Section.7 不自然な君が好き(2)
起こそうとしても全然起きない聖を、一樹と美春が二人がかりで担いで一樹の車に押し込んで帰った時には、時計の針はもう午前二時を回っていた。
美春が来てから後は、結局、美春と聖の中学・高校時代の武勇談とかアイコの転校遍歴の話ばかりで盛り上がり、誰も久や狼男の話をしなかった。美春は軽くバーボンのロックとかを舐めながら、上機嫌な様子で饒舌にしゃべった。さすが接客業だけあって、場を和らげるコツをよく知っていた。
その間、聖はずっとカウンターで寝息を立てていた。
美春のもってきた菓子パンは、そのままカウンターの上に放り出されていた。
アイコは三人をケルンの裏の駐車場まで見送った。
一樹のストーリアが走り去るのを見送って、ぶる、と身震いすると、アイコは一人で店に戻った。
がちゃん、とドアを閉め、内側から古びたねじ式の鍵をかけて、ふう、と息をつく。
それから、聖がカウンターにこぼしたビールのあとや、ピーナッツやらメロンパンやらの食べかすのちらかったカウンターを布巾で磨き、シンクにつっこんだままのグラスや皿を洗って、カゴにあげる。
とりあえず、大島が普段片づけている程度にキッチンを片づけてから、風呂場に行き、ジーンズとTシャツ、下着を脱ぎ捨てて、シャワーを浴びた。
シャワーで暖まったとたんに、睡魔と疲労感がどんよりと体に絡みついてくる。
思ったより、ずっと、草臥れていた。
「けっこう、ハードな……」
ふああ、と、バスタオルを体にまきつけ、髪に乾いたタオルを巻き付けて風呂場を出たアイコは、大欠伸をした。
昨日と同じ畳の部屋に行き、押し入れからよく乾いてふかふかする布団をよいしょ、と呟きながらひっぱりだす。ぽす、と顔から倒れ込むと、アイコはそのまま、意識を失った。
初夏じゃなかったら、風邪をひいているところだった。
翌朝、アイコは、季節と自分の健康な体に感謝していた。
熟睡しすぎたせいか、眠ったのが遅かったのに、アイコは翌朝も七時に目が覚めた。
店の方からは、またコーヒーの香りが漂ってくる。
ふらふらと店の方に行きかけて、アイコは自分がバスタオル一枚の素っ裸であることに気がついた。あわてて、洗濯してある下着と黒いTシャツを、まだ荷解きしていないボストンバッグから引っ張り出して着込み、黒いコットンのソックスとジーンズに足を通す。
髪に巻いたタオルをとってみたら、妙な形に寝癖がついていた。くしゃくしゃと指で髪をかき上げると、全体がボサボサになった。
アイコは少し悲しくなりながら、店の方に出ていった。
「おはようございます」
「よう。今日も定刻どおりだな」
サングラスを外してカウンターの中で新聞を読んでいた大島が、ちら、とアイコの方に視線を走らせる。
「なんか山ほど安い菓子パンが転がってるけど、お前のか? 」
「みーちゃんが置いてったんですけど、食べてもいいのかな……」
「んじゃ、今日はコーヒー牛乳と菓子パンな」
大島はそう言って冷蔵庫を開け、アイコに三角パックのコーヒー牛乳を投げてよこす。
「わあ、何これ? 」
アイコは、目を丸くしながら受け取る。少し水滴がついた、ひんやりした手触り。
「見たことないか? テトラパックという物体だ。昔学校給食とかで使われてたんだがな」
「あたし、初めて見ます」
「いや、ほんと、懐かしいなあ」
店の入り口に近いほうの席から、聞きなれない声が口をはさんだ。
アイコは、あわててそちらに目を向ける。
スーツ姿だったので、てっきり一樹だと思い込んでいたのだが、体つきも顔つきも似ても似つかない、口ひげを生やした、少し太った男だった。ストライプの入ったグレーのスーツに、刈り上げられた短い髪。そんなファッションと不釣り合いな、ちょっと童顔っぽい風貌。
男は、指で挟むように三角形のパックをもち、ストローでコーヒー牛乳を飲んだ。
「俺たちの頃、まだ、このパックの牛乳が時々出てましたよ」
「だろ? 」
大島が、男にウィンクしてみせる。
「今朝、久しぶりに牛乳配達から牛乳買ったら、配達車に積んでてな。一ダース買ったが、自分じゃ一個が飲むのが精いっぱいでな」
「へえ」
アイコは、二人の会話に入っていくのもためらわれて、畳の部屋に続く廊下に一番近い、見知らぬ男から遠く離れた席に座り、パックに貼り付けられているストローを外して、パックに突き刺した。一口、ちゅう、とすする。甘い味と偽物っぽいコーヒーの味が、口いっぱいに広がった。ひんやりして、気持ちいい。
アイコは、カウンターの上に散らばったいろいろな種類の菓子パンを眺めて、一個を選んで指でつまみあげる。ぱりぱりとビニールのパックを開き、ぱく、とかじりつく。ジャムパンのはずだが、一口目ではジャムにあたらない。アイコは、おいしくないパンをコーヒー牛乳で流し込んだ。
「えーと」
遠くに座ったまま、見知らぬ男が、困ったような顔でアイコに話しかける。
「小林……さんですか? 」
「けふっ」
いきなり声をかけられて、アイコはむせ返った。
「わ、ごめんごめん! 」
男は立ち上がってアイコに駆け寄り、とんとん、と背中を叩く。
「ぜえぜえ、大丈夫……です」
なんとか息をつきながら、アイコが言った。
「それより、どうしてあたしの名前を? 」
「いや、上泉から、今朝連絡があって」
ぽりぽりと頭をかきながら、男が言う。
「聖さんから? 」
「ええ。今日の取材、新人の小林さんが一緒に行くので、カメラの助手と文字原稿取材やらせるように、ってことでした」
「えええ? ! マジですかあ? 」
「ええ、マジです」
男は、アイコの背中をぽんぽんと掌で叩いて、言った。
「初めまして、小林さん。私はカメラマンの予土信一です」
「予土さん……って」
アイコは、その名前をつい最近聞いた覚えがあった。が、思い出すことができなかった。
とりあえず、アイコは携帯を取り出して、聖に電話をかけてみた。
「はい、上泉です」
コール二回で、聖が出た。すっかり、営業用の声。アイコは一瞬口ごもり、気を取り直して一気にまくし立てる。
「聖さん、今ここに予土さんて人が来てて、仕事だって……ええっ? 今日の仕事? 聖さんは? 会議? あとは予土さんに聞けって? 」
あたふたと、相手との会話が手に取るように分かるような受け答えをして、結局聖に丸め込まれたらしく、アイコはがっくりと肩を落として電話を切った。
「相変わらずの自己中女! 」
口の中で呟いて、がじがじと残りのジャムパンを口に押し込んだ。少しだけ、嘘っぽいイチゴジャムの味がした。
「わははは。君は虎姫のお気に入りなんだな」
予土が、白い歯を見せて笑った。
「ま、よろしく頼むよ。小林さん」
「アイコでいいです……よろしく、予土さん」
アイコは、携帯をポケットにねじ込んで、右手を差し出した。
「で、今日のお仕事は? 」
予土が、アイコの右手を握った。小さなアイコの手と比べると、冗談のように大きく厚い手。
「レストランの撮影と取材、一件だけ。ただし、」
「ただし? 」
「若干スリリング」
予土の目が、いたずらっぽく光った。