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Section.2 小娘、ハートブレイク。

「……聖さん」

 恨みがましい目で運転席の聖を見やりながら、アイコが唇を尖らせる。

 それは別に、さっきのサービスエリアで買ってもらった、ダブルのジェラートにかぶりつくためだけではない。ジェラートは、ヨモギと柚子。

「いくらなんでも、人を蹴り込むこと、ないでしょうが」

「いや、私、気が短いモンだから」

 サングラスの下でちら、とアイコを見やって、聖が涼しい声で答える。

 ハンドルを握り、アクセルは結構踏み込んだまま。二車線の高速道路を、銀色のミニバンは法定速度をかなりオーバーして走っていく。

 ディーゼルエンジンの商用車だから、ロードノイズやエンジン音で車内は結構うるさい。その割に不快な揺れが少ないのは、聖の運転のおかげらしい。

「ちゃんと加減してるから、怪我とかしてないでしょ」

「そういう問題じゃない……」

 すました顔で、アイコはヨモギの山の方にかぶりついた。ちょっと苦い味。

「空気投げとかマスターしてる一六歳も相当だけど? 」

 顔の動きでアイコにジェラートを持った手を差し出させ、助手席側に首を伸ばして柚子の方を一口かじってから、聖が言い返す。

「……うあ、マジで柚子だ」

 べ、と舌を出しながら、聖はもう一口柚子ジェラートをかじる。

「アイコ、合気道か古武道でも習ってた? 」

「まさか」

 呆れたような顔をして、アイコは助手席をリクライニングさせる。

 青空過ぎて、目が痛い。

「あたし、マトモにものを習ったこと自体、ないっす」

「へえ? 」

「小学校は日本とロンドン、半分ずつだったし。中学校は一年ごとに転校してて。しかも、オヤジとママのところを往復しただけだから、二回目の転校は元のガッコ戻っただけ。部活も習い事も全部バラバラ」

「で、受験失敗してヤンキーになった、と」

「なってない! ……わわわ」

 聖の余計な付け足しに、アイコはムキになって言い返しかけ、ちょっとしたカーブのGでアイスを落っことしそうになる。

「フロア汚すなよ。汚したらぶん殴るよ」

「さらっとひどい事言うよね、聖さん」

 本当にぶん殴られかねないので、アイコは必死でバランスをとって、ヨモギ側のジェラートを口につっこむ。エアコンは効いているはずだが、日差しが強すぎるせいか溶けるのが早い。アイコは、とっくにレザーのジャケットを放り出して、白いタンクトップになっている。肩のあたりは、日焼けで赤くなりそうだった。

 聖は、いつものように、スリー・ピースのダークスーツで隙もなく身を固め、メイクもばっちり、日焼け止めもパーフェクト。

 アイコは、つい、ちらちらと聖の方を盗み見る。

「あの……聖さん」

「んー? 」

「聖さんて、無茶苦茶な人なのに、一見するとそう見えないね」

「全然褒めてないね、それ……」

 聖は大げさに悲しそうな顔をして、肩をすくめた。

「ちゃんと仕事してるし。社会人で、自分で生活してて」

「いや、私の年齢になればそうじゃない方が問題あるって」

 いったいどんな大人に囲まれて過ごしているのか、聖の方が訊きたいくらいだった。

「でも、うらやましいな……」

 アイコは、助手席の上で膝を抱えた。

 黙り込んで、ちろり、ちろり、と、コーンの上のジェラートを舐める。

 聖は、ちらり、とアイコを横目で見て、前の車を抜くためにウィンカーを出し、アクセルを踏み込む。

「教習所は? 」

 追い抜きを終えて、ミニバンを走行車線に戻しながら、聖がアイコに尋ねる。

「ん? 」

「通って取ったんじゃないの? まさか」

 アイコが、あわててぶんぶんと両手を振り回す。

「免許はもってるよ! 」

「なんだ」

 聖はアイコからジェラートをひょい、ととりあげ、残りを口に放り込む。

 もしゃもしゃと、ウエハースではなくクッキーでできたコーンを噛み砕く。

「試験場でとった。必死だった。ペーパーテストも、本番は初めてだったし」

「へえ。高校受験、全然しなかったの? 」

「最初の年は、お腹痛くなって受けられなかった」

 アイコは、助手席の窓の外に目を向ける。景色が後ろに吹っ飛んでいく。

 来る時は雨の中を必死で走っていたので、どんな景色かも分からなかったが、聖の車に乗っていればよくわかる。山と空ばっかりだ。あとはガードレールとアスファルト、時々走ってる車。

