Section.1 雨に、泣いてる…
夕陽が沈むのを見るために、わざわざ湖のある町まで三時間もかけて来てやったのに、ついた頃にはひどい土砂降りになっていた。
古い、それでも二〇〇ccの単気筒で結構パワーのある二ストローク・エンジンを乗せたちっぽけな車体は、強い風と雨にあおられて、銀色のフレームをふらつかせる。ヤマハ、SDR。ライダーよりずっと年上の老兵。
アイコは、タンクにしがみつくようにして、雨の中を走る。
トラックがパッシングし、追い抜いていく。風に踊らされて、アイコの心臓も躍る。
いつものジーンズとTシャツの上にレザーのジャケットを羽織っただけで飛び出してきてしまったので、レインウェアなんて持っているはずもない。雨水を吸ったジャケットもジーンズもひどく重くて冷たい。そのせいか、カーブのたびに、ガードレールをかすめかけたり、轍の水溜まりを跳ね上げたり、SDRはまるでダンスを踊っているようにいうことをきかない。体は冷えているのに、頭の奥がじんじん熱い。
濡れねずみとはこういう状態をいいます、というサンプルみたいなヒドい状態で、仕方なく、その辺の雑居ビルの庇の下にバイクごと潜り込む。舌打ちする舌がひどく熱い。この町は、温泉とか古城跡とかと一緒に、湖の東岸、河口側に広がっている。橋を渡って少し行くと、さびれたビル街。今日は日曜日のせいか、人通りもあまりない。
こういう時、かさばらない相棒でよかった、と思う。
さっきまでは、風に流されまくって相棒の頼りなさに文句を言い続けていたのだが。さっきまでは少しマシだったが、こんな天気の荒れる日に、時速一〇〇キロで高速道路を突っ走ってきたのだ。自分のライディングの腕も考えれば、よくすっころばなかったモンだと思う。
気がつけば、飲まず食わずで半日以上走っていた。
右手を捻ってエンジンを軽く空ぶかしし、それからキーを抜いた。
前歯で指先を噛むようにして水浸しのグローブを外して地面に投げ捨て、震える手でフルフェイスのヘルメットを頭から外して、バックミラーにひっかける。
水がぽたぽたと庇の下の濡れていないコンクリートに滴り落ちて染みを作った。
濡れた様子のない、猫の毛のように細い茶色っぽいショートカットの前髪が、眉の上に落ちるのを、面倒くさそうに左手で払いのける。
サイドスタンドを立ててSDRを降りると、ちょっと体がふらついた。
ビルのコンクリートの壁にもたれかかり、そのままずるずると床にへたりこむ。
「あ……あれ? 」
立ち上がろうとして、腰が抜けたようにその場で尻もちをついた。
ぐらり、と目の前の世界が揺れた。
(あ……そうか)
そういえば、さっきから体が妙に熱いと思っていた。
視界が急にぼやけたり、普段ならなんてことのない交差点でふらついたり。
(これ、熱が出てる、んだ……)
確認すると同時に、唐突に、限界が来た。
製造年代の割にはくたびれていないように見える、ダークグリーンの小さなバイクの前輪にしがみつくようにして、アイコは意識を失った。
「とうとう、犯罪まで働くようになったか」
店に入るなり、白髪の長髪に作業着、ZZトップのビリー・ギボンスみたいに伸ばした白髭とレイバンのサングラスがトレードマークのマスターが、冷やかすように言った。
「しかし、年端もゆかない子供を誘拐してくるのは関心せんな」
「アホか! 」
半ば本気でむかっ腹をたてながら、聖は背中の濡れ鼠を店内のソファに放り出した。まだ意識がないらしく、放り出された黒革のライダーズ・ジャケットの小柄な少女は、ぐんにゃりとソファに崩れる。荒い呼吸。古びたリノリウムの床にじんわり水が染みをつくっていくが、ソファが合皮のうえに古くてバネがはみ出てるようなもののためか、マスターは気にしていないようだった。
「あたしゃロリコンでも同性愛でもないっつーに! 」
「気絶した美少女をひきずって歩いてれば、そういう誤解も仕方ないかも」
カウンターで抹茶ミルクをちびちび舐めていた、背広姿の一樹が混ぜっ返すように言う。短く刈りあげた茶髪、嘘っぽいほどの日焼け肌と、バランス悪いほど広い肩幅の二十代。
「うるせー休日出勤野郎」
舌打ちしながら、聖は営業用の紺のブレザーを脱いでカウンター席のひとつにひっかけ、ソファの女の衣服を剥ぎ取りにかかる。
「マスター、風呂と座敷貸して。あと、風邪薬」
「つか、なんで救急車呼ばないんですか? ! 」
「決まってるでしょ! 」
言い返す一樹を、聖はびし、と指さす。
「面白そうだからだよ! 」
「前々から思ってたけど、あんたはアホだ! 」
「やかましい! 」
「はいはい、仲がいいのは分かった」
言い合いになりそうな二人を手で制して、マスターが煙草をはさんだ指で、店の奥を指す。
「風呂は勝手に使え、いつものことだろ。だが、風邪薬はねえな……ああ、卵酒でも作ってやろう」
「この真夏に? 」
「まあ、チョコレートパフェというわけにもいかんだろ」
とりあえずジャケットを脱がすと、下は無地のTシャツで、どうも下着を着けていないらしい。というところまで横目で眺めていた一樹の顔に、思いっきり水を吸ったジャケットが叩きつけられた。
