Section.8 コミック雑誌なんか、いらない(6)
虎姫、というあだなのとんでもない不良がいるということを、小諸雪奈は中学一年の時に初めて聞いた。雪奈の通っている私立中学では、その名前は実像とはかけ離れた都市伝説として広まっていた。
曰く、長身で、長い黒髪で、宝塚の男役スターみたいに格好いいが、気にくわないという理由だけで気絶するまで人を殴ったとか、数人がかりで襲撃してきた屈強な不良男子学生を全員病院送りにしたとか、警察も恐れて手を出さずにいるとか、明和会という地元系の武闘派暴力団にも顔が利くとか。ひどいのになると、電柱とか信号機を蹴り倒したとか、パトカーを転覆させた、なんてのもあった。恋人は、ボクシングのインターハイの選手で、ケンカで相手を死なせて少年院送りになった奴だとか。
さすがに雪奈はそんな人間がいるなど、信じなかった。いくら田舎でも、日本は法治国家なのだし、そんな人間が逮捕されずに闊歩しているなんて、想像もできなかった。
ところが、虎姫は実在の人物だった。
冬の街を歩いていて、公立校の不良生徒のグループに目をつけられ、裏路地に引きずり込まれて脅えていた雪奈の前に、そいつは突然に現れた。いつものように、ただめそめそ泣くだけしかできないでいた雪奈の前に。
「よう、諸君」
芝居がかった態度で、くるぶしまである長いボックスプリーツのロングスカートに黒いハイネックのセーター、不釣り合いに使い込んだ牛革のロングコートにハイカットのバスケットシューズという、バラバラないでたちで、相撲取りみたいに大柄な男を蹴り倒しながら。
どこか捨て鉢な表情で、バブルガムを噛む口許には不敵な笑み。
「げ、虎姫」
蹴り倒した男の延髄をバスケットシューズで思い切り蹴りつける姿を見て、雪奈を捕まえていた、着崩れたブレザー制服にスキンヘッドの男と、一緒に雪奈を囲んでいた三人の制服姿の女たちが脅えたように言う。雪奈の耳には、それがはっきりと聞こえた。
ブレザー制服のスキンヘッドは、雪奈を突き飛ばすと、ポケットに忍ばせていたバタフライナイフを抜いて、聖に飛びかかった。
そこからは、まるで雪奈の好きな香港アクション映画を見ているようだった。ちらつく粉雪をまとわりつかせながら、虎姫は本当の虎のように俊敏にスキンヘッドをいなすと、背中に強烈な蹴りをお見舞いした。たたらを踏むスキンヘッドに背を向けたまま、棒立ちになっている三人の女どもの方に飛ぶ。
男女差別はしない主義らしかった。
一人目に膝蹴り、二人目には両手を握って延髄へのハンマー、三人目には顔面へのウェスタンラリアット。蛙の踏みつぶされるような声をたてて、女達は雪で濡れた路地に打ち倒され、息も出来ずにのたうち回る。
「てめえ! 」
態勢を立て直し、自分の仲間がぶちのめされているのを目の当たりにしたスキンヘッドは、目を血走らせ、こめかみに青筋を立てて、聖の背後からナイフを振りかざす。
「へへ、バーカ」
嘲るように、思ったより澄んだ声で虎姫が呟いた。
ごん、と、男の顎に、後ろ回し蹴りがヒットしていた。
ナイフを持った手を捉えて引き込み、そのままネジあげる。
苦悶の声をあげて、男は泡を吹いて失神した。
肩が、ブラブラしていた。
雪奈は、泡を吹いている男の顔にショックを受けて、路面にへたり込んだままひい、と小さく悲鳴をあげ、両手を握りしめた。
虎姫はちら、と冷ややかに雪奈を一瞥すると、男の手を離して、言った。
「折っちゃいないよ」
言いながら、男の制服のポケットを探る。しばらくごそごそやって、生徒手帳を探し当てると、それを自分のコートのポケットに捻じ込んで、惨劇の現場に背を向ける。
「あ……あの」
雪奈は、そのまま立ち去ろうとする虎姫の背中に、ビクビクしながら声をかけた。
「勘違いすんなよ」
虎姫は、冷ややかな目で振り返って、言った。
「あたしもこいつらと同じクズの仲間さ。たまたま気にくわないクズを叩きつぶしただけで、あんたの味方じゃない」
「え……」
「さっさとお家帰りな。でないと、あたしがあんたを襲わないとも限らないよ」
わざと下品に大声で笑って、虎姫は雪奈をひとにらみした。それだけで、雪奈は、さっき取り囲まれていたときにも感じなかったような寒さを感じた。
本当に人を殺したことがあるんじゃないかと思うような目だった。
虎姫はふん、と鼻を鳴らすと、背を向けたまま歩き出した。
今度は振り返りもしないで、路地裏から大股に歩み去って行く。
雪奈は、それを見送りながら、思わず呟いていた。
「……格好、いい……」
虎姫の背中は、路地の角を曲がって、消えて行った。
雪奈は、背中に入り込んだ雪の冷たさに我に返ると、芋虫のように転がっている連中を放りだして走り出した。
そんなことがあってから、しばらくの間、雪奈は街に出るたびに虎姫を探したが、噂は聞いても、本人と会うことはなかった。やがて、「虎姫は街を出て行った」と、風の噂に聞いた。雪奈は、虎姫のことを忘れることにした。