「へえ、みかけによらずデリケートさんなんだ? 」

「盲腸炎。受験会場に救急車がきた」

「それはそれは……」

 身も蓋もない理由だった。

「東京のインターナショナル・スクール。制服がすっごい可愛いんだ」

「ふうん」

 さして興味なさそうに言うアイコに、聖も生返事。

「で、浪人して。なんかどうでも良くなって、最初のふた月くらいは家に引きこもってた。暇で暇で仕方ないから、格闘ゲームとエア合気道やってた」

「エア合気道? 」

 聞いたことがない単語だったので、一応聞き返す。

 アイコは、あいかわらずどうでも良さそうに言葉を繋ぐ。

「うん。空気相手に投げの練習……というか素振りをやってた。図書館で借りてきた合気道の本見て、ひたすら空気投げだけ。正確に言うと隅落、っていうんだけど」

「ちょっと気持ち悪いかも」

「ずーっとやってたら、なんか畳が擦り切れた」

「かなり気持ち悪さがレベルアップした! 」

 聖は、わざと意地悪な口調で言う。

「よく飽きもせずにやったわねえ。じゃ、実際に技かけたのって、一樹が最初? 」

「うん、最初……」

 と、言いかけて、アイコは口をつぐんだ。ぶるぶると頭を振り、少し思案して、小さな声で続ける。

「だと良かったんだけど」

「最初じゃないんだ」

 聖は、カップホルダーに置いたペットボトルのお茶で、コーンのせいでぼそぼそする口を湿した。路上の青看板に目を走らせると、県境までもう少し。

「初めての相手は、ナンパしてきた茶髪の大学生。三人くらいの体育会系」

「ぬええ? 」

 思わぬ告白に、聖はお茶を吹き出しそうになる。アイコは、少し頬を染めながら、照れくさそうに言う。

「ひきこもって三ヶ月目に、気分転換に行けってオヤジに家追い出されて。街歩いてたら、うるさくつきまとってきて。無理に手を握ろうとしてきたから。最初の一人、ひょい、って捻ったら簡単にひっくり返ったんで、ついつい三人とも」

「傷害事件の匂いがするわね」

「それからしばらくして、なんか噂にでもなってたらしくて。地元のレディースとかに絡まれてた。最初はばっくれてたし、ひきこもってたんだけど、ある日スーパーの裏で囲まれて。いきなり角材で殴りかかってきたから、反射的に投げた。その時は、すぐに店員が来てくれたし、相手も逃げちゃったからそのままになった……まあ、田舎だから、ゾクとか言っても五人で全員だったけど」

「青年誌のヤンキー漫画みたいな希少な経験ね」

「その後は、オヤジと喧嘩して一回ぶん投げて……あと、家庭教師を一回」

「DVにも手をだしてたのか。てびろく暴力事件手掛けてるな」

 言葉ほどには驚いた風もなく、聖が合いの手をはさむ。

「やろうと思ってやってるわけじゃないし」

 アイコは、頬を染めたまま、唇を尖らせた。

「普通はやろうと思ってもできないし、やったら相手が大怪我して警察のお世話になるレベルね……あ、次の出口で高速おりて、ちょっと寄り道していい? 」

 聖は少しサングラスをずらし、口許に微妙な笑みを浮かべて、ちらりと見た。

 ものすごく意地悪そうでもあり、優しそうでもあり、矛盾するようだがちょっと無表情なようにさえ思える微笑。アイコは思わず身震いし、助手席で縮こまる。別に親切なわけではなく、お気に入りの玩具を手に入れて喜んでいるだけのようにも見える微笑。

 よくよく考えると、アイコには、なんの選択権も与えられていない。SDRはバラバラだし、車の持ち主も、車を運転してるのも聖。逃げ出しても逃げ切れなさそうな雰囲気だし、殴り合っても勝てそうにもない。どうやっても聖の手の内から逃れられない自分に、アイコはあらためて気付いた。そして、同時に、そのことがさほど頭にこないことにも気付いていた。これまで、自分を同じように扱ってきた連中には、体中の血液が沸騰するほど腹が立ったが、不思議と、聖にはそういう感情がわかなかった。

(ああ、そうか……)

 アイコは、サングラスをかけ直して前方に視線を戻した聖の横顔を眺めながら、勝手に納得する。

(同じ種族だから、かな? )

 アイコは、不意に胸が苦しくなった。

 自分でも意味がわからないのに、涙が両目からあふれ出すのを感じた。

「わ、なになに? どうした? ! あたし、どうかした? ! 」

 ふえええ、と声を出して泣き始めたアイコに、今度は聖が慌てる。

「ちが……ちがうよ、聖さん」

 泣き続けながら、ふえへへ、と、アイコが笑う。

「へんに慌てないでよ、ぶち壊しじゃん」

「泣いてるのか笑ってるのかはっきりしてよ! 」

 怒鳴ってから、聖も、吹き出す。何がおかしいわけでもないのだが、何故か、笑えた。

 わはは、と大笑いするスーツ姿の美女と、涙で顔をぐしゅぐしゅにしながら笑う少女を乗せて、銀色のミニバンは高速道路の本線を離れ、ランプへ向かっていく。

「この車、乗り心地悪いね」

 ランプの荒れた路面でぎくしゃくと助手席の上で跳ねながら、アイコが呟く。

「んー。まあねえ。古い型の商用バンだしねー。トランスポーター仕様だから買ったんだけど。燃費いいし、よく走るから、乗り心地は我慢かな。一応6人乗れるから取材でも結構使ってるんだけど」