「わあ、スーツに染みが! 」
「どうせ吊るしの二着一万円とかでしょうが! 見んな変態! そこのコンビニでTシャツとトランクス買ってこい! 男モンでいいから! 」
「それ、人にものを頼む言い方じゃねえ! 」
「うるせー、先輩に口答えすんな! 行ってこい! 」
タイトスカートからすらりと伸びた長い足でローキックを決められ、一樹は慌てて立ち上がる。この女、気の短さには学生時代から定評がある。長髪にちょっとたれ目気味の面長な細面、一見おしとやかな大和撫子風だが、「虎姫」という、仲間内のあだ名が伊達ではないことを、一樹は身をもって知っていた。学生時代さながら、ダッシュで店から飛び出していく。
「相変わらず、気がきかないんだから」
言いながら、ずぶ濡れ少女の肩を抱いて引き起こしかけたとき、聖はカウンターの向こうのマスターがあわてて顔を背けるのに気付いた。……どうも、マスターも革ジャケットの中身の方が気になるらしい。
「ますたあああ? 」
「あ、いや、つい」
聖は背中を向けたマスターをじとっと睨みつけてから、古びた真鍮のノブを回して木のドアを開け、ずるずると、死体でも運ぶように、意識のないアイコの体を店の奥に引きずり込んだ。細長い廊下の突き当たり、アコーディオン・カーテンの奥が脱衣場で、そのさらに奥に、狭い喫茶店の店内とは不釣り合いな、大きめの風呂場。数十年前、旅館だった頃の名残で、温泉が引き込まれている。モザイクタイルの敷き詰められた、大きめの家族風呂のような風呂場である。
聖は脱衣場をまるで屠殺した牛を解体するような手際の良さで、ぐんにゃりと意識のない少女の着衣をひん?いた。壁にもたれかけるように座らせ、自分はワイシャツの袖をまくりあげて、シャワーで温水をぶっかける。
「わぷ? ! 」
弾かれたように、素っ裸の少女が半ば無意識のまま立ち上がろうとして、ぐら、と前につんのめる。
「お、暴れるなよ」
聖は、ワイシャツが濡れるのも構わずそれを抱き留める。
かく、とうなだれて、ぐんにゃりと人形のように力の抜けた体は、小さいとはいえ結構重い。しかも、中途半端に意識を取り戻して暴れるので、始末が悪い。
苦労して壁に押さえつけると、聖は注意深く、手早く、シャワーで体を温めてやる。脱衣場の籠の中から綺麗にたたまれたバスタオルを二枚取り出し、一枚で水気を手早く拭き取ると、もう一枚を裸の体に巻き付けてやる。それから、また肩を抱えるようにして脱衣場から運び出し、右手の襖を開けて、六畳の座敷に引っ張り込んだ。
その間、裸にひんむかれて湯をぶっかけられたりタオルでぐしゃぐしゃにされた少女は、いろいろ意味不明な叫びを上げたり、悪態をついたり、果ては泣きわめいたりしていたが、この際無視して作業を進める。猫のシャワーみたいだった。
きれいに掃き清められた畳に、糊のきいた白いカバーのかかった座布団を並べて布団にし、そっとバスタオル一枚の少女をおろす。
そこではじめて、聖は一息ついた。
まじまじと、自分の拾ってきたものを観察する。
茶色っぽいショートカットの髪は、染めているわけではなく、もともと色素が薄いためらしい。目はぎゅっと閉じているが、開けばかなり大きそう。ガタガタ震えている唇は、少し血の気が戻りつつあるが、薄くてちいさい。熱のせいで頬は朱に染まっているが、肌は透明に見えるほど白くて滑らか。中学生くらいにさえ見える小柄な体は、余分な肉どころか、筋肉さえどこについているのかというほど華奢で細い。まるで生きているドールのよう。
「うう……馬鹿やろ、やめて……やめろっつってんだろ! ……ううう」
少女は短くうめきながら悪態をついていたが、すぐに疲労と熱で力尽きて、寝息を立て始める。
ついつい見とれていた聖は、あわてて押し入れから毛布を引っ張り出すと、ぼふ、と、座布団の上の少女を覆い隠した。
少女の呼吸は、さっきよりは少し落ち着いてきたような気がした。
聖さーん、Tシャツとか買ってきたぜー、という一樹の間の抜けた声が、店の方から聞こえてくる。
「おう、そっち置いといて! こっち来るなよ! 」
聖は、少し声を上ずらせて怒鳴った。
目を覚ましたアイコが頭を抱えたのは、頭痛のせいだけではない。
体に合わない、BVDのTシャツ。それだけなら、まだいいのだが。何故か、その下には、男物のトランクス。それも、悪趣味を絵に描いたような、ど派手な青いペイズリー柄。体中の毛が逆立つほど、頭にきた。
「うげげ……なんだこれ」
「お、目ぇ覚ました。流石ガキは回復早いな」
「! 」
うめきながら上半身を起こしかけたアイコの目の前に、見るからにサーファー焼けした二枚目風の男の顔。
アイコは、一瞬目を丸くし、それから、俯いてその目を眇めた。口許に、意地悪い笑み。
「いやー、熱下がらないんじゃないかと心配したよ。医者呼んだ方がいいんじゃないかって……」
ペラペラしゃべる男の、ワイシャツの袖をまくりあげた腕に、無言で手を伸ばす。ほっそりした指が、日焼けした男の手首を掴む。
「お? おいおい? 」
ひんやりした指の感触に、つい、一樹は頬を緩める。
と、アイコが急に顔をあげて、にっこりと、一樹に微笑みかけた。
