取材に振り向けられていて、皆山の取材の翌日、一日完全に休んだ後は、予土か一樹のもってくるスケジュールに沿って動いていたから、聖とは、ケルンかロゼッタ・ストーンで朝食か夕食の時会うくらいだった。しかも聖は、途中で携帯電話が鳴って席を立ったり、ひどくあわてて食事をかきこんで出て行ったりしていたから、アイコも、自分の初仕事がどんな本になっているのかを尋ね損なっていた。
その結果が、この本であるらしい。
あまりに予想外だったので、アイコは何が何だか分からないショックに打ちのめされて、ケルンに逃げ帰った。
店まで戻ってみると、アイコが出かけるのと入れ違いに出店した大島が、いつものようにモーニング・セットの準備をしていて、開店前だというのに一樹がカウンターに陣取って雑誌を開き、グラビア・ページに目を落としていた。
その雑誌は、『マインドトラベル』だった。
息せききって店に駆け込んだアイコは、一樹が見ている雑誌に気付くと、きゃあ、と悲鳴をあげた。
「うわ、なんだなんだ」
すごい勢いでドアを開けて飛び込んできたアイコに驚いて、大島と一樹は一瞬びくっとして固まり、それから相手がアイコだと分かって顔を見合わせる。
にやにやと、二人の相好が崩れる。
「もう起きてたのか。おめでとう」
大島はサングラスの下の目を細め、長い、二股に分かれた白いあごひげの下の口許を綻ばせて、言った。
「嬉しくて早起きかあ? 」
一樹が、じとっとした目をアイコに向けて、冗談めかした皮肉っぽさを込めて、言う。
「お前、アイドル並の扱いだな。ここ来る途中で何軒かコンビニチェックしてきたけど、結構平積になってたぜ」
「ええ? 」
「多分それぞれのコンビニの、ブロックの責任者と掛け合ったんだろうな」
大島が、火のついていない煙草をくわえたまま、肩をすくめる。
「こんな短期間でそんなこと出来るんですか? 」
一樹が、呆れたように言う。
「創刊号で俺や雪奈が営業手伝ったときは、全然相手にされなくてひどい目にあったのに……」
「まあ、最初はフリーペーパーだったしな」
「そおいうこと、言ってるんじゃなくって! 」
のんびりした会話にたまりかねて、アイコが割り込む。
「こんな……あたし、どうすれば……びっくりして……」
割り込んだはいいが、混乱していて何をどう言っていいのか分からない。
「まあ、落ち着け」
あうあう、と、意味の分からない単語を並べ、頬を真っ赤に染めて両手を振り回すアイコに、大島が見かねたように言って、冷たい牛乳をグラスに入れて出してやる。アイコはひったくるようにそれを受け取り、ぐっと一息で飲み干した。
「げ、げほ、げほ! 」
「わ、吐くなよ」
むせ返るアイコの背中を、一樹がさすってやる。
ひとしきり咳き込んでから、ようやくアイコは落ち着いたらしい。ふっと力を抜き、スツールにへたり込む。
「ふう……」
「相変わらず騒々しいなあ、お前は」
涙目のアイコに、一樹が言う。アイコは少しむっとして、唇を尖らせた。
「なんか、ダメな妹を見守る歳の離れた兄みたいな口調だ! 」
「そんな感じ……あ、嘘だ嘘」
今にも襲いかかってきそうな目つきでにらまれて、一樹は手にした『マインドトラベル』を楯にして顔を隠した。そこには、アイコの顔。
アイコはため息をついて、うなだれる。
その途端に、赤いジャージのポケットで、携帯電話が鳴った。
アイコは驚いて飛び上がり、手に付かない様子であわてて携帯を取りだした。使い古しのストレート携帯。
「あ、はい!小林で……あ、みーちゃん」
電話は、美春からだった。電話の向こう側で、美春は心底嬉しそうにアイコにお祝いを言い、店の客にも配るよ、とか、十冊買うよ、とか、かなりのハイテンションでまくし立てた。アイコはついつい調子を合わせて嬉しそうな返事を返し、見えもしないのにぺこぺこお辞儀までして礼を言った。じゃあね、とかなんとか、アイコの返事もさして待たずに言いたいことだけ言うと、美春は電話を切った。
「……」
渋い顔で携帯を見て、アイコはまた固まっていた。
一樹は、ちょっと考えて何か声をかけようとした。
その途端、また、アイコの携帯が鳴った。