「取材って、結構荷物あるの? 」

「内容によるけどねー。写真撮りとかあると、人によっては大荷物だよ」

「こんな大きいバンでも足りないくらい? 」

「流石に、そこまで本格的なカメラ使うような仕事は、この辺には転がってない」

 聖は苦笑する。

「たいてい最近はデジタル一眼だから、三脚とレンズくらいかな。ただ、バイク載せっぱなしになってたりするから、結局モノ乗らないんだけどね」

「へえ……」

 アイコは、リクライニングした助手席の背もたれの上で寝返りをうち、うつぶせになるようにして、バンの荷室に目をやった。

 2台分の積載スペースに、バンジーケーブルで固定されたフルカウルの大型バイクが一台。凶悪な一つ目小僧のような、白と青のバイク。ぴかぴかに磨き上げられているが、よく走り込んでいるように見える。

「どおりで油臭いと思った」

 なんとも微妙な表情で、アイコが呟く。困ったような、面白がっているような。

「これ、聖さんの? 」

「そ」

「これ、なんてバイク? 」

「スズキのGSX−R。ナナハン。イッコ前の、ノーマルで一五〇馬力の逆輸入車。一一〇〇じゃ重すぎるし、六〇〇だと物足りないからナナハン」

 割にそっけない答え。

「へえ」

「……を、マスター……大島先輩にいじってもらった。ポジションとマフラーくらいだけど」

 聖は、ほんの少し照れたように口笛を吹いて、付け足した。

「ここまで高性能な大排気量車になると、いじる方がバランス悪くなるからね」

「でっかいなー」

 アイコが、妙にうれしそうに言う。

「後ろでいいから、一回乗っけてもらえない? 」

「残念ね」

 聖が、そこだけ妙に固い声で、言った。

「そいつは、シングルシート仕様なの」

 アイコは、笑顔のまま固まった。ちょっと気まずい、沈黙。

「アイコのSDRだって、シングルシートでしょ」

 とりなすように、聖が言う。

「そうだけどさー」

「だいたいあんた、タンデムシートにおさまってるようなタマ? 」

「……」

 返事もせずに、膝を抱えて爪を噛み始めたアイコに、聖は小さく溜め息をひとつ。それから、煙草を一本くわえて、シガー・ソケットで火をつけた。ショート・ホープ。

 それきり、二人ともしばらく黙り込んだ。

 聖とアイコを載せたバンは、新しい国道をそれて、現在は県道になっている、二車線の旧国道の峠道に入っていく。道幅はそれなりにあるが、路面はほどよく荒れていて、バンが時折ぴょこんと跳ねる。アイコも、そのたびに助手席でぴょこんと跳ねる。

