誰にもできない役目 第六話(完結)
裁判長から発せられた、きわめて強い圧力の宣告に不安を感じたのか、さすがの凶悪犯も急に大人しくなったように見えた。その感情の揺れ幅は見えなかったが、荒れ狂うような殺気はいつしか消えていった。憎らしい検察側から視線を逸らし、裁判長に向けて一度大きく頭を下げてから、席へと戻っていった。裁判長を勤めるピューロー氏は、その視線も言動も、今のところ、常に冷静を保っており、先ほど起きた、被告人のお世辞にも誠実とはいえない無礼な振る舞いに際しても、特に動揺は見せなかった。加害者がその野獣の仮面を脱ぎ捨て、平静を取り戻し、大人しく席へ戻ったことを確認すると、満足そうに何度か頷き、今度は弁護側に反対弁論を行うように促した。まさに、プロフィール通りの大人物である。
「こんな厳粛な場において、あんな非道な男を、こんなに長い時間をかけてまで審判の秤にかける必要が本当にあるのかしら。私の腑に落ちない最大の部分はそこなんです。つまり、弁護を受けるという権利は、本当に全ての容疑者に対して必要なものなのか、ということです。何の落ち度もない方々を、躊躇もなく三人も殺害してしまったのですから、ここは大法官による判決など待たずに、罪状を認めたその瞬間に、厳しい処断をして然るべきだと思います」
リーナ公女は、これまでの荒々しいやり取りを視察しているうちに、ついに、こらえきれなくなったらしく、そのような憤りの感情が表れてきた。まだ、幼少の頃に身につけた、道徳観や倫理観を逆なでしてくるような事例に出くわしたとき、人は皆、その心に平静を保てなくなるらしい。審判に挑む人々の判断に各々の感情が優先すれば、冷静な議論を形成することは困難となる。たとえ、熱くならずとも、これまでには見られなかった尖った考えを、突発的に示すこともあり得る。身近には絶対に起こりえない凶悪事件を目にするにあたり、ほとんどの人は「これは対岸の火事だ」と達観して、自己の現実と切り離して判断することなど、できないものである。
「確かに、仰る通り。我が国の領土内で起きたとみられる、すべての事案について、厳密な調査を続けることによって、いくらかの証左を得る形で、その都度裁判所の判決によって、丁寧に慎重に、そして、厳正に裁いていくというのは、一見公平に思えるものです。ただ、巨額の人件費や調査費は、時に無駄が多く不合理であり、事件の全面的な解決までには、かなりの日数や困難が伴うこともあります。また、もっとも重視されるべきである、被害者側の心情にとって、必ずしも満足のいく結果が出ない場合もあるでしょう。これまでのように、王の特権の下で、枢密院や貴族院のトップの判断のみで判決を下す。(これには国民の意志や感情にはまったく介在しませんが)このような単純な解決方法を取った方が、たしかに手っ取り早く、その上、事務的に処理していけるでしょう。しかも、この方策は簡潔で、効率が良く、しかも速やかにことが進むわけですから。被害者やその遺族の意志も、その大部分においては、反映させることが可能になるかもしれません。被害者側が加害者側の心情を理解して、同情したり、その生い立ちや動機に同情するといった、きわめてまれな事例を除けば、ですが……」
ディマ氏は隣りでその話に聴き入る公女の感情を、なるべく逆なでしないように配慮しながら、新制度と旧制度の有利不利を丁寧に比較しながら解説した。リーナ公女は、それでもまだ納得のいかない様子をあらわにしていた。
「犯罪を犯した者の人権をすべて剥奪しろだなんて、そんな乱暴なことはとても言えませんけれど、少なくとも、大量殺人犯に関しては、弁護を受ける権利を完全に剥奪した上で、なるべく、被害者側の意志に沿った形での厳しい判決が出るようにと、統治者がその手腕を発揮すべきと思います。こういう問題は他人ごとでは語れません。自分の身近な人を大した理由もなく失う羽目になった家族の一員に、もし私が含まれていたらと思うと、とてもじゃないですが、加害者の減刑を望むことなんて、できませんもの……」