ぎく、と小さく震えてから、アイコはまじまじと携帯を見てため息をつき、通話ボタンを押す。
「……予土さん? 」
今度は予土だった。さっきの美春同様に、ちょっと興奮していて、いつもより早口だった。予土も祝いの言葉を並べたてると、今週の取材日程の確認だけはしっかり告げて、電話を切った。アイコは、美春の時同様、ついつい不満を言いだしそびれ、無駄に大きな身振りで会話を終える。予土もやっぱり一方的に電話を切った。
はあ、と大きなため息をついて、アイコはカウンターに突っ伏した。
「アイコ、お前さあ……」
一樹が、ちょっと呆れたような顔で、言う。
「意外と、弱いな? 」
「言わないで! 」
アイコは、突っ伏したまま答える。
「あたし、誉められると、ついつい良い子な返事をしてしまうの! 分かってるの! 」
答えた途端に、また携帯が鳴る。今度は、普通の呼び出し音ではなく、何故か「ジュピター」の着信メロディ。
「わあ! 」
アイコは飛び上がりそうな勢いで上半身を起こし、驚いたような目で携帯を見る。表示された名前に、大きな目を丸くする。
「な……なんで? 春原? 」
一度深呼吸してから、通話ボタンを押す。少し、緊張しているようだった。大島と一樹は、ちょっとした違和感を感じてアイコに視線を向ける。
「……はい、小林です」
電話の向こうで、息を飲む様子。
『……アイコさん』
消え入りそうな、アイコと同年代の女の声。
アイコは、携帯を持ちなおして、背筋を伸ばした。
『小林・ヒルデブラント・アイコさん? 』
「……フルネームで呼ぶなっつったろ」
普段大島や一樹が聞くのとはうって変わった、無理に低く抑えた、冷たい声。
「どうした? 何かまたあいつらが仕掛けてきた? 」
『あ……うん、大丈夫。あれからは、何にもない』
「そう……」
アイコは、小さく吐息。
「……で、何? 」
『うん……』
電話の向こうで、ごく、と唾を飲む雰囲気。
『今日、アイコさんが表紙になってる雑誌、見たよ』
吹き出しそうになって、アイコは目を見開いた。
「……今、なんて? 」
『アイコさんが表紙になってる雑誌、見ました……』
「……」
『アイコさんって、やっぱりすごい。しばらく、連絡もできなかったからすごい心配してたんだけど、あたしが心配することなんてなかったんですね』
「……あ……いや……」
ただ巻き込まれただけなんだけど。そう、言おうかどうしようか、一瞬迷い、。戸惑った顔のままで、それでも、アイコは決心して、言った。
「うん。柄でもないけど、ちょっと頑張ってる」
尖ったようなところのない、大島や一樹の知っている、普段のアイコの口調。
「だから、心配とか、すんな。あんたも知ってる通り、あたしはそんなに弱くないから。絶対、気にすんな」
『……ありがとう、アイコさん』
頑張ってください。そう、涙声で言って、春原は電話を切った。
アイコは少し頬を緩め、それから、ふと我に返って、またカウンターに突っ伏す。
「ぐああ、疲れた」
一樹と大島は、エネルギーを使い果たしたように脱力しているアイコを見て、顔を見合わせる。
「……なんか、コイツはコイツで、いろいろありそうですね」
「ま、生きてるってのはそういうことよ」
大島はにやりと笑い、サングラスを外して、壁際の冷蔵庫に向かった。
卵とベーコン、トマトとレタス、半玉のキャベツをとりだし、アイコに言う。
「朝飯、まだだろ。食うか?」
「食べる」
倒れたまま、アイコが答える。
「なんか食わないとやってられない」
大島は肩をすくめ、使い込まれたフライパンに火をかけた。やがて、野菜を刻む包丁の音、フライパンでベーコンが焼ける音と匂いが立ちのぼる。
「さっきのは、中学の後輩」
アイコは、突っ伏したまま、独り言のように言った。一樹に、言っているようだった。一樹は顔をあげて、聞き漏らさないように耳を澄ます。
「今年、あたしが受験できなかった原因のひとり。なんだか、危なっかしい奴」
「お前より危なっかしいってのは相当だな」
「だよねえ」
アイコは、のろのろと顔をあげて、一樹を見た。
「あいつ、あたしの追っかけだったんだよ」