 時々、ごん、と頭をウィンドウにぶつけたりしながら。

 ぎしゅ、ぎしゅ、という、GSX−Rのサスペンションが伸縮する音が、風切り音とエンジン音の合間に耳に入ってくる。

 小さいアップダウンとカーブの繰り返し。

 窮屈そうに走るバンの助手席側は、夏の、濃い緑の森。

 運転席側は、ガードレールと深い谷。

 時々、右と左の景色が入れ代わる。

 聖が煙草を一本吸い終わり、もう一本に火をつけてしばらく走ると、峠道は下りにさしかかった。

「アイコ、ここ、走ったことある? 」

 シフトダウンしてバンを減速させ、煙草を灰皿でもみ消して、聖がアイコに尋ねた。サングラスの下の視線は、どこか遠くを見ているように見える。口許には、微笑。

「……」

 アイコは、思わず周囲を見回して、少し、考え込む。

 見覚えは、なかった。ないのに、なんだか知っているような気もした。

「こっちからいくと、まず、緩いS字が二つ連続」

 道筋を確認するように、バンはゆるやかに路面を滑っていく。

 ここでは、左手にガードレールが見える。消えかけているスプレー・ラッカーの落書き。

「ここは、結構スピードが乗るんだ」

 指でなぞるように、バンはカーブを通過していく。ひとつめ、左カーブ。続いて、右カーブ。短いストレート、大きいS字カーブがもう一回。

「ところが、気持ちよくアクセル開けてると、ここで道がちょっとあがって、急降下」

 聖の言葉通りに、バンも少し上を向き、それから少し急な下りにさしかかる。

「ここ、車で走ってるとそうでもないけど、バイクで走るとジェットコースターみたいだよ。ジャンプしたりするし」

「GSX−Rで? ! 」

 突っ込むアイコを無視して、聖は話を続ける。

「で、着地したとたん、次の左ヘアピン」

「ガン無視かよ」

 唇を尖らせながら、それでもアイコは路面に目をやる。

 左がガードレール、右は反対車線。路面は修復跡がいっぱいで、決していい状態ではない。ガードレールの向こうは、やはり深い谷。遠くの山なみの緑が濃い。

「で。このヘアピンを抜けると、ちょっとした登りのストレート」

「アクセル開けたくなる直線、て奴? 」

 アイコは、腕を組んだ。……同じ話を、前に誰かから聞いた気がした。

「こういう直線、大排気量車相手だと、SDRじゃ絶対追いつけないね」

「そんなレースまがい、やったことないし」

 自分の愛車を引き合いに出されて、アイコは唇を尖らせる。

「向きが逆なら、SDRでもなんとかなるだろうけどね」

 聖は、アイコに話しているようでいて、通じていようが通じていまいが構わないような話し方をしていた。

「ここで、たとえばGSX−RとSDR、全開ならどかんと差が開く」

「ぶー」

「仕方がない、出力七倍なんだから」

 頬を膨らますアイコに、聖が、小声で呟く。何故かまた、少し固い口調。

「で、その次が変則ヘアピン」

 ぐっ、とバンが減速する。二七〇度くらいの急激な右カーブ。

 曲がりきったところで、一度左にステア、そこからさらに急激な右カーブ。

「わああ! 」

 目の前から急に道がなくなって、アイコが悲鳴をあげる。一瞬目をつぶり、あわてて見開くと、どうってことはないカーブの出口が見えた。

「錯覚よ」

 聖が、ひゅう、と口笛を吹く。

「右カーブがきついのと、ガードレールがそこだけ切れているせいで起こした錯覚」

「うわう! 」

 アイコは、ぴょこ、とシートの上で飛び跳ねた。

「錯覚だっちゅーに、大げさな」

「違う違う! 」

 ばんばん、と、アイコは聖の肩に平手を何回も叩きつけて、わめく。

「あれあれ! 」

「痛え! 何すんの……って、おいこら! 」

 聖がハザードのスイッチを押し、バンを路肩に寄せて停めようとする。

 車が停まるか停まらないかのうちに、アイコは助手席を飛び出し、そのまま崖に飛び込んでしまいそうな勢いでガードレールのない路肩に飛び出す。

「こらてめえ! 聖様の目を盗んで自殺でもしようってのか! 」

 アイコを上回る素早さで回り込んだ聖が、思わず怒鳴って、拳骨をアイコの脳天にお見舞いする。げひゃ、と、女の子らしくない悲鳴をあげてアイコがショートカットの頭を抱えて、思わずしゃがみ込む。

「ってえ! 何すんのよう」

「落ちたらどうすんのよ! 」

「落ちないよ! ……わわあ」

 立ち上がって後じさったアイコは、仰向けに崖の方にひっくり返りそうになる。聖があわててアイコの手をつかみ、転ばないように自分の方に引き寄せた。

「ほら! あんた自分が思ってるより数段ドジなんだから気をつけて! 」

「くう、反論の余地がない……っても、いきなりグーで殴ることはないと思う……」

「ああ、ごめんごめん、つい脊髄反射で」

 にこやかに言う聖に、べえ、とアイコは舌を出した。

「……じゃなくて、何見つけたの、アイコ」

「あ、そうそう! 」

 アイコは、気を取り直してぶんぶんと両腕を振り回し、それから、ガードレールの向こうの谷を指さした。

 聖が、その指の先を目で追う。

 そこには滝があった。

 山の中腹の、岩肌が露出した急な崖が真ん中からえぐれ、そのオーバーハングから二〇メートルほど落っこちる、高くて細い滝。大きな滝壺が、鏡のように光っている。

 まるで映画のセットのような滝。

「なんだ、不動滝? 」

 呆れたように、聖が尋ねる。さして関心なさそうに。

「あれ! みたことある! 」

 アイコは、妙に興奮して、聖の袖をぶんぶんと引っ張る。

「そりゃそうだろ。この辺じゃ数少ない名所だし……」

「ちーがーう! 」

 聖があまり真面目に取り合わないので、頬をぶー、と膨らませる、ウェストバッグに手を伸ばし、ごそごそと中を引っかき回して、何か紙切れのようなものを取り出す。

「そうじゃなくて、これ! 」

 アイコは、人差し指と中指にそれを挟んで、聖の鼻先につきつけた。

 ひょう、と、小さく風が吹いて、アイコのショートカットが揺れる。

「先生の記念写真! 」

 それは、ラミネート加工された写真だった。

 ちょっと退色して、赤っぽくなったプリント。

 聖の目は、それに釘付けになった。

 折り目が入っていた写真を伸ばして、ラミネート加工したらしい。写真には、白い線が縦横に走っている。

 その景色は、まさに今と寸分違わない。

 逆光で、ちょっとピントが甘い写真。

 その景色を背景に、丸いライトの小さなバイクと、バイクに見合った、小さな男性ライダーが映っている。スモーク・シールドのガンメタリックのシンプソン・バンディットに、ジャック・ウルフスキンのオレンジのトレイル・ジャケッ