「そのお怒りはごもっともです。単純な金銭目的の犯行であった場合、あるいは、殺害の対象や目的が曖昧な怨恨のために、人の尊厳自体を踏みにじるような、凶悪犯罪を引き起こした加害者については、こちらも容赦はせず、厳しい態度(刑罰)で臨むというのが、あるいは最も公平で、しかも、模範的な対処方のひとつなのかもしれません。
それを裏付けるように、近世までは多くの国が加害者に弁護人を付けることに躊躇し、また、死刑や終身刑や数十丈に及ぶ笞刑など、いわゆる残虐な刑罰を無遠慮に行使してきました。あの血塗れのギロチン台こそが、もっとも加害者の人権に配慮した刑罰である、と言われた時代すらありました。しかしながら、近年になって、咎人に対して、残酷な処罰を科することは、必ずしも次に起こり得る犯罪を抑止していないことが科学的根拠により明らかになってきたのです。それを裏付けるかのように、欧米ではここ十数年において、立て続けに大量の死傷者を出すテロ事件が起きています。それらの事件によって、芋づる式に逮捕されてきた、過激な思想犯たちは、厳しい取り調べの結果、極刑に処せられたりですとか、五十年以上の長期にわたる禁固刑を受けるなど、したわけです。ですが、ご存じの通り、それから十年以上の月日を経過しても、残虐なテロ事件は一向に減少する気配を見せません。そればかりか、数日前にはロンドンの中心部の地下街において、またしても、十数人の被害者を出す手に負えない殺戮事件が勃発しました。こういったテロ事件だけを例として挙げるのは、いささか極端に過ぎるかもしれませんが、国家が犯罪者に重い罰を科することが、必ずしも、犯罪の抑制には繋がらないということが、最近では多数派の主張になりつつあるのです。もちろん、亡くなった被害者やその家族の方々の筆舌に尽くし難い苦しみもあり、これが極度の難問であることは承知しております。ただ、加害者が犯した事例の結果だけを見て、その罪の重さを判断するのではなく、彼がなぜそのような行為を及ぶに至ったのか、その過程と背景には、いったいどんなにおぞましい事実があったのか、を検察側と弁護側が顔を向き合わせる形で真剣に討論することが、十年後、二十年後の市民の安全な未来を、今度こそ形作る上で重要なことなのかもしれません」
リーナ公女は自らの問いかけに応えるために為された、その見事な論説に感服して、しばし言葉を失ってしまった。その向こう側に座っていた国王夫妻も、もちろん、このディマ氏の弁論を興味深そうに聴いていた。
「素晴らしいご説明をありがとうございます。人が人の権利を奪い、その行いを裁くことの難しさ、それを認識することが本当の民主主義なのですね。これからも貴方が先頭に立ち、この国の司法を導いてください」
国王は自らが統治する国の法律学が、そこまで進歩していることに大変満足した様子で、従者を通さず、直接、ディマ氏に声をかけた。
その頃、壇上においては、すでに弁護団による、検察側の罪状説明への反論が行われていた。それに引き続いて、弁護人のひとりが、被告人のこれまでの人生を振り返り、それを深く掘り起こす議論に持ち込むことによって、裁判官の同情を引き出し、極刑を何とか回避しようとする、懸命な策動が行われていた。被告人は両親が早世したことから、幼少から耐え切れぬほどの貧困にあえぎ、生活苦のために仕方なく数々の軽犯罪に及んできたこと。また、義父からは何の理由もなく日常的に暴行を受けた過去もあった。学業においては、頭髪や服の汚れを理由に、教師や同級生からの執拗な差別を受け、悩みを聴いてもらえるような、頼れる友人知人は、ほとんどいなかった。
そういった過去により、精神を深く病み、何ごとか起こると、激情しやすい性格に変わっていったこと、などの詳細が報告された。また、大学病院の医師による、複数の精神病に罹患し、それぞれが重篤である旨の手書きの診断書数枚が証拠として提出された。しかし、被害者は若い女性ばかり三名であり、しかも、財布から金を奪われた形跡はみられなかったことから、弁護団が減刑を狙って掲げた、これらの根拠は、いささか説得力に欠けるものであった。