陶器製のドールのように整った白い顔に、一樹は吸い込まれそうになり、一瞬、ぼうっとする。
「あ……いや、その……って、おーい! 」
ぱくぱくと口を動かし、意味不明な言葉を吐き出しかけた一樹の口から飛び出したのは、しかし、情けない悲鳴だった。一樹の体は、手品のように空中で一回転し、畳に叩きつけられる。綺麗に投げられたせいか、ダメージはたいしたことはないが、がは、と息を吐いたきり身動きができない。
アイコは、投げた反動を使って毛布を飛び出し、Tシャツの裾を引っ張ってトランクスを隠そうとする。
状況を確認するように部屋の中を見回し、自分の服やヘルメットを探すが、見あたらない。第一、見たこともない和室。アイコは奥歯を噛んで床に転がした一樹の胸に足を乗せ、涙目で見上げる一樹を、このまま肋骨砕いてやろうか、という目でにらみ返す。
ぱん、ぱん、ぱん。
その背中に、気の抜けた拍手の音。
「お・見・事」
振り返った視線の先には、上品そうな笑みを浮かべた、大柄な、黒髪の女。一部の隙もなく、仕立てのいいスーツを着こなし、ゆったりと腕を組んでいる。
その姿を見ただけで、アイコは、体中の血が逆流するような気がした。
「ちょい待ち」
掴みかかりかねない勢いでにらみ返すアイコの方に、なんの構えもなく近寄ると、聖は、す、と手を伸ばして……。
「みぎゃ? ! 」
あまり高いとはいえないアイコの鼻を、いきなりつまんだ。
「いくら相手が一樹とはいえ、いきなり人を空気投げってのはあんまりじゃない? お・じょ・う・さん」
じたばたと手を振り回すアイコを、優しげな表情で見つめながら、聖はにっこりと微笑んだ。
「ひょっとすると、あなた、彼のおかげで命拾いしたのかもよ? 」
空いている方の手を、見せつけるようにひらひらさせる。ペンだこができているのが妙に気になる、マニキュアも塗っていない指先には、穴あきペニー硬貨をキーホルダーにした、ヤマハの刻印の入ったキー。
「! 」
アイコが、鼻をつまんでいる聖の手を払いのけようとし、聖はそれをひょい、とかわす。鼻が自由になったアイコは聖の手からキーを奪い返そうとするが、聖は背中に手を回してキーを隠す。
アイコは、目尻をつり上げて聖を睨みつけ、低い声で
「返せ」
と一言だけ。
「返してあげるわよ」
聖は肩をすくめて大げさに溜め息をついてみせてから、言った。
「まず、晩ご飯、食べてからね」
「何を……」
きゅうう。
アイコの腹のあたりから、何かの鳴くような音がした。
「うえええ? 」
真っ赤になって頭を抱えるアイコの耳に、聖の、見かけとは裏腹の豪快な笑い声が突き刺さった。
さんざん迷惑をかけた古い喫茶店……「ケルン」というらしい……で何か食べるのかと思ったら、「ここは飯は不味いから」という理由で、アイコは結局連れ出されることになった。有り難いことに、下着やジーンズだけでなく、革のジャケットも、もうすっかり乾かしてくれていた。
飲み屋街にどんどん入り込んでいくので、ラーメン屋にでも連れて行かれるのかと思ったが、そうではなかった。古い、潰れた旅館の裏口に回っていくので、少し不気味に思いながら、アイコは一樹と聖の後についていく。
薄暗い、行灯の明かりのついている扉を潜ると、そこはかなり広い、ガーデン・レストランになっていた。
外からは想像もつかないほど、多くの客。割合くだけているとはいえ、ほとんどの客はセミ・フォーマルな出で立ちで、ジーンズ姿はアイコしか見あたらない。一樹も聖もかっちりしたスーツ姿なので、アイコは自分が余計に浮き上がっているような気がした。なにしろ、革のライディング・ジャケットに、洗い晒しのジーンズという出で立ち。
一樹も聖も、店と顔なじみらしく、ウェイターがすぐに歩み寄ってきて、空いている席に案内される。アイコは、呆然としたまま立ち尽くしそうになり、聖に手を引っ張られるようにして席につく。
雨上がりの、少し湿っぽいが涼しい風の流れる、池の畔の席。
旅館の日本庭園を、少し洋風に作り直しているせいか、席の脇には灯りの入った石灯籠。暗めの照明で、テーブルに置かれたキャンドルがかなり明るく見える。
四角いテーブルに、聖とアイコが向かい合い、池を背にしてその間に一樹が陣取った。糊のきいたテーブルクロスに、ナプキン、グラス。
アイコは、席についても落ち着かず、つい廻りをきょろきょろと眺め回す。
ウェイターが、磨き上げられたグラスに空いたワインボトルからミネラルウォーターを注ぐのをみるのも、初めてだった。
「こういう店、はじめて? 」
「可愛いふりしてます? 聖さん」
余計なツッコミを入れる一樹の弁慶の泣き所に蹴りを入れ、わざとらしいほどにっこり笑いながら、聖が尋ねる。アイコはきまりが悪くなって頬をふくらませ、そっぽを向いた。聖は、アイコの意見も一樹の意見も聞かず、メニューも見ないで料理をオーダーし、後からやってきたソムリエと短く談笑してワインを決めると、ぱん、とちいさく一つ、手を打った。
思わず、アイコと一樹は居住まいを正してしまう。
「さて、お嬢さん」