トとパンツ。ブーツも多分、同じメーカーのトレッキング・シューズ。

 それは、聖の良く知っている姿だった。その姿を実際に見たことはなかったが、繰り返し繰り返し話に聞き、写りの悪い写真を穴が空くほど眺めて目に焼き付けた姿。

「狼男……」

 聖は、口の中で呟いていた。

「あたしの元家庭教師で、あのSDRの本来の持ち主」

 アイコは、聖の呟きになど気づきもしないで、ほのかに頬を上気させながら、説明する。

「だから、ここに来たかったんだ……」

 言ってから、アイコはあわてて口をふさぎ、写真を引っ込める。急に我に返って恥ずかしくなったらしい。聖に背を向け、谷の向こうの滝に視線を投げる。

「でも、こんな近い場所だったんだ……なんかちょっとガッカリだな」

 聖は、ふう、と深呼吸のように息を吸い込んだ。意識して体の力を抜き、アイコの頭をくしゃ、となでる。

「アイコ」

「ん? 」

「聞かせてくれる? その、先生のこと」

 アイコは、聖の方を振り返ると、不思議そうに首をかしげた。

 まるで、小さな女の子のような表情だった。

 色素の薄い瞳と、作り物のように白い肌理の細かい肌が、急に周囲から浮き上がったように見えた。

 聖とアイコは、どちらともなくバンに戻ると、ドアを閉めた。

 聖がもう一本、煙草に火をつける間、アイコはドリンク・ホルダーの、ぬるくなったコーラのペットボトルに手を伸ばす。ひとくち、飲んで、まずそうに顔をしかめる。

「新谷史郎……っていうんだ」

 顔をしかめたまま、アイコが口を開く。

「あたしの家庭教師。変な人だった」

「へえ? 」

 吐き出す煙。少し開けたウィンドウから、車の外に流れていく。

 二人を乗せたバンは、滝壺を片眼にみながら、ゆっくりと走り出した。

「さっきも言ったと思うけど、あたし、高校受験失敗して、ひきこもってたんだ。去年の四月から、七月くらいまで」

「……」

「で、親が家に寄りつかないのをいいことに、ずっとひきこもってた。ゲームとかやらないし、テレビも続けて見てると耳が痛くなってくるタチだし、音楽も興味ないから、やることなくって、パパの書斎の本ばっかり読んでた。少しは日本語とか英語の本もあったけど、大半は英語以外のどこかの国の言葉だったから、同じものばっかり繰り返し読んでた。あとは、さっきひたすら空気投げの練習してた」

「不健康な生活ね」

 半ば見当はついていた、という表情で、聖が答える。

「カビとかキノコ生えるわよ」

「パパもそう思ってたみたい」

 えへへ、と、時折見せる子供っぽい表情で笑って、ぺろ、と舌を出して答える。

「たまに外出ると、暴力事件起こすしね……全然そばにいない割には、良く観察しているよね、自分の娘」

 ぐらり、と、路面のギャップでバンが揺れた。

「でもって、送り込んできたのが新谷史郎って人だった。高校中退して、バックパッカーやってから大検とって学生になったんで、結構トシで。初めて来た時も、髪もじゃで丸いサングラス、とかで。草臥れたトレッキング・ウェア着て、ちっちゃい、ぱらんぱらん五月蠅いバイクにでっかい荷物積んで乗り付けて」

「どこの松田優作? 」

 聖は、のろけ話を聞いている気分になって、くわえ煙草をすぱすぱとふかす。まるで煙幕でも張ろうとしているよう。

「身長は一七〇センチだったけど」

「ぶ」

「最初は見るのも嫌だったんだけど、ちょっとしたきっかけで話をするようになって。パパの本棚にあった『モーターサイクル・ダイアリーズ』みたいな旅の話とか、アメリカで草レース出た時の話とか。アルバム見せてもらったりもして」

「あんた、読んでるモンが渋すぎると思う」

 路面が荒れていて、二人を乗せたバンは、ぎくしゃくとダンスを踊る。後ろのGSX−Rも、それにあわせて踊る。

「最初は、高校受験やれなんて言わなかった。ただ、せっかく高校行ってないんだからバイクの免許とれ、とか言われて、河川敷で先生のバイク借りて練習した」

「教習所は行かなかったの? 」

「んー、結局先生にサジ投げられた」

「夏休みの間だけって約束だったし、家庭教師も。でも、その何ヶ月か後に、教習所に行った。」

「ふうん」

「でも、十二月が終わる頃に、あたしは引きこもりをやめて、教習所に通った。免許とれたら、先生のバイク、貸してくれるって約束したし。もしちゃんと高校通ったら、日本で一番きれいな夕焼けをご褒美にみせてやるって」

 耐えかねて、聖は煙草をもみ消した。

「ちょっとキモいかも」

「そうかな……」

 アイコは、ちょっと不服そうに唇を尖らせる。

「普通にそれを受け取るあんたも相当ネジが外れてると思う」

 ちょっと意地悪い口調で、聖が追い打ちをかけた。アイコは唇を尖らせたまま頬まで膨らませる。しかし、聖がふざけて言っているのは分かっているようだった。

「ううう……確かに変な人だったよ。うちにバイトに来てる間は、河川敷のテントで暮らしてたし。でも、」

「でも、好き? ひゅうひゅう」

「うううう」

 涙目で頬を真っ赤に染めながら、それでもどこか楽しそうな表情で、アイコはぷい、とサイドウィンドウの方に顔を背けた。

 あはは、と、声をたてて笑った聖は、アイコがそっぽを向いた瞬間、急に凍ったように無表情になり、つまらなそうに爪を噛んだ。

 きゅう、と、胃のあたりが苦しくなる。


 上泉聖に拾われて、一度自宅に戻ったアイコは、結局、三日後にもう一度、あの湖畔の町に戻ることになった。

 父親には電話が通じなかったので、メールで事情を説明し、新しい連絡先を伝えた。とりあえず、一月くらいはそこにいる予定、と伝える。特に返事はなかった。

 アイコは、中学校の学校指定ボストンバッグに着替えと身の回りの品を詰め込み、その他のもの……アウトドア・グッズとバイク用品ばかりだが……は、段ボールに突っ込んで宅急便で送ることにした。例の喫茶店の奥の部屋には、それくらいしか入りそうになかった。他には、携帯電話と『モーターサイクル・ダイアリーズ』一冊だけ。黒のジーンズに黒い無地のTシャツ、ジャック・ウルフスキン、ちょっとボディラインに沿った形の、パンプキン色のフィールドベスト。