弁護団がその役割を終えると、最後に被告が裁判長の前に立ち、自ら犯した罪への弁明と被害者への謝罪を述べる儀になった。観衆が一様に驚きを示したのは、先ほどまで荒れに荒れていた、凶暴な被疑者の態度が、まるで、猛獣用の強力な鎮静剤でも撃ち込まれた直後のように大人しくなっており、裁判官や弁護団の指示に従順になっていたことである。ほとんどすべての観衆が、これは身に迫る死刑への恐怖を、遅まきながらも、徐々に感じ始めたからではないのか、と疑った。「今さら、低姿勢になっても、極刑は免れられんぞ」と念じた聴衆も多かったはずである。
その猛獣はしばらくの間、何も言葉を発さなくなった。言い知れぬ不安のためか、ここに乗り込んできたときのような覇気はすでになく、うつむき加減で、激しい後悔のために、その身を細かく震わせていた。ただ、自分の命が法律に則る形で正式に救われるためには、この国最高の審判者である、裁判長による幾ばくかの慈悲を含んだ判断を願う他はなかったのだ。
『この度は、取り返しのつかない過ちを犯しました。この先、何十年かかったとしても、被害者様の家族の皆様への謝罪を続けることで、罪を償っていきます。どうか、命だけはお許しください』
彼は減刑を強く訴えて、いつしか後悔の涙を流していた。これまでの乱暴な振る舞いのすべては、どうやら、過去に自分を追い詰めていった社会に対する反抗心と、「今さら、謝罪を示したところで、どうせ、極刑は免れるまい」という極度の失望感から生まれてきたことが分かる。これらは弁護団によって周到に準備されてきた台詞とは、とても思えない真剣さと重さを持っていたからだ。冷酷な殺戮者でも、究極の権力の杖によって降り下ろされる、己が生命への審判を前にして、その心中に激しい動揺を見せたのだった。この謝罪の様子を固唾をのんで見守っていた、聴衆の中には、この犯罪者の涙に同情して、「必ずしも、死刑に処することだけが、重大犯罪解決への道ではない」と考え始めた賢明な者も、あるいはいたのかもしれない。
いよいよ、最終判決が下される時が来た。ほとんどの聴衆は「犯行の残虐さから、死刑判決もやむなし」との単純な想定を持っていた。それでも、誰もが体験したことのない、初めての民主的裁判による判決である。その意を汲んで、予想外の決定が下される可能性は十分にあった。厳罰を与えることだけが未来に起こるであろう、さらなる悪行を防ぐ有効な術には、必ずしもなり得ないのだから。王族も貴族も、裁判長が間もなく繰り出すこの判断を、固唾を飲んで見守っていた。その中で一人、リーナ公女だけが、なぜか、判決文の内容への興味というよりかは、むしろ、演台に上っている大法官たちの立ち居振る舞いにいくらかの興味を持ったらしく、少し、不思議そうな表情をして、また、何度か首を傾げながら、判決に至る過程の様子を伺っていた。王家きっての聡明さで知られる彼女の、その不可解な態度には横でその空気を伺うディマ氏を、少なからず不安にさせるものがあった。
裁判長は演壇の上で厳かに立ち上がると、主文の冒頭で力強くこう述べた。
『被告人を極刑に処する』
この最も重大なひと声を受けて、一般席からは大いなる驚きとも、賛同ともとれる、鋭い多くの歓声が上がった。命まで奪うことはないのではないかと考えていた者も、上から見たところ、三割程度はいたようで、ある意味では、神以上の権力を持つに至った、裁判制度の残酷さに、彼らは力なく何か独り言を呟き、横にいる連れ添いに小声で何か伝えた後、大きくため息をついていた。裁判長は間髪入れず、判決理由を読み上げ始めた。そこでは、身勝手な理由から、三名もの人間を殺害するに至った被告の責任は極めて重大であるとしながらも、いかなる非道極まる犯罪行為にあっても、その被告人は自身の減刑や冤罪を求める権利を失うことは決してないと、高らかに述べていた。