聖は、ハンドバッグから、使い込んだ厚い革製の名刺入れを取り出すと、生成りの和紙でできた名刺を一枚、取り出した。
「あらためて、自己紹介させてちょうだい。私は、こういう者よ」
「? 」
アイコはおずおずと名刺を受け取り、灯りにかざして、文字を読み取ろうとする。タイプライターで打ったように、実際に字の回りがへこんで見える。その名刺には、
「マインドトラベル編集発行人 上泉聖」
と、書かれていた。あとは小さく、事務所の住所と電話番号、メールアドレス。「マインドトラベル」のところだけは、緑色の下地に、アイコもみたことがあるデザイン・ロゴになっている。この辺ではちょっと知られた、ローカル・タウン誌だった。
「かみいずみ、ひじりさん? 」
「正解」
声に出して名前を読み上げたアイコに、聖がウィンク。
「特に『さん』のあたり」
「? ? ? 」
わけの分からない応答にアイコが目を丸くするのも構わず、聖は一樹の首根っこを抱え込むようにして頭を指さす。
「で、こっちの茶髪ナンパ男が北原一樹。私の下僕」
「下僕じゃねええ! 後輩ではあるけど! 」
「何、もんくあんの? 」
「あ。いや、茶髪はともかくナンパ男ってのはあんまりでは……」
一樹の抗議はさらりと無視し、
「職業は、警察官」
と言ってちょろっと舌を出す。
「へえ、警察官……? ! うげげ」
アイコが思わず席を立ちかけ、あわてて座り直すのを、聖は見過ごさなかった。それを確かめてから、聖は続きを口にする。
「……だったんだけど、今は辞めてフリーター」
「……サイアク」
アイコが、妙に実感のこもった表情で言った。
「んだとうコラ」
一瞬呆然とした一樹が、流石に声を荒げる。が、聖にヘッドロックをかけられたままなので、じたばたするばかり。
聖は、急に真顔になって、アイコの目を覗き込んだ。
「で? あんたは? 」
「アイコ」
そんなつもりもなかったのに、いつの間にか聖のペースにのせられてしまったらしい。アイコは反射的に答えて、しまった、という顔をし、二秒ほどためらってから、観念したように続ける。
「カタカナでアイコ。別に歌手じゃないけど。」
「十六才、とか……はぶっ」
何か言いかけて、一樹が苦痛の声をあげた。くだらないことを言い出す一樹に、ヘッドロックをさらに強くかけたらしい。
「一樹、いちいち言うことが古臭い」
「? ? ? でも、実際十六なんだけど」
「ぶっ……」
聖は思わず吹き出した。
「アハハハハ、さいてー」
「なんで最低呼ばわり? ! 」
予想外に笑われて、アイコはさらに頬をふくらませる。
「ああ、ごめんごめん」
てんで不真面目に謝っていた。
そこに、ウェイターがパンのバスケットと、大皿に載せた料理を運んでくる。
アイコがみたことのないような、骨付きの肉とか、マリネになった何か。アクセサリーのように飾られたオードブル。
「コースじゃなく、アラカルトで頼んでるから」
と聖。
聖が料理の名前をアイコにいちいち教えてくれるが、さっぱり耳に入らない。とりあえず、ヒツジの肉だったり、シーフードだったりすることは理解したが。聖に嫌いなものはないか、と聞かれて、ぶんぶんと首を振る。聖は、アイコの目が好奇心に輝き始めているのを見て、内心ほっとした。こういうのに関心示さないタイプは、得意ではない。
聖が小皿に取り分けてやると、アイコはフォークをとってラム肉に突き立てた。最初はおそるおそる口に運び、食べられるものなのを確認すると、急にガツガツと口に突っ込み始める。パンに手を伸ばし、大皿のものを自分の皿に運ぶのももどかしそうに。聖と一樹は、こっそりと目をあわせてうなずきあう。そろそろ大丈夫。
「で、」
ワインを一口、口に含んでから、一樹が尋ねる。
「なんであんなとこでぶっ倒れてたわけ? 」
「……・」
アイコは、ちら、と一樹の方に目をやると、即、視線を皿に戻した。エビのゼリー寄せカクテルソース、というものらしい、虫入り水晶みたいに、コンソメ味のゼリーに小エビのボイルが閉じ込められたオードブルの、土台の塩辛いタルトをつまんで、丸ごと口に放り込む。
「ってお前、ガン無視かよ! 」
「大したことがあったわけじゃ、」
キレて掴みかかりかけた一樹は、口に食べ物を頬張ったまま急にしゃべり出したアイコに気勢をそがれて、椅子に尻を落とした。
もぐもぐ咀嚼しながらしゃべるので、聞き苦しいことこの上ないが、それでも、アイコはしゃべっていた。
「な……くって。ないんだけど」
めっちゃ腹がたつことがあって。信じられないことばかりあって。何をどうしていいのか分からなくなって。でも、一つだけ、しないといけないことがあって。
そんなことを言いながら、アイコは顔をだんだん真っ赤にし、くしゃくしゃにして、とうとうしゃくり上げて涙を流し始めた。エビのオードブルを飲み下し、冷製ジャガイモのポタージュを皿に口をつけて飲み干し、骨付きラム肉にそのままかぶりつきながら。嫌なこともまるごと飲み込もうとしているかのように。
「しなければいけないこと? ……というかよく喰うなお前。どこに入ってるんだ」
煙草に火をつけた一樹が、すっかり晴れて三日月が輝きだした夜空を見上げながら、低い声で言う。