 財布とカードの残高はちょっと心許ない。仕送り口座にはもう少し金が入っているはずだが、電気代だの水道代だのが引き落とされるから、そっちには手をつけないでおいた。

 一応、聖に教わったように、火の元を確認してからブレーカーを落とし、家中の鍵を閉め回ってから、玄関を出た。

 二年くらい住んでいる借家は、ごく普通のハウスメーカーの家で、借家にしてはガレージや庭も広かったが、アイコはあまり好きではなかった。壁が青っぽくて、屋根のオレンジ色のスレートと合っていなかったからだ。

 それから、すぐそばの幹線道路に出て、そこにあるバス停から路線バスに乗る。他に客が誰も乗ってないバスで終点のバスターミナルまで行き、そこから切符を買って列車に乗る。

 M駅までの切符は、自動販売機では買えないようだった。

 それに駅員にきくと、特急に乗らないととんでもなく時間がかかるという。

 特急料金とか指定席とか、駅員の言うことがよく分からないので、「煙草を吸わない席で、空いてて座れるところを、M駅まで」と窓口で言ったら、なんだかとても高い料金を告げられた気がしたが、仕方ないのでそれを買って、列車を待つ。

 この路線はまだ電化されていないので、列車のことを電車ではなく汽車と呼ぶんだ、とか、父に聞かされたことを思い出す。

 次の列車まで三十分くらいの待ち時間。駅の中のマクドナルドで時間を潰そうと思っていたら、ちょっと前に閉店していた。仕方がないので、キオスクで駅弁を買い込み、ついでに土産を物色して、プラットホームにあがる。

「結局、聖さんにはかなわないんだよな……」

 ホームのベンチに腰掛けて、間違ってホットを買ってしまった缶コーヒーに口をつけながら、アイコは少し考える。

 送ってもらった日、家の近くのファミリーレストランで昼のランチを食べながら、聖が言った言葉を思い出す。

「もし、迷惑じゃなかったら、SDRが組み立てられるまで、うちで仕事してみない? 」

 言いながら、聖はあの、別に高圧的でもないのに有無を言わせない笑顔を浮かべていた。とても、目玉焼きハンバーグなんて子供っぽいものを食べているとは思えないし、ドリンクバーを五回も往復しているようにも思えない。そういうアイコは、意地汚くグラタンの皿の縁の、焦げたチーズをフォークでがりがり削って口に運んでいたのだが。

「ケルンのあの部屋でよければ、タダで貸してもらえるし。不肖上泉聖、たいていの事柄に対するキャパシティは、あんたより大きいわよ」

 そう言われて、アイコは反射的にフォークを放り出し、何故か席から立ち上がって答えていた。自分でも、気付かないうちに。

「やってみる! 」

 自分でも驚くくらい大きな声だった。回りの客やウェイトレスが、びっくりして固まっていた。

「ちょ、アイコ、興奮しすぎ! 」

 聖は、たしなめるような言葉を口にしながら、その実、妙に上機嫌な表情。

 アイコは我にかえって周囲を見渡し、真っ赤になって、崩れるように椅子に座り直していた。

 アイコは、すぐにスイッチが入って、回りが見えなくなる自分の悪い癖を、この数日ではじめて自覚した。というよりも、聖と会話していると、いつもより積極的になるせいで、振れ幅が大きくなるようだった。

 普段はかなり引っ込み思案で無口、学校では無愛想でクールで不良っぽい奴で通っていたのだが。回りが見えなくなるほど入れ込むこと自体が少なかっただけで、本質的にはむしろあつくるしい性格であるらしい。アイコには、それが新鮮だった。新田史郎といる時の自分もこうだったのだろうな、とも思う。その時は、新田のことしか目に入っていなかったので、自分のことを冷静に観察することができなかったが、聖は自分が熱くなりすぎると冷水をぶっかけてくれる。

 そのおかげで、自分を無理やり見つめ直させられているような気もしたが。そもそも最初から、アイコの意志など関係ないようなものだったのだろう。

「まあ、でも、自分が行きたいと思ってるんだから、これでいいよね」

 飲み干したコーヒーの空き缶をゴミ箱につっこみながら、アイコは一人で勝手に納得する。

「だいたい、聖さんがあたしを気に入る理由だってよく分からないんだし」

 先発の普通列車が入ってきて、ホームにいた大学生たちがばらばらと乗り込んでいく。アイコは降りる人波からも乗る人波からも取り残されて、一人になる。

 こんな時、アイコはぼーっとしている。

 別に音楽を聴いたりもしないし、雑誌を読んだりもしない。

 風の匂いを嗅いだり、日差しの温度を感じたりしていると、どんどん時間が過ぎて行ってしまう。

 プラットホームの風は、錆びた鉄の粉、ディーゼルエンジンの排気ガスの残り香、たくさんの人間たちの残した匂い。汗だったりデオドランドだったりポマードだったり。このくらいの小さい駅だと、かなり鮮明に感じるので、さほど気持ち悪くない。東京とかロンドンでは、気をつけていないと受けとめられる限界を超えるくらい混じり合った匂いになって、目眩がする。