その上で、正当な理由を何も見出せないまま、愛してやまない家族を無残にも失うことになった、被害者の親族の心境を最大限に考慮した上で、死刑やむなしとの結論に至ったことが報告された。判決を聞き入れ、被告人は憔悴しきって床にへたれ込み、やがて泣き崩れた。弁護人が何とかそれを励まそうと歩み寄っていった。被告人は裁判長と観衆に向けて深く一礼すると、警備員に左右から付き添われながら、この会場を後にした。場内は今日一番の大拍手に包まれた。
ディマ氏も一つの大きな仕事をやりきった裁判長に対して、ある程度の敬意を示すために、人知れず小さな拍手を送った。今回の式典では、加害者側の登場人物のすべては、雇われの役者であるから、これは半ば予行練習のようなものである。法律の一片すらもろくに知らず、今日初めて任務に就いたばかりの、件の裁判長が、その緊張のあまり、下手を打ったとしても、周囲の優秀なスタッフが、それをどうにか助けてくれるはずである。それでも、一時間にも満たない、僅かな練習期間で、あれだけの仕事ができるのであれば、これはもう、明日からはわざわざ演技派の役者などを雇ってくる必要はないな、とそうも考えていた。あえて、そのことを伝えずに、数人の本職の囚人をこの場に混ぜ込んでみても、さしたる問題は起きそうになかった。
「素晴らしい裁判でした。特にあの裁判長の名調子。慣れない法官では、なかなか、あそこまでの説得力は出せませんわね……」
すぐ真横では、リーナ公女が深く思いを巡らすように、静かにそう呟いた。彼女の鋭い視線の先は、新しい裁判制度そのものよりも、裁判官を演じている、ピューロー氏個人の一つひとつの振る舞いがあるように見受けられた。王族の方々の個々の能力に対して、ディマ氏をはじめとする臣下が興味を持つことは、本来許されることではない。しかしながら、この公女に関しては、類い稀な知性をお持ちである、との噂話を密かに聞き及んでいる。「こちらの策動が、ある程度、見透かされているのかもしれない」ディマ氏は心中の奥深くから、小さな泡ぶくのように沸いてきた、嫌な予感を消すことができずにいた。
そうこうしているうちに、二人目の被告人が議場に入ってきた。観衆は皆、再び沸き起こる歓声に導かれるように、その方向に視線を向けた。貴賓席に陣取る王族のお歴々も、一様にそちらに向けて首を傾けた。その刹那、リーナ公女は身体を大きく仰け反らせて、背もたれに寄りかかるような形で、我慢しきれぬように、けたたましく笑い始めた。二階を徘徊していた数名の警備員が、緊急を知らせるようなその声に反応して、これは何事かと振り返った。周囲の王族や、高級官吏たち、また、その関係者は、いったいどういうことなのかと、一様に驚きを露わにしていた。この突拍子もない騒ぎは、高波のように一番端の貴族席にまで瞬時に到達していった。
「公女様、いったい、如何なされました? 何か、可笑しなことが……、ご気分すぐれませんか?」
ディマ氏はさすがにいくぶん心配になり、官吏の立場で公女にお声をかけることを失礼とは知りながらも、そばに居る立場から、話しかけてみることにした。
「ええ、ごめんなさいね、わたしったら……、ごんな大事な席で。今は歴史が変わる瞬間。大事な大事な裁判の真っ最中ですものね。でも……、つい、ふふふ、ははは……」
彼女はこの裁判の全体の流れに、当初からある不審を抱いていたが、突如として、ある突拍子もない閃きからその解答が心中を鋭く突いたらしく、自分の意思では、なかなかその笑いを止めることができない様子だった。
「リーナ、いったい、どうしたというの? こんな大事な場で……、そんな下品な笑い方をするなんて……、いいですか、すぐにおやめなさい。今日がどんなに大事な日か分かっているはずでしょう? 我ら皇族にとって、年に一度、有るか無いかの仕事の日なのよ。他の日なら笑いなさい。でも、この場だけは、どんな理由があれ、そんな失態は、とても許せませんよ!」
皇后はこの異変をすぐにでも収めようと、すぐ横から、仕方なしに叱りつけることにした。国王の一家が、厳しい叱責を含んだ、このような激しい感情のやり合いを行うというのは、当然のことながら、きわめて異例であった。しかし、それでも、リーナ公女は腹の底から次々と湧き起こる笑いを、こらえることが出来なかった。
