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Section.8 コミック雑誌なんか、いらない(3)

 SDRをガレージに入れ、照明を消してからとぼとぼと一人で歩いてケルンに戻ると、さすがに今日は誰もいなかった。

 この街に来て四日目で、初めての独りぼっちの夜だった。

 アイコは少しほっとし、少し心細く思いながら、店の鍵を内側からかけて、寝泊まりしている奥の和室に向かう。

 途中でふと気がついて、カウンターの中に入り込み、朝方の残りの菓子パンを見つける。それから、冷蔵庫を開けると、例の三角形のコーヒー牛乳パックがあったので、それを拾って部屋に転がり込んだ。

 かなり、くたくただった。

 昼間温泉に入ったせいか、結構体は冷えていないが、帰り道もダートだったから埃はかぶっているような気がした。さっきSDRもろともエア・ブロアを浴びたので、レザーのライディング・ジャケットの埃はほとんど吹き飛んでいた。

 アイコはジャケットをハンガーにかけて窓枠に吊るすと、なんとなく埃っぽいTシャツとジーンズを脱ぎ捨て、バスタオルをもって風呂場に駆け込んだ。

 とりあえずシャワーを浴びて汚れを落としたかった。

 熱めのお湯で髪と体をさっと洗うと、アイコはこの前膝小僧に穴の空いてしまった、部屋着用の赤いジャージに着替え、敷いたままの布団にぼす、と倒れ込んだ。

 咽を潤すために三角パックのコーヒー牛乳にストローを突っ込んで、寝ころんだまま、ずずず、と吸いあげる。天井の模様が、心霊写真のようだった。アイコは、そういうものにてんで恐怖を抱かないのだが。

 コーヒー牛乳を飲み終わると、アイコは体を引きずるようにして、持ってきたままのボストンバッグに手を伸ばし、トラベルセットの入った半透明のポシェットをとり出した。

 歯ブラシと歯磨き粉のチューブをとり出して、布団の脇に避けてある折畳み式のちゃぶ台の上に置く。とりあえずデザートの菓子パンはとっておくことにして、アイコは歯を磨くために洗面所に立った。

 さっぱりして帰ってきてみると、今度は、ガラクタのようなものが突っ込んである、小さな床の間が妙に気になった。

 古いマージャン牌の箱。将棋盤、碁盤と、それぞれの駒。オセロゲームや人生ゲームのくたびれた箱。

 その中に、写真立てがあった。

 アイコは、何気なくそれを手に取って、表を向けた。

 とたんに、電気が走ったように震え、写真立てを取り落としそうになる。

 その、高級そうな作りの、銀のフレームの写真立ての中には、一人の少女が映っていた。

 日本人形のような黒い髪、切れ長の黒目がちな瞳。肌色というより白磁のように白い肌。

 その少女が、肩がむき出しになるような白いレースのワンピースを着て、崖に面した道の際に立ち、向こうの山から流れ落ちる、細い滝の前で笑っていた。笑っているのに、どこか陰気に見える表情。逆光の上にすこしピンボケな写真だったが、それでもはっきりと被写体の特徴は捉えているように見える。

 「天井の、顔みたいに見える模様」は平気なアイコだったが、この少女の写真の薄気味悪さには、思わず身震いしていた。

 そして、その写真の背景には、アイコも見覚えがあった。

 家庭教師でもとのSDRの持ち主、ひょっとしたら「狼男」でもある、新田史郎の見せてくれた写真の滝。上泉聖と、一緒に見た滝。そして、岸川摩耶と上泉久の死んだ場所から見える滝。

 アイコは、写真の少女が岸川摩耶であることを確信した。

 一樹が、摩耶の印象を的確に捉えていたことも分かった。

「なんだ、コイツ……」

 アイコはびくびくしながら写真立てを裏返した。何か書いてある。

 アイコは蛍光灯の明りに照らして、その文字を見てみた。

 日付と、それから、見たことないような文字。

「Подарок с любовью.」

 指で形をなぞってみて、首をかしげる。

 イギリスとドイツには住んでいたことがあるが、こんな文字は見たことが無かった。

 多分ロシア語なのだろうと検討はつくが、意味は分からない。

 アイコは首を傾げて、もう一度写真を表に向けた。

 そして、元の場所に戻そうとして、やはりまじまじと見つめ直す。それから、ちゃぶ台の上に投げ出した、白い革のパスケースにおそるおそる手を伸ばし、それから、震える指でラミネート加工された写真をとり出す。

「なんで……」

 二つの写真を並べてみて、アイコは絶句した。

 その二つの写真は、ほとんど同じ時間に、同じ場所で、同じアングルから撮ったもののようだった。

 一方には、上泉久のことが好きで、久と同じチューナーにSDRを造ってもらっていたという、岸川摩耶。

 もう一方には、摩耶のSDRの持ち主となり、アイコの家庭教師でもあった新田史郎が、ジャック・ウルフスキンに身を固めて、苦笑するような表情で映っている。

 両方とも適当にピンボケな、逆光の写真。

 アイコは、フレームと写真の両方を、畳の上に取り落とした。

 フレームの方は、がしゃ、と音をたてたが、畳のおかげか特に壊れはしなかった。

「やっぱり、先生が『狼男』なんだ……」

 ぶる、とアイコは身震いした。

「でも……岸川摩耶と同じアングルで、岸川摩耶のSDRと一緒に、ジャック・ウルフスキンの服で映ってるのは、どうして? 」

 岸川摩耶も、死んだんだっけ。

 アイコはぐらぐらと地面が回るのを感じて、布団に倒れ込んだ。

 自分の大切なものが、急に見知らぬものに変わったような気がした。

 感じたことのない喪失感と、泣き出したくなるような淋しさが、アイコを布団に押しつぶす。また自然に涙があふれだしてきた。

「あたし、また泣いてる」

 アイコは、涙を拭おうともせずに、独り言を呟く。

「また、泣き虫、って聖さんに笑われる……もう、嫌だ」

 ぐ、と、アイコは拳を握った。うつぶせの体は、起き上がることができない。

「あたし、先生に会わなきゃ」

 ショックは、頭ではなく体の方を直撃したらしい。ぼろぼろ涙がこぼれ、体が震えるのに、頭の中は不思議に冴えていく。

「会って、ちゃんと聞かなきゃ」

 どうしてあたしに、そのバイクを与えてくれたのですか?

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