 太陽の光は、空気が澄んでいるせいか、紫外線も赤外線も、全然減衰しないで肌に突き刺さる感じ。聖に教えられて、日焼け止めを一応塗ってはいるのだが。友達も女親もいないと、女として何をすればいいのかも分からない。よくよく考えると、聖くらい馴れ馴れしく接してくる女に出会ったことがないような気もする。

 ぼーっとしている間に特急が来たので、あまり深く考えずに乗り込んで、指定席に座る。ちょっと鼻をつく、古い列車独特の匂い。気がつくと走り出していて、がたがたと列車が揺れる。

 何回か駅に停まって、列車は走り続ける。行き先が終点なので、ぼんやりし続けていても乗り過ごす心配はない。

 その気になれば、何分でも、何時間でも、何日でも、飽きずにぼーっとしていられるのは、特技かも知れないな、と自分でも思う。

 しかも、指定席の車両には、アイコの他に誰も客がいなかった。

 ずっと、一人。

 日差しが傾いて少しオレンジ色がかってきた頃になっても。

 風の匂いが変わって、湖の気配が近寄ってきても、アイコはずっと一人だった。

 列車はやがて終点の駅に近づき、アナウンスが流れた。

 アイコは、ぼっとしたまま、自動人形のようにボストンバッグを網棚からおろし、土産と食べ忘れていた駅弁の入ったビニル袋を手にとって、席をたった。

 

「よう、子虎ちゃん」

 夏の夕陽が回りをオレンジ色に染めつつある頃、ようやく列車は駅についた。

 改札を出てきょろきょろしていたアイコの背中に、聞き覚えのある声が投げつけられる。

「あ、一樹さん」

 ステッカーを貼りまくった、少し古い型の、黄色い小型車で駅まで迎えに来てくれたのは、聖ではなく一樹だった。

 前に会った時とは違う、ちょっと前のプライベート・ブランド製のようなシルエットのダーク・スーツに茶髪、濃いサングラス。

 バイクのエンジンのようなアイドリング音、というより、ドラムでも叩いているような重低音を出す、車高の低いまるまっちい車とは見事にミスマッチだった。靴も、スリムなスーツとあまり合っていない、履き古しのドクター・マーチン。

「わー、なんですかこれ? 」

 回りを通り過ぎる、帰宅途中の学生やサラリーマンがじろじろと眺めるのは、アイコも一樹もたいして気にならないらしい。

「セミ・ラリー仕様のストーリアX4」

 だっせえ、などと通りすがりの女子高生グループが悪態をつくのが聞こえたが、アイコのバッグを代わりにもってやって、それから車のドアを開けてやる。

 助手席と運転席は薄っぺらくて座り心地の悪そうなバケットシート。もとのままの後席の後ろは、ロールケージで埋め尽くされている。一樹は後席にアイコのバッグを突っ込んで、アイコが座った助手席のドアを閉めてやる。

「一樹さん、レースやってんの? 」

「いや、金なくって、ダチから安く譲ってもらった。車検一年ちょっと残ってるから、そこまで乗ったら放棄する予定……エアコンの効きが悪いのと燃費が悪いのは玉に傷」

「なーんだ」

「あからさまにがっかりすんなよ! 」

 大声で主張しながら、運転席に滑り込む。

 ペダルもシフトもレース仕様になっていて、とても乗りにくそうだった。

「俺はマスターや聖さんみたいな非常識人じゃないっつーの」

「一樹さんって常識人? 」

「おうよ」

 一樹は答え、神経質にクラッチをつないで、駅前のパーキング・スペースから車を発進させる。低速トルクが全然ない上にフケ上がりがいいエンジンなので、いつも走り出しには神経を使う。アイコは、ふああ、と大きく欠伸をした。