ここで説明するまでもなく、彼女は決して不作法でも不謹慎な女性でもない。緊張のあまり、突如として気が触れたわけでもないだろう。皇宮においても、常に慎み深く、何事にも気品あふれる振る舞いにより過ごされていることで知られている。つまり、それなりの看過できない理由のために、この厳粛な場において、お笑いになっているわけだ。彼女が気がついたのは、この儀式全体の仕組みのことである。貴賓席にも一般席においても、これだけの才能家や有識者が揃っていながら、「そのこと」に気づいたのは、この時点で彼女一人であった。ディマ氏としては、会場に集められた上流階級のすべてを騙すつもりで、大博打を打っていたわけである。
国王陛下は、ひとり娘の大失態に際し、すっかりあきれ果てるしかなかった。しかし、今から自分が慌てふためくことで、この場を収めても、官吏たちの不審は拭えないだろう。「だが、うちの娘は幼少の頃から来賓館でもって、金属製の野球バットを容赦なく振り回し、国宝の壺を散々叩き割ったいわれがあるから、さもありなん」か、と目の前の現実に軽く失望されているようだった。この期に及んで、王族の誰かが突然立ち上がり、頭ごなしに叱りつけることで会場から連れ出すわけにもいかず、もはや諦めの境地に陥り、すっかり弱り果てていた。これは国民全体の行事である。国王親族一名の錯乱によって、この重大な儀式を台無しにすることはできないのだ。すなわち、面倒なこと、解決不能に思われることは、すべて部下に任せて、自身は、まだ何も気づかないフリを決め込むことで、現在続いている裁判の進行にだけ、心ならずも注目することにしたのだ。これはきわめて賢明な判断であり、横並びしている王族の他のお歴々も、それに習うことにしたのだった。
リーナ公女は、懐から白いハンカチを取り出して口元を抑え、身体を左右に大きく振りながら、そのまま無邪気に笑い続けた。それだけでは済まない。驚くべきことに、周囲にはなるべく気づかれぬよう、ディマ氏の肩にもたれかかってきた。この式典の総監としては、もちろん、当惑を隠そうとはしなかった。側近として、このような事態を黙認することはできず、公女に対して、何度も優しく声をかけることで、心からの忠告により、正気へと立ち返らせようとした。そのうちに、リーナ公女の愛らしく、いたずらっぽい目と視線が向き合う形となった。彼女はディマ氏にほほ笑みかけて、彼にしか届かぬほど、小さな声で、驚くべき説明を始めた。
「この場の厳粛な雰囲気に飲まれ、緊張のあまりバカになったわけじゃないのよ。今回の一連の作為に、最初から気づいていただけのことなんです。貴方は実際大したお方です。でも、そろそろ、すべてを話してしまっても、よろしいですよね? ここまでの進行に、かなり満足しているように見えたものですから……」
「姫様、いったい、何を仰るのですか。これは、今現在、その目でご覧になられているように、裏表のないありのままの式典です。誰も、何者も、騙そうとはしておりません。正気を御保ちください。今、冷えた飲み物をお持ちしましょう。とにかく、気を落ち着けてください」
ディマ氏は、近くに待機していた数人の従僕を呼びつけて、冷たい飲み物を出して差し上げるようにとの指示を出した。この事態に勘付いていた、他の役員たちは、その慌てふためく指令を待たずして、すでにその準備を始めていたので、数分と待たずして、公女は丸い氷の入った冷水のグラスを手にしていた。ひと口それを口に含むと、実に楽しそうに、そして、ある決意を込めた表情で再び話し始めた。
「わたくし、幼い頃から独学で演劇の勉強ばかりしておりましたの。週に一度だけ、画面の向こうで会える、グレースケリーに陶酔していましたので……。両親からは、王族の血族にある者として、ピアノや語学を率先して学ぶようにと、ずいぶんと反対されましたけれど」
リーナ公女は、そこで一度ディマ氏の表情に浮かんだ戸惑いを確認して、軽く目配せをした。
