Section.8 コミック雑誌なんか、いらない(2)
「どこを走ったら、こんな砂ぼこりだらけになるんだ……」
ガレージの外側に持ち出したエア・コンプレッサーを、ぶしゅ、ぶしゅ、と吹かしながら、大島が呆れたように言う。
目の前には、サーチライトに照らされた、土ぼこりだらけのSDR。
サングラスにマスク、白いTシャツにジーンズ、エプロン姿の大島は、エアで車体に入り込んだ土ぼこりを吹き飛ばしていく。
「ごめんなさい……」
夜風の冷たさに身震いしながら、ガレージの壁際に積まれたタイヤの山に腰掛けたアイコが、しょぼんとした声で答える。
「予土さんがどんどん先に行っちゃうもんだから、ついつい熱くなって追いかけちゃった」
「ああ、皆山先生のところ、行ったんだってな」
大島が、けほけほ、と咳き込みながら言う。
「あそこ、とんでもないところだろ」
「うん」
アイコは、両手を広げて、タイヤの山から立ち上がる。
「がったがたで、舗装されてなくて、ずるずるで、車も通れなさそうだった! 」
「……楽しそうだな」
「……でも、最後に立ちゴケた……」
一瞬元気に喚いて、アイコはまたしょぼんとタイヤに腰掛けた。
「まあ、四駆の軽バンかオフロードバイクでもないと入りにくい道だな、あそこは」
「どうやってあんなところで商売やってるのか、不思議だった……」
アイコは、自分の膝に肘をつき、掌にあごを載せて、呟くように言う。
「そしたら、みんな歩いてくるんだって! 温泉とか料理屋さん目当てじゃなくって、山歩きのついでに! 」
「ああ」
大島は、作業を続けながら、言う。
「グリーンツーリズムだかなんだかで、旅行会社とタイアップしてるんだったか」
「そうそう……で、ガスは来てなくて、カマドで料理してるのに、電気とかインターネットがあるの! 変なの! 」
「そう言ってしまうと身もフタもないな」
大島は苦笑いしながらエア・コンプレッサーを止め、水のホースに持ちかえる。ガングリップ型の蛇口を持ち、概ねきれいになったSDRに水洗いを始める。
みるみる、曇っていたフレームが、銀色に輝き始める。
水飛沫がサーチライトに跳ねて、小さな虹。
アイコは瞳を輝かせて手を叩いた。
「いっとくけど、まだワックス効いてるからこれで済んでるんだぞ」
「分かってまーす」
大島に釘を刺されて、アイコはまた俯いた。
「まあ、お前さん、素質はあるよ」
俯くアイコにはお構いなしに、大島が言う。
「結構ピーキーに仕上がってるこいつで、予土についてダート走ったってんだから。最後にコケたっつうけど、普通ならダート入った途端にスッテンコロリでもおかしくない」
「予土さんだって、ロードタイヤだったし」
「あいつは二〇年ものだぜ? 昔はF3で鈴鹿四耐に出たこともあるベテラン、しかもタイヤはロードタイヤでも車体はもともとオフロード」
「むー」
大島はウェスでSDRのボディをさっと拭き、水のホースからエアのホースに持ちかえて、細部の水滴を吹き飛ばしにかかる。
「SDRもエンジンはもともとオフロード用だし、車重も軽いから、まあ、グリップ
しない路面でもなんとかなるんだろうがね。ついていったってのは、まあまあじゃねえか? 」
「まあまあ、か」
アイコは、俯いたまま、膝を抱えた。
茶色っぽく細い髪質のショートカットは、ちょっと逆立っている。
「まあまあ、じゃ、その子、可愛そうなんだよね」
「ん? 」
大島は、アイコの言葉が引っかかって、振り向いた。
アイコは、膝と胸の間に顔をうずめるようにして、丸まっていた。
「マスターは、その子のこと、よく分かってる? 」
「ああ」
大島は、天を見上げてから、頷いた。降ってきそうな星空。
「よく分かったよ。こいつは、大事に大事に作られた。その後、ちょっとキツイ場面を経験して、それからお前さんところで具合悪いまましばらく走ってた。壊れなかったのはもとの出来がよかったおかげ。で、お前さんが聖のところにやってきたおかげで俺が治療してやった」
「あたし、昨日マスターから鍵を受け取って乗ってみるまで、この子のこと、何も分かってなかった」
「……」
「結構、一緒に走ってたのに。この子が痛い痛いって悲鳴を上げてるのにも気がつかなかった」
「無理もないさ」
大島はエア・コンプレッサーを止め、横倒しにしたプロパン・ボンベに車輪のついたようなそれに腰掛けて、エプロンのポケットから煙草をとり出した。マスクを外して、いつものように、火をつけずにくわえる。
ふう、と、火のついていない煙草を吹かすように息をついた。
「お前、教習車以外のバイク、あれしか乗ったことないだろ」
「うん……」
「あれよりコンディションの悪いバイクだって、ざらにあるさ。こいつは、作った奴と、お前さんの前の持ち主とが丁寧に育ててくれてたから、お前さんが気付くまで壊れずに待っててくれたのさ」
「マスター」
「ん? 」
「ロマンティストだよね」
ぶーっと、アイコは吹き出して、あはははは、と爆笑する。
目尻に涙まで浮かべながら。
大島はぽろ、とくわえた煙草を落とし、頬を真っ赤に染める。
「バカヤロ、お前が落ち込んでるかと思って優しくしてやればつけ上がりやがって」
「わあ、ごめん、怒らないで! 」
笑っているのかと思えば、今度はひっく、ひっく、としゃくり上げ、目に涙を溜めながら、でもやはり笑いを止められないらしく、アイコはタイヤの山から落っこちて地面に転がった。
ひー、ひー、と咽を鳴らしながら、のたうち回る。
大島は、呆れたようにアイコを見守るしかなかった。
しばらくすると、アイコは、うずくまって動かなくなった。まだ、肩で息はしている。
「マスター」
アイコは、苦しい息の間から、絞り出すように、言った。
「先生は、『狼男』なのかな」
「……」
「聖さんのお兄さんを殺した、のかな」
大島は、ち、と舌打ちして落っことしたショートホープを拾い、砂をはらってくわえると、今度はちゃんと火をつけた。
ふー、と、白い煙。
「さあな」
大島は、突き放すように言った。
アイコは、びくん、と体を震わせた。
「だが、これは言える」
大島は、また空を見上げた。サングラスに、蠍座が映る。
「ただの鉄の塊を愛せる奴が、人間を愛せないわけはない」
「また、クサいこと言う……」
今度は笑わずに、うずくまったままアイコが言った。むしろ、泣いているような声だった。
「大島さんは、先生のこと、知ってるの? 」
「残念ながら、知らない」
「知りたいと思ってる? 」
「さあな」
大島は煙草を携帯用灰皿で揉み消すと、うずくまったままのアイコを置いて、ガレージの方に戻って行く。
「SDR、ちゃんと屋根の下に入れとけよ。シャッター開けとくから、自分で閉めろ」
「……」
アイコの耳に、大島の足音が遠ざかるのが聞こえ、シャッターを開ける騒々しい音がそれを追いかけてきた。
スポットライトが消え、ガレージの中から漏れてくる蛍光灯だけが、アイコとSDRを照らし出す。
だいぶ長い間そこでうずくまっていたアイコは、やがてのろのろと立ち上がり、SDRのハンドルに手をかけた。
大島がピカピカに磨き上げてくれたSDRを、ゆっくりと押して、土手の下のガレージに運び込む。
アイコはふと空を見上げて、さっきまで大島が見ていた星空に目を向けた。
ひゅう、と、少し冷たい風が髪を揺らした。
「史郎せんせい」
アイコは、SDRのタンクに抱きつくように両手を回して、呟いた。
「あたし、先生のこと、何にも知らないよ」
SDRのタンクはひんやりと冷たく、チャンバーからは、少し焼けたオイルの匂いがする。
「先生は、何を思ってこの子に乗って、何を思ってあたしにこの子をくれたのかな……」
聖の兄を殺した道具かも知れないSDRは、何も答えてはくれなかった。