「聖さんは今日は一日中取材だってよ……おう、シートベルトしろよ」

「うん」

「で、」

 一樹はサングラス越しにちら、とアイコを見ながら、言う。

「荷物もったままでいいから現場につれて来いってさ」

「あたしを? 」

 アイコが目を丸くする。

「そ」

「なんで? 」

「なんでって、お前、聖さんとこでバイトするんだろ? 」

 一樹は、当然、という顔。

「今日から早速手伝えってことさ」

「うう。厳しい」

 アイコは、わざとらしく可愛いポーズをとって嘘泣きしてみせる。一樹は、ひゅう、と口笛を吹く。

「お前、そーいう少女っぽいこともできるのな」

「どういう意味……って、わあ! 」

 駅前を抜けて広い道に出たとたんに、一樹がいきなりアクセルを踏み込んだ。

 シートに押しつけられて、アイコが悲鳴をあげる。

 クロスレシオのミッションを忙しく左手で操り、足許のペダルをきびきびと踏み替えながら、一樹は意外な敏捷さで愛車を走らせる。

「いや、可愛いって意味」

「一樹さん、事故りたい? 」

 アイコが、にこにこ笑いながら、指を鳴らす真似をする。

「冗談に聞こえないんだけど、それ」

 空気投げでぶん投げられた記憶が蘇って、一樹は身震いする。

 重いハンドルを回して交差点を左に曲がり、片側二車線の道の右側に進める。そこでシフトダウン、アクセルを思いっきり踏み込み、また忙しそうにシフトアップ。

 一リッターに満たない排気量とはいえ、ターボ付きの四気筒エンジンが、腹に堪える唸りを上げる。

「一樹さん、百キロ出てる」

 バケットシートに押しつけられながら、アイコが打って変わった冷ややかな口調で言う。黄色いストーリアは、フィギュアスケートでも踊っているかのように路面を滑らかに走り、右に、左に、他の車を避けて走る。回りの車が、障害物にしか見えない。

 銀色のミラーが、傾いた太陽の黄色い光を乱反射する。

「すぐに詰まって減速するけどな」

 言葉の通り、両方の車線を軽四輪とミニバンに塞がれて、一樹は前の車にぶつからないようにブレーキングする。下手ではないが、がくんと逆に重力がかかって、アイコはダッシュボードにお辞儀して、シートベルトに締め上げられる。

「……ひっでえ運転」

 ぐえ、と舌を出しながら、言うほど怖がってもいない様子でアイコが毒づく。

「そうやって女の子怖がらせて格好つけてる? 」

「まあ、そういうこともある」

 別にやましい風もなく答えて、一樹は交通の流れにのった運転に切り替える。

「わあ、キモい! 」

 アイコは、わざとらしく一樹を避けて、ドアの方に体を寄せる。

 一樹は舌打ちして、肩をすくめる。

「心配すんな、お前はまだ俺の中の"女の子”に含まれていない」

「? 」

「女抜きの"子”だからなあ」

 平然と言われて、アイコは一瞬何を言われたのか認識できずにぽかんとした。

 それから、要するに子供扱いされたのだと理解して、眉間にしわを寄せ、ぶー、と頬を膨らませる。

「一樹さん、ひでえ」

「口悪いな、アイコ」

「どっちが! 」

「お、もうじき着くぞ」

「きゃああ! 」

 また急に減速されて、アイコは悲鳴をあげた。

 黄色いストーリアは、するすると左に寄って、ガードレールの切れ目にドアを合わせて停まる。

 市街地の外れの、アーケードのない歩道。

「ここだここ」

「ってどこ? ! 」

「真ん前」

 一樹は、左手の指を立てて、ひょい、とアイコの目の前にかざす。

 首を捻ってみると、そこには、ちょっと奇抜なデザインの店が目に入ってくる。

 黒光りする、少し風化したような石材に、白い、見たこともないような文字がびっしりと刻まれた二階くらいまである壁。よく見ると、ガラスの壁に半分埋まったようになっている。

「わ、なにこれ」

「ロゼッタ・ストーン」

 一樹が、急につまらなそうな顔になって言う。

「お前、ロゼッタ・ストーン、知らないだろう」

「わあ、馬鹿にした! こんな遠いところの店なんか、知るわけない! 」

「いや、そうじゃないんだが」

 一樹は、諦めたように肩をすくめた。

「とりあえず、ここが現場だ。荷物はケルンに持って行っといてやるから、必要そうなモノだけ持って身軽に行ってこい」

「一樹さんは一緒に行かないの? 」

「車置けないんだよ、ここ」

「えー」

「それに、苦手でね」

「はあ? 」

「いや、なんでもない。つべこべ言わずに言ってこい」

 言いながら、アイコの前に身を乗り出して助手席側のドアを開け、ぽん、と頭に手を置く。

「わあ、気軽に触るな! 」

 怒鳴りながらも、アイコは車を降り、ぺこ、と一樹に頭を下げる。

「ありがとうございました! 」

「お、なんだ礼儀正しいな、気持ち悪い」

「一言多い……もてないよ、一樹さん」

「余計なお世話だ」

 アイコは、くる、と背を向けて、首をめぐらせて一樹の方を見た。

 目が、笑っていた。

「バッグと一緒においてあるビニール袋、お土産と駅弁なの。お土産はみんなで開けて欲しいんだけど、お弁当は傷むといけないから、良かったら一樹さん食べて」

「おお? 」

 ちょっと照れたように、アイコは一樹から顔をそらし、巨大化したロゼッタストーンの方に小走りで去っていく。

 店の入り口の前で思い出したように立ち止まり、あわてて車まで駆け戻って、バタンとドアを閉める。

「結構うまいらしいよ、駅の蟹ずし」

 閉まる間際に言おうとして、ドアのほうが先に閉まる。

 ウィンドウが閉まっているので、何を言ったのか一樹には聞き取れなかったが、アイコは弾かれたように店の方に戻って行ってしまった。

「めまぐるしい奴だな」

 一樹は、苦笑いしてその背中を見送った。


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