「将来は演劇場の舞台に立てるような、名のある女優になれれば……、と考えたこともありました。シェイクスピアやディケンズの物語の上で、この自分が役者として演じることができたなら……、と。でも、それは到底叶わぬ夢でしたわ。十五歳にも成らぬうちに、自分の夢が如何に非現実的で荒唐無稽なものなのか、否応なしに気付かされました。遺憾ながら、世が世なら私は王位継承者です。心に秘める大衆的な願望については、すべて諦めねばなりませんでした」
公女はそこでわざと右側に視線を移して、国王夫妻が、自分の愚かな行為にはすでに興味を無くしていて、舞台の上で引き続き執り行われている、二回目の裁判の過程に、すっかり気を取られていることを、今一度その目で確認した。そこでは、次の被疑者が舞台に上がり、それを追い詰めようと、検察側のしつこく辛辣な長口上が、すでに始まっていたのだった。見たところその案件は、貴金属店からの窃盗事件のようであった。リーナ公女は、それにはさしたる興味を示さなかった。
「わたくし、高等学校に進む頃には、もう演劇には携わるなと、両親から厳しく叱りつけられましたの。でも、時折、心ある従僕を騙して……、いえ、従順な彼らを騙した、なんていう表現はあまり良くないかしら……? とにかく、彼らをうまく諭して、一般の裁縫店で購入してきた、ありふれたワンピースに変装して、窓から下の花壇に向けて飛び出し、そのまま、広い庭を突っ切って、城壁をよじ登り、国立劇場まで駆け抜けて行きました。もちろん、あらゆる手段を駆使して、自分の行動を両親には知られないようにする必要がありました……」
リーナ公女は、そこで一度言葉を止め、ディマ氏の方に向き直って、いたずらっぽく肩をすくめた。それは未だ捨てきれぬ幼さを披露したいようにも、また、自分の勝ち筋を疑わぬ彼の思惑を上回ってみせた勝利者のポーズにも見えた。
「でも、数回も通わぬうちに、それもすっかり駄目になりましたの……。両親にばれないように、それを続けることは叶ったのですけれど……、何度か通ううちに、常連の貴族階級のお客さんや、舞台俳優さんが、誰から入れ知恵されたのか、わたくしのことを覚えてしまったのです。わたくしが訪問するときには、なぜか一番前の席だけがぽっかりと空いていたり、閉幕後に一番人気の俳優さんが舞台から降りてきて、この両手に豪華な花束が贈られたりするんです……。明らかに不自然ですよね。自分だけが特別だなんて……、さすがに嫌になりました……。大胆な行動によって、つかの間の自由を得ることはできても、家柄は家柄、血統は血統です。どうあがいても、庶民の真似事など、上手くはいかないものだと、そう思い至りました」
ディマ氏にとって厳しい時間が流れた。寸分の過ちも犯したつもりはないのに、いつの間にか、極寒の氷河に置いていかれて、抵抗もできない自分の肌は、暖を取る術もなく、次第に凍り付いていくような感覚であった。彼は少なくとも、今回の策動に関し、すべての可能性を考慮に入れたつもりでいたのだ。
「ストロール=アジャルさんという方をご存知でしょうか?」
「いいえ、たいへん失礼ながら、まったく存じません。いずこの官吏のお方でしょうか?」
ディマ氏は精神的に追い詰められていたので、物事を深く考える余裕を持てなかったようだ。リーナ公女は、その正直すぎる返答を受けて、これはしてやったりと、再びこらえきれなくなり、身体をゆすって高笑い始めた。ディマ氏は不思議でたまらくなったので、丁寧な態度により、ご令嬢に詳しい説明を求めた。
「アジャルさんは第二市街の片隅にある、小さな演劇場の役者さんですわ。よろしければ、もう少し、説明を加えましょうか? つい先ほど、あの演舞台の上で、三人の女性を殺害した容疑を受けながらも、散々暴れていた、残虐な殺人犯人の方ですわ」
ディマ氏はこの瞬間、奈落の底へと叩き落されたような、きわめてありがたくない感覚を得ていた。この国の司法の頂点に君臨する権力者の、普段は絶対に見られない、驚きの表情に際して、公女は両親をトランプゲームで負かしてみせた子供のように、いたく満足げな顔をされたのだった。