「夕焼け」
「夕焼け? 」
聞き返す聖に、
「そう。湖の夕焼け」
アイコは、涙をいっぱいに溜めた大きな瞳でにらむようにして答えた。
「ふーん」
聖は、ワイングラスを傾けて、一口。
「で、来てみたら土砂降り、か」
と、一樹。
アイコは、その一言を喰らってテーブルにがん、と額をぶつけ、ふえええ、と、これまでの強情な印象からは想像もつかないような、情けない、小さな声ですすり泣きはじめた。
「たちの悪い酔っ払いか、お前は」
言いながら、一樹は慌てた風もなく、アイコの頭を撫でてやる。
「やれやれ。……あ、小諸さん」
そんな様子を微笑みながら眺めていた聖は、通りがかったソムリエを呼び止める。白髪を綺麗に撫でつけた、初老の、紳士然としたソムリエ。
「なんか、今日のテーブルワイン、いつもと違いません? 」
「ふだんの上泉様にお出ししているのは、ニポッツァーノ(井戸なし)というワイナリーの赤なんですが、今日は同じ赤でもアヴァンティ・ポポロ(行け、人民! )にしてみました」
「ムッソリーニ逆さづり? 」
「新しいお連れ様が、革命家のようですので」
「パドリオみたいな老獪な奴じゃなく、ひよわそうなヒヨッコだけどねえ」
「お出ししたワイン同様、癖は強いけど不味くはない、という感じでしょう」
他の誰にも分からないような会話を交わして、くく、っと聖とソムリエは笑みを交わした。小諸というソムリエは、どこか日本人ばなれしていた。
「さてさて、アイコちゃん」
小諸が立ち去り、アイコがしゃくりあげながらも少し落ち着いたのを見計らって、聖がようやく本題を切り出した。
「あたしもまあ、タウン誌なんてやくざな商売やってるから、あんまし真面目な大人とは言い難い」
見りゃわかるよな、とでも言いたそうな一樹の胸にエルボースマッシュを叩き込みながら、にっこりと笑う。
「でもまあ、人並みの心配はするわけだ。みたところ、あんた、まだ未成年だろ? 」
「……」
「何があったかは、無理に話さなくてもいいよ。でも、家には電話しといた方が良くない? 」
聖の笑顔には、優しいが有無を言わさない迫力がある。
「うん……」
アイコは、思わずちゃんと座り直して、口許をナプキンで拭っていた。
「あたしも、そう思うんだけど……」
「今日は日曜日だけど、明日はまだ学校だろ? 」
「あ……いや、学校は行ってないから」
「ほえ? 」
「去年も今年も、春に試験受けそこなって」
余計な口を挟んだ一樹が、また聖に肘鉄を喰らわされる。
アイコは、ウエスト・ポーチ……これも、聖がずぶ濡れのレザージャケットと一緒に確保しておいてくれたもの……のジッパーを開けて、携帯を取り出した。傷だらけになった、古めのストレート型。
「オヤジは、ここふた月ほど電話通じないし」
「はあ? 」
聖と一樹は、顔を見合わせた。
「受験に行かなかった話はしたけど、二輪の試験に通った話はまだしてないし……」
「はああ? ! 」
「メールは見てるみたいだけど、1日くらい外泊するって言ったって、驚かないだろうし……」
「あー、わかった、君の家庭の事情には深く踏み込まないことにする」
一樹が、頭を抱えながら言う。
「ただ、訂正させてくれ。君の外泊は1日ではない」
「え? 」
目を丸くするアイコに、聖が言う。
「今日は、火曜日なのよ」
「? ? ? 」
「君は日曜日に気を失って、月曜日は一度も目を覚まさずに眠り続けた」
「はああ? ! 」
「さすがにちょっと心配したけど、熱も下がってるし、寝息も安らかなので、そのまま放っておいた」
アイコは、ひどく衝撃を受けたような顔で、天を仰ぐ。
「どおりですっごくお腹が空いてたわけだ」
「そっちかよ! 」
想定外のリアクションに、一樹は思わず声をあげた。
それは完全に無視して、アイコはナプキンで口を拭うと、椅子にきっちりと座り直した。急に背筋を伸ばし、真剣なまなざしを、聖と一樹に向ける。
「とっても助かりました! 」
結構大きな声を張り上げて、深々と頭を下げる。
「わ、びっくりした」
一樹は思わず椅子に身をひき、聖はワイングラスをテーブルにおろす。
「ご迷惑をおかけして、すみませんでした! とっても失礼な態度をとっちゃって……ええと、ええと」
「ま、落ち着きなさいよ」
目を細めて、聖はアイコの肩に手を置いた。
「いいのよ、お礼は……というか、私はもう、お礼分のことはしてもらったも同然だから」
「はい? 」
全く心当たりがないアイコは、きょとんとして首をかしげた。
いまだにあまりよく状況を把握できていないのだが、迷惑かけた以外に何も
聖は野菜スティックのグラスからセロリをつまみ、ワインビネガー・ベースのディップにつけて、ぽりぽりと二口ほどかじる。
「アイコちゃん。とりあえず、急いで帰る理由はないってことだよね? 」
「えーと、多分」
「ちょうど良かった。だったら、乗って帰れるかもね、SDR」
「ふえ? 」
「まだしばらく、復元に時間かかりそうだから」
見事なまでの、バラバラ死体だった。
フレームからありとあらゆるパーツが外されているだけではない。
丸裸になったエンジンからひきずり出されたピストンはまるで内臓さながら。体中の液体という液体を抜き取られて、単なるパーツの山に還元されたような姿。
「バイクってのは、まるで人間のバラバラ死体みたいになるわよねー」
脳天気な聖の声が、アイコの耳の右から左に突き抜ける。
フランケンシュタイン博士の研究室もかくや、というようなゴチャゴチャな工房の中で、無残にもバラバラに解体された相棒と再会して、アイコはその場にへなへなと膝から崩れ折れた。マシンオイルのしみこんだようなコンクリートの床。
「ほら、言わんこっちゃない。ちゃんと説明しておいてやんねえから」
一樹が、頭の後ろで手を組んで、気の毒そうにアイコを眺めながら言う。
「だって、その方がリアクション面白そうじゃない」
「聖さん、相変わらず鬼ですね……ってこら、お前もスパナ握るんじゃない! うぎゃ! 」
がるる、と唸って、目を真っ赤に血走らせながら伸ばしたアイコの手を押さえようとして噛みつかれ、一樹はなさけない悲鳴をあげる。
「はいはい、落ち着く落ち着く」
「落ち着けるかあ! 」
アイコは、スパナと一樹を放り出して、おどけた調子で止めに入った聖に掴みかかる。体中がかーっと熱くなる。こうなると、見境がない。
が、一樹と違って、聖はアイコより一枚上手だった。
ひらり、と、最低限の動きでアイコをかわすと、するりと背中に回り、猫をつかまえるように革ジャケットの襟首を掴みあげる。吊り上げられて一瞬アイコの足が浮き、振り子のように後ろにひきもどされる。
ごちゃごちゃ工具や部品が雑然と置かれたガレージの中で、聖は注意深く障害物をかわして、アイコを放り出した。アイコは、がは、と息をついて尻もちをついた。
「危ないなあ」
「誰のせいだよ! 」
「よく見なよ」
不意に真顔になって、聖がアイコの顔を覗き込んだ。
ぎょっとして首をすくめるアイコに、妙に醒めた声で、言う。
「これ、いじめられてるように見える? 」
「……? 」
アイコは、作業台の上のバラバラ死体に目を向けた。
東京タワーのような三角形のフレームが、目に入った。
ピカピカに磨き上げられた、メッキのフレーム。
外されたタンクやパーツは、一つ一つきちんと並べられ、そのいくつかはフレーム同様にピカピカといっていいくらいにクリーニングされている。
アイコは、尻もちをついたまま、呆然とそれを眺める。
まるで、知らないものを見ているような気分だった。
「分かった? 壊してるんじゃなくて、直してるのよ」
「分かった……と思う」
アイコは、ぽかぽかと自分の頭を叩く。
「上泉さん、ごめんなさい……あたし、馬鹿で乱暴で……」
「いや、こっちこそごめん、驚かせすぎたわ」
「いや、痛い目あったのは俺ですよ? 謝るなら俺に……」
聖は、言いかける一樹の革靴をピンヒールの踵で思い切り踏んづけて黙らせた。一樹は声も出さずに、踏まれた足をかかえてぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「ま、無断でオーバーホールはじめちゃったのは悪かったと思うんだけど」
聖は、醒めたような表情で、肩をすくめる。さっきまでの柔らかい印象の笑顔は、すっかりひっこんでいた。
「上泉さんって、人のバイクみると、とにかく分解したくなるの? 」
まだ半べそをかいたような顔で、アイコが聖を上目遣いに見上げる。
「そんな特殊な性癖はもってないけど、アイコちゃんの乗ってたSDRは別」
「? 」
「あれ、シルバーバレットのSDRなんだよね」
「? ? ? 」
アイコは、わけがわからない、という顔をしていた。
「しるばー……なに? 」
聖は、さらにアイコの顔を覗き込む。二秒、三秒……。
アイコは、おびえたように聖を見つめかえしたまま、固まっていた。大きな瞳の目尻に、小さな涙の粒。
「やっぱ、知らずに乗ってたんだ」
聖はそう呟くと、安心させるように、にっこり、と笑って、急にアイコを抱きしめた。
「! ! ! ! 」
「あはは、ごめんごめん」
驚いて意味不明な声をあげるアイコの背中を、バシバシと掌で叩きながら、聖はアイコを抱え上げるようにして立たせた。
「分かったでしょ、マスター」
「ああ、そうだな」
「うわ! 」
不意に声がして、バラバラのSDRが載せられた作業台の向こうから、サングラス姿の初老の男が顔をみせた。まったく気配を感じさせなかったため、アイコの心臓は止まりそうになる。なんだか、アイコは背筋に脂汗をかいているような気がした。
が、それは、つい最近、覚えた顔でもあった。
アイコは、裏返った声で、ようやく言った。
「マスターさん? 」
「よう、お嬢ちゃん。虎姫の相手は大変だったろ」
喫茶店で見かけた時と全く同じ作業着、同じ白髪の長髪、同じレイバンのサングラス。そして、アイコは知らないが、ZZトップにそっくりの白髭。
「なんか、あたしがこの子をとって喰いそうな言い方ね」
マスターの軽口に、聖が唇を大げさにとがらせる。
「猫に捕まっていたぶられてる鼠のような気分……」
「お前も充分山猫だけどな」
うつむくアイコに、一樹が唇を尖らせる。空気投げでふっとばされたり、スパナで撲殺されそうになったり、血が出るほど噛まれたのを根に持っているらしい。