そして、本当に忘れていたのだ。
上泉久の「お別れ会」で、そいつを見かけるまでは。
父親の都合がつかなくなったために、嫌々その会に出席することになったその会で、雪奈は独りぼっちだった。
久は随分顔も広く、人気者だったようだ。
雪奈の知っている人間は誰もおらず、手持ちぶさただった。
雪奈の目には、久の最後の姿が焼き付いていた。
前を走る銀色のフレームの、小さなバイク。
その後ろを追いかける、黒いフルカウルの大型バイク。
滝に向かって弧を描く道で、小さなバイクは減速もしないでそのカーブを曲がりきり、ぶつかるようにその後ろを追いかけていた黒いバイクは、まがろうとする素振りも見せないような勢いで、空に舞った。
雪奈たちは、それをはっきり見ていた。
小さなバイクが一度止まって後ろを振り返ったのも、ちょうど同じ頃に、マルボロ・カラーのTZRが追いかけてきて、呆然と立ち尽くしたのも。
父が警察に電話をかけ、パトカーやら消防車がけたたましくサイレンを鳴らしながらやってきて、目撃者である自分たちにいろいろ質問が投げ掛けられた。雪奈は呆然としていて、その間、ほとんど何を答えたのかも覚えていなかった。
空を飛んだGSX−Rの美しさだけが、心に沁みていた。
でなかったら、誰も知り合いのいない久のお別れ会になど、父の代理でも絶対に足を向けなかっただろう。
そしてそこで、雪奈は虎姫と再開した。
随分丸くなって、普通の大人のふりをしようとしていたが、時折見せる獣じみた瞳の輝きを、雪奈が見間違える筈がなかった。
兄の葬式代わりの会だというのに、むしろ楽しげにさえ見えるほど忙しく動き回り、集まった人々すべてとつながろうとするかのような虎姫の前に、雪奈は立ち塞がって、そして、言った。
「あたしは、小諸雪奈。……久さんの、彼女」
長髪で線の細い、久の弟分のような男と何やら話していた虎姫は、一瞬きょとんとし、それから、氷のように冷たい視線を向けた。
「北原さん。知ってた? 」
雪奈にではなく、それまでしゃべっていた男に、尋ねる。
「兄貴が特定のオンナと付き合ってたって話」
初耳ですよ、と、心底驚いたように、北原一樹が答えていた。虎姫より少し年下、雪奈と同じくらいの年齢のようだった。
虎姫は、瞼を伏せて少しの間考え、それから、右手を伸ばして、言った。
「久の、双子の妹の上泉聖です。……来てくれてありがとう」
雪奈の手をとって、ぎゅ、と握る。細いが、強い力の指。
「あなたが、一番悲しんでくれる人なのね。兄貴のことを」
雪奈は、頬が熱くなるのを感じた。
いろいろな想いが、急にあふれ返って、何も言えなくなった。
雪奈は、とうとうその場に座り込んで、大声をあげて泣き始めた。聖は、雪奈を抱きかかえ、背中を優しく叩いてくれた。不審がっていた一樹も、雪奈の言葉を信じたようだった。
雪奈はこの日、初めて皆が認める「久の彼女」になった。
たった一人、認められないでいるとしたら、それは雪奈当人だけかも知れなかった。
それ以来のつき合い、ということは、確かに雪奈と聖は、古い友人ということになる。
ただ、聖はどうも雪奈のことが得意ではないようだった。
共通の目的……久の死の真相を知るという……をもつ同志、というのが、聖が雪奈に与えた位置づけだった。
雪奈はそれに応えるかのように、『マインドトラベル』の創刊を手伝い、編集部を離れた後は岸川摩耶の父親の会社に勤めたりしてきた。肝心の「狼男」探しは遅々として進まなかったが。
雪奈は聖と対等になろうとして、弱い自分を変えるために私服を変え、岸川が抱えている明和会……暴力団として自立できなくなったので、土建屋として岸川の世話になっている……に顔をつなぎ、今では街の裏の世界ではそれなりの顔とさえ目されるようになっていたが、そうすればするほど聖とは疎遠になるばかりだった。聖は雑誌を通じてそれなりの事業者になっていったが、雪奈は相変わらず、昼の世界では岸川の会社の受付嬢に過ぎない。
アイコを痛めつけてでも「狼男」のことを知りたかったのは、そのことに対する焦りのせいもあった。それをしくじってしまったので、雪奈はとっておきのカードを切る決心がついたのかも知れない。
それでも、いざ聖を目の前にしてみると、それはなんだかとても恐ろしいことのような気がした。もし、そのことを知ったら、そして雪奈や大島が分かっていて話さなかったことを知ったら、聖はどうするだろうか。
雪奈は、乾く唇を舐めて湿し、落ち着こうと懸命に努力した。ほんの少し、余裕を持って、聖の顔を見つめ返す。
雪奈は、吐息交じりのような声で、言った。
「シルバーバレットは、今、バイクじゃなくて、山奥で土をいじってるよ」
「土? 」
「そう、土。車も通れないような山奥で、土をいじったり野草を調理したりしてる」
雪奈は一気にまくし立てた。
「陶芸家の浜橋皆山が、シルバーバレットなんだよ」