「今、舞台に上がって、検察から厳しく追及されている宝石盗人さんは、同じ劇場に長年勤める、ペレットさんですわ。もちろん、お二人とも、ここで裁かれるような、許しがたい犯罪をされるような方ではありませんの……。貴方は行政のトップにおられる方ですから、被告人役に実力派の役者を配することは、部下への指令として、お出しになったのでしょうけれど、そのお名前までは、いちいち確認しておられないと思っていました。いったい、お二人をいくらで雇ったのですか。時給五百セントくらいでしょうか?」
「しかし……、王族の方が、まさか、下町の演劇場にまで足を運ぶとは……。リーナ様、私とて、これらすべてのことを浅知恵によって考え出したわけではありません。高額で名を馳せる人気俳優など、ひとりも所属していないような、それらの劇場には、今日来場されているような、貴族や華族の方々にとっては、アマゾン流域の未開の地同様であります。彼らが一度も足を運んでいないことを、確実に調べてこその目論みだったのです」
リーナ公女はそのことについては一定の同情を示した。
「王立劇場へ立ち入ることができなくなっていた頃、私はさらに演劇というものに傾倒していました。ストーリーや役者の知名度、舞台の演出のみならず、彼らが貴重な呼吸とともに発する、一言一言の台詞に、深い感銘を覚えるようになっていたのです。幼少の頃の学習の機会に読まされた『ハムレット』や『クリスマスキャロル』よりも、自分の目の前で生き生きと動いてみせるそれらの方が、完全に本物であったからです。今や、演劇の研究はわたくしのライフワークです。王族という名に負かされて、それらを取り上げられて、「はい、そうですか。もう、通うのはやめます」というわけにはいかないのです。私は市民の寄付によって建てられた、小さな演劇場にまで足繁く通うようになりました。もちろん、今度はさらに念入りに変装する必要がありました。宮殿の一室に押し込められている時も、暇さえあれば劇場のパンフレットを眺めていました。第二市街界隈の役者さんの、ほとんどすべての名前と役名を覚えました。もちろん、私の親族のなかに、このような趣味を持っている方は自分の他には知りません。ですから、これは今日の舞台を用意してくださった、あなた方にとっては、逆に不幸であったのかもしれないですけど……」
彼女は無罪判決を受けた被疑者のように、勝ち誇っているようにも見えた。しかし、ディマ氏はリーナ嬢が、ことの真相を国王陛下やその側近連中に告げ口するような人間には、とても思えなかった。そこで、今日の壮大な企みを指揮する者として、その遊び心に少し付き合ってみる気にもなった。
「しかし、第二市街の名もなき役者が、ここ数日の間に、突然その心を悪に染めて、数々の残虐な犯罪を犯して、ここに連れて来られたという悲劇についても、まったく、考えられなくはないと思うのですが……」
リーナ公女は行政長官の意を汲んで、気品のある微笑を浮かべながら、次のように仰られた。
「ああ、それは、当然そうですね……。この議論に決着をつけるならば、あらゆることを考慮に入れねばなりません。しかしながら、その可能性については、まったく考えなくても、良さそうに思えるのです」
公女は目の前のお盆の上に置かれた、水滴に曇ったグラスを、もう一度持ち上げて、その中に残されている水をゆっくり飲み干し、口紅を丁寧に拭き取り、空になったグラスを傍にいた従僕に手渡した。
「裁判長の経歴を紹介するくだりで、たしか「ソルボンヌ大学に十五年間勤務」とありましたけれども……」
公女はそこでもう一度言葉を止めて、ディマ氏に同情するような温かみのある視線を向けた。
「わたくし、高等学校を卒業後、ソルボンヌ大学に三年間留学していましたの。でも、あの裁判官の方、ピューロー氏とおっしゃるようですけれど、あの方のことを、まったく存じ上げませんの……。レジュメには、首席で卒業とありましたが、それならば、当然、私の耳にも入るはずです。同じ肩書きを持つ者として……」