「俺の本業はこっち……バイク屋でね」
マスターは、作業着のポケットから煙草を取り出すと、何故か火をつけずにくわえて、そのまましゃべりはじめる。
「喫茶店は土日のみ、趣味で営業」
少しもごもごして、聞き取りにくい声。
「もはや本業の方も趣味と大差なくなってるけどね」
また一樹が余計なことを付け足す。
「うるせえぞ北原。お前や上泉がたまり場にするから開けてやってるんだろうが」
「へいへい、すみませんねえ先輩」
即座に出鼻をへし折られて、一樹はべ、と舌を出した。
「ったく」
「あの」
旧知の間柄であるマスターと一樹のじゃれ合いに置いてけぼりをくって、アイコが困ったような顔をした。おずおずと、小さな手を挙げて、聖とマスターを交互に見る。
「なんで、あたしの相棒、バラバラなの? 」
「このまま放っとくと、長くなさそうだからさ」
マスターは、火のついていない煙草を右手の人差し指と中指に挟んで口から離し、サングラスの下の、以外に大きい目を細める。
「バイクかお前さんかどっちか……それか、両方がな」
「? ? 」
「バイクがぶっ壊れるか、ぶっ壊れたバイクでお前さんが死ぬか、それとも両方がおシャカになるか、ってことだよ」
あまりアイコに通じてなさそうなので、マスターは、少しわかりやすく、言い直した。
「なんで少し赤くなってるんですか? 」
「格好つけてしゃべってんのに、言い直したらとっても格好悪いからじゃない? 」
一樹と聖が耳打ちしあうのが、妙にアイコにも大きく聞こえた。
マスターは、ごほん、と大きく咳払いし、ちら、と二人に視線をやる。一樹と聖は肩をすくめて、目をそらした。
マスターは、サングラスを人差し指でずらしあげると、仕切り直すようにアイコに顔を向け直す。アイコは、思わず縮こまって、少し後ずさった。
「よくまあ、こんな状態で一〇〇キロとか出してたなお前さんは」
後ずさるアイコに、作業台越しに顔を突き出し、煙草を持った手を振り回しながら、責めるような口調で言う。
「ギヤオイルはドロドロ、パッドは前も後ろも摩滅寸前。キャブは目詰まり、タイヤはバキバキ。チェーンは固着寸前の油ぎれでユルユル。エンジンマウントとか、マウントダンパーとかまで気にしろとは言わねえが、走ってる途中に分解しても文句いえねえボロボロっぷりだったぜ、お嬢ちゃん」
「ひう? ! 」
アイコは、また涙目になって、両手を口元で握った。
「相棒とか言うなら、自分のバイクの状態ぐらいちゃんと把握しとけってこった。わかったかい? 」
じっとマスターに視線を向けられて、アイコは困ったように聖の方を見た。
おびえたような声で、言う。
「聖さん……」
「ん? 」
「どうしよう……」
アイコは聖の袖を左手ですがるように掴んで、言った。
「マスターが何を言っているか、全然分からない……」
かく、と、一樹とマスターは同時にずっこけた。
「アイコちゃん、免許とって何ヶ月? 」
「去年の十二月だから……ちょうど半年……くらい? 」
聖は、少し額に指をあててうつむき、数秒考える。
それから、糸のように細い目をして、笑顔でアイコに尋ねる。
「さて、問題です。君のSDRのエンジンは、ツー・ストロークですか? それともフォー・ストロークですか? 」
「ば……馬鹿にしないでよ! 」
流石にそれくらいは分かるよ、と言わんばかりの勢いで、アイコが答える。
「ピストンは一個だから、ツー・ストローク! 」
ぽとん、と、マスターの指から、火のついていない煙草が落っこちた。
聖も流石に、ぎょっとしたように瞳孔が開いていた。
数秒の、沈黙。
アイコが、沈黙に耐えかねて、固まっている聖の後ろの、一樹に尋ねた。
「あの……私、変なこといいました? 」
「ぶ」
一樹が、たまりかねて吹き出した。
「ぶははははははは! 」
「あはははははははははは」
大笑いする一樹に、アイコは思わず調子を合わせて、から笑いする。
「あは、あはははははは」
「ふへへへへへへへへへ……」
仕方なく、といった感じで、聖とマスターも、笑いはじめた。
そもそもバイクのエンジンに、ピストンの一往復の内に吸入・圧縮と爆発・排気が点火されるツー・ストロークと、吸入・圧縮の間に一往復、爆発・排気の間に一往復するフォー・ストローク・エンジンがあり、現在は後者が一般的になっている、ということをアイコに分からせるのに、マスターはその後一時間以上、説明を続ける羽目になった。しかも、結局分かったのか分からないのかがよく分からないままだった。アイコの結論は、「とりあえずリッターバイクはみんなツー・スト! あと、オイル足さないで走れるのも! 」だった。
最終的にマスターは、「孫を見るような暖かい目」でアイコを見て、猫のように柔らかいショートカットの髪を撫でてやり、とにかくSDRが完調になるように全力でレストアしてやることを約束した。アイコが心配そうに「お金かかります? 」とか尋ねるので、「むちゃくちゃかかるが、趣味でばらしたから趣味で組み立ててやる。金は部品代だけでいい」とまで申し出て。アイコは、それを聞いてにっこりと笑い、「ちゃんとバイトして返すので、それまで貸しといて」などと言っていたが、どこまでアテになるものか。マスターはマスターで、「組み立てて全部終わるまで一ヶ月くらいかかるかなあ」などと、無責任なことを言っていたが。
とはいえ、県境をまたいで二〇〇キロくらい離れたところの未成年を、誰も心配する者がいないとはいえ、このまま帰さないでおくわけにもいかないし、アイコも冷蔵庫の中身が腐るとか妙に所帯じみた心配をしていたので、とりあえず今晩はそのままケルンの奥の座敷に泊まって、翌日一旦送りかえしてやることになった。
翌朝、一樹がバイトへの出勤途中にケルンに立ち寄ると、アイコと聖が口論になっていた。聖が送ってやるというのに、アイコは、汽車(ここら辺はまだ鉄道の電化がすすんでいないのだ)で帰ると言い張っていた。あまりアイコが強情なので、聖はアイコにヘッドロックをかけて自分の車の助手席に放り込み、そのまま連れて行ってしまった。
人さらいを仕事にしても充分やっていけそうな手際だった。
走り去っていく商用ナンバーの銀色のミニバンを見送りながら、一樹は溜め息をついた。
今日は、朝から太陽がぎらついていて、空もペンキで塗ったみたいに青い。
「今の、目撃者が通報したら未成年者略取で現行犯逮捕だな」
「まったくだ」
入り口のドアにもたれかかってその一部始終を見ていたマスターが、あごひげを撫でながら困ったような口調で言った。が、口許は笑っている。
「それくらい乱暴でもよかろうよ」
そして、サングラスの下の眼は、鋭く。
「なにしろ狼男を狩ろうというんだから」
「やっぱりね」
つまらなそうに、一樹が言った。
「聖さんを止めて下さいよ、大島先輩」
「それが無理なのは、お前も良く知ってるだろ」
「……」
「虎姫が決めたことは、誰にも変えられない」
「虎と狼は勝手にやってりゃいいけどさ……」
一樹は、溜め息をつく。
「間に挟まった子猫はどうすんだよ」
「お前の事か? 」
真顔で言われて、一樹はかくんと肩を落とす。
「アホですか! あの子のことに決まってるでしょうが! 」
「はあ? 」
何を言ってるのかわからない、という風に、マスター……大島は大げさに肩を竦める。
「あれが子猫に見えるんか、お前は」
「えー。子猫でしょうが、あれは」
「それだからお前はいつまでたっても柴犬なんだ」
心底つまらなそうに言って、大島は店の扉を開けた。
「おい、それよりバイト、遅れるんじゃないか? 」
「わ、やべええ! 」
一樹は、首のストラップに下げた携帯電話に目をはしらせ、聖の車が走り去ったのと逆方向にダッシュする。ダークブルーのジャケットをひるがえし、大きなストライドの綺麗なフォームで。
大島は、一樹に背を向けたまま煙草に火をつけ、ふう、と大きく煙を吐いた。
もう少し軽い煙草にした方がいいと一樹に注意される、ショートホープ。
「ありゃ、子猫じゃなくて子虎だよ……うかうかしてたら、聖の方が怪我するぜ」
誰に聞かせるでもなく独り言を呟き、自宅兼土日に趣味で営業している喫茶店でもある、穴蔵のような店に戻る。朝だというのに、採光が悪いせいか、店内は薄暗い。
大島は自分のためにコーヒーミルを回して深入りの豆を細引きにし、サイフォンを準備した。自分で山奥の泉から汲んできた銘水を使い、アルコール・ランプに火をつける。
毎日の日課で、きっちり二杯分。
一杯には、クリームではなくコンデンス・ミルクをぶち込む。もちろん、そっちは大島は飲まない。そんな変なモノを飲む奴は、大島の知っている限りでは一人しかいない。まあ、そいつがいなくなってからは一人もいないわけだが。
そいつの名前は、上泉久。
大島の後輩、一樹の先輩。そして、聖の双子の兄。
目つきは鋭く、肩幅が広く、痩せているが鞭のようにしなやかな筋肉質の体。
いつでも太陽の光を浴びているような、妙に存在感のある男。
学部卒業後、大学院に進学し、将来を嘱望されていた物理学者、だったらしいが、大島はそのことはよく知らない。
大島が知っているのは、ロシア語研究会という、メンバーの誰ひとりロシア語に興味がない真に名ばかりの文系サークルの部長で、馬鹿騒ぎの首謀者、というくらいのことだ。学園祭やらなにやらで暴れるたび、久は、数々の伝説の持ち主になっていた。今なら警察沙汰、みたいなことも多かったが、不思議と人の恨みを買わない男だった。
そいつが死んで、十年。大島は、ほぼ毎日、日課として久のためにモーニング・コーヒーを淹れてやっている。
「俺がこんなことやってるから、聖もお前を忘れられないのかもなあ」
大島は、アルコール・ランプの火で煙草に火をつけて、深々とふかした。
「そして、忘れかけた頃に現れるシルバー・バレット、か。マンガだねえ」
まるで、目の前にいる上泉久と会話しているかのように。
「分かってるって。ちゃんと完調にしてやるよ、お前の宿敵」
大島は、白い、長い、二股に分かれたあご髭をなで下ろしながら、何故か妙に力なく肩を落とした。急に、年相応に老け込んで。
「それで、あの子虎ちゃんが、聖を狼狩りから連れ戻してくれるといいんだけどな……」