どんな上級官吏であっても、知識人であっても、やることなすことが、まったく上手くいかない日もある。ディマ氏は、もはや打つ手もなく頭を抱えるしかなかった。しかし、ここで絶望に打ちひしがれて、国家的イベントを不意にしてしまうことも、すべてが事前に仕組まれた芝居であったことを、国王に正直に打ち明けることも、得策であるとは言い難かった。
「急ごしらで作られたシナリオのようですけど、その割にはよくできています。ただ……、鍵になる登場人物の素性に関する情報量が……、少し、多すぎたようですね」
リーナ公女は、その言葉を言い終えると、その表情は再び真剣になり、先ほどまでの無邪気な笑みはふっと消え失せ、今は公務に機械的に携わる、皇族のひとりであるその姿を見せていた。その凛とした姿にディマ氏は見苦しい弁解の言葉を失うことになった。これ以降の長ったらしい言い訳は、すべて無用なことのように思われた。暴かれてしまった事実については、すべてあきらめ、舞台の次の攻防に注目した。裁判長を演じるピューロー氏は、決して上級官吏たちが期待していた人格者ではなかったが、良い意味で只者ではなかった。如何なる加害者の挑戦を受けても、渡されたレジュメを特に見ることもなく、一定のリズムに則って、次々と名判決を下していった。その度に、被告人はすっかり白旗を上げてしまい、会場は感激と驚きのため息に包まれた。
式典が終わりに近づく頃、アレク・ディマ氏は議事の進行のほぼすべてに満足していたし、ようやく肩の荷が下りた気もしていた。特に、あの急ごしらえのピューロー氏については、もはや、畏敬の念すら抱かざるを得なかった。
「あの男は昨日まで家畜も畑も持たない、どこにでもいる百姓のひとりだったのだぞ。それが、今は我が国唯一の裁判長として演台に立っている。どこの優秀な官吏に、そんな真似が出来るというのだ?」
裁判の議事はすべて終了した。後方の席で見ていた多くの貴族のせがれ(ほとんどが何の才もない、金を湯水のごとく使うことしか能のない、立派なドラ息子だが)が王族を見送るために、呼んでもいないのに、わざわざ二階の神聖な空間まで降りてきた。そのまま、リーナ嬢の周囲に集まり、「素晴らしい裁判でしたね」「今日が民主主義の本当の始まりの日ですね」などと、ぜひ、そのお返事を頂こうと、遮二無二声をかけていた。
公女はにこやかな笑みで、それら凡夫の声に応えると、従僕に身体を支えられながら、蒼く透き通るそのドレスに、なるべくしわを寄せないようにと、ゆっくりと立ち上がった。ディマ氏も立ち上がり、公女の背中に軽く礼をした。親の権力だけでこの場にいる、くだらない貴族たちのように、麗しい公女による、何らかの反応を期待していたわけではない。国王夫妻はゆっくりと席を離れ、下階の大衆に向けて、その手を大きく振りながら階段に向かっていく。その親族方は後に続いて、いっそう華やかな列を作っていく。もちろん、麗しきリーナ嬢が、ディマ氏に対しても、それ以外のやりきれない貴族連中に対しても、この別れに際して、何らかの反応を示すことはなかった。あの僅かな時間の間、公女が見せた数々の無邪気な振る舞いは、きっと幻覚だったのだ。
翌日の大手新聞各紙には、このたび催された、わが国最初の民主的裁判についての詳細が一斉に報じられた。その記事の中では、この大規模で荘厳な儀式は、王族や名のある大貴族を筆頭に、我が国を代表する名士が各地から集い、華やかで、格別の緊張感をもって執り行われたと紹介されていた。ここであえて付け加える必要はないが、これらの記事はすべて事実を記していると考えねばなるまい。
一週間が経過した頃、この儀式についての関連記事がいくぶん小さめではあるが、いくつかの新聞紙上において、追加の形で取り上げられた。それによると、枢密院はその定例会議において、王室の許可を得た上で、行政庁の長官である、アレク・ディマ氏に対して、国家における最高の栄誉である、永年十字名誉勲章を贈与することを決めた、とのことである。
最後まで読んでくださり、まことにありがとうございます。この作品の他にも、いくつか短編小説を掲載してありますので、興味のある方は、ぜひ、そちらもご